偽の浅瀬と偽の魔女
若干ですが、残酷描写あり。
こちらは連載中の「五花陸の物語」に登場するある家族が何の憂いもなく幸福だった頃の炉端語りです。
むかし、昔。
火矢川のほとりに小さな村があったそうです。
大きな地図にはのらぬ小さな村でした。対岸に渡るのにちょうどいい浅瀬に面した村でした。大きな荷を積んだ馬車などには渡りにくいゴツゴツとした岩場でしたから大きな商隊は通りませんが、一人で荷を担ぐような行商人や近隣の者には重宝されていました。
当時は、村には宿屋があり飲食店も数件あって、程よく繁盛していたものです。
その宿屋には娘がおりました。行商人がくるたびに衣装と髪飾りを買うことを許されていました。顔立ちも悪くなく、毎日時間をかけて髪を調えて、念入りに化粧をして、着飾っていましたので、両親も村の者も宿屋に泊まる客も、みな可愛らしい娘だと誉めました。
宿屋にはもう一人、娘がいました。
宿屋の主の、前の妻が生んだ娘でした。その妻は、宿屋のさきの主の娘で、いまの主人は婿でありました。家付き娘の妻が亡くなったのは彼女の娘が十歳になったころでした。ほとんどすぐ対岸の村から迎えた後妻には七歳の娘がいました。浅瀬の具合を確かめるとよく対岸の村に渡っていたのはそのためか、と後妻に伴われた娘の顔を見て、村の者たちは得心するのでありました。対して、前妻の娘は眉のあたりを覗けば、亡くなった母親に似ていました。
さて後妻は、前妻の子から日当たりの良い部屋を取り上げて階段下の小さな隙間に追いやりました。おや、聞いたことのある展開だ? そうでありましょう。古今東西の継母の振舞いとして定石でございますから。
隙間に入らないいう理由で持ち物の殆どを取り上げて、身体を動かさないと丈夫な子になれず母親のように早死にすると主張して、刺繍針と本の代わりに箒を与えました。だから、動きやすいようにと粗末な着物を着せました。どこから見ても下働きにしか見えなくなり、本当は由緒正しい血筋なのにこうして上の娘は、ぼろを纏い埃と煤だらけになって働き続けることになったのです。
母親が大事にしていた小さな手鏡を姉娘は隙間に持ち込んだのですが、いつだったか、それを覗いているところを義母に見とがめられて、ひどい説教のうえ、取り上げられてしまいました。義母は妹娘にそれを与えましたが、古いそれにまったく興味を示さなかった妹娘が、癇癪を堪えきれずに色々投げ付けたものの一つがそれでした。割れて、用をなさなくなったそれは割れた花瓶やティーカップなどと一緒にゴミ捨て場に持っていかれましたが、姉娘を気の毒に思っていたとある女中が、そっと拾って姉娘の隙間に入れてくれました。
細かく割れた鏡面はもう役には立ちませんから、姉娘は、毎日水汲みの時に桶の中にぼんやりと写る自分の顔を見て、手櫛で髪を結ぶくらいの身支度しかできませんでした。暗い、雨の日には水鏡は写らないので、その日の身なりはますますひどくなります。
そんな雨の日の廊下で、本当に本当に久しぶりに父親である主人と娘は行き会いました。煤けて、ぼさぼさの髪の娘を、声を聞くまで娘と気づけませんでした。
「あの娘はどうしてあんな鳥の巣のような頭をして、案山子でも着ないような服を着ているのだね?」
父親は後妻に聞きました。
「ものぐさ者なのですよ。」
素っ気なく後妻は言いました。
「あたしも声をかけてますが、生さぬ仲のあたしの言葉なんて聞きやしません。」
むしろ姉娘は言いつけをよく聞いているから、そんな姿なのです。
「そうかい。」
父親は村長になりたくて、村の者たちに働きかけるのに忙しくしていました。
「おまえが気にかけてくれていることは分かっているよ。でも、あれはいけないよ。うちの廊下をあんなものが歩いていては、お客様に失礼だしうちの評判に関わるからね。何とかしておくれ。」
そして父親は寄合に出かけて行きました。
後妻は仕方なく、そこそこちゃんとした(けれど古い)衣服一式と、歯の欠けた櫛と刃こぼれしたナイフ、ちびた石鹸とかたくなったタオルを姉娘に渡しました。
「お客様が、おまえのような不潔な者がいる宿には泊まりたくないと仰せだよ。」
宿屋には浴場が備えられていましたが、勿論使わせる気はありません。
「川に行って体を洗って、身なりを調えるまで戻ってくるんじゃないよ。」
後妻は夕食の下ごしらえが終わるまで姉娘をこき使ってから娘を追い出したのです。春の終わりの時分とはいえもう辺りは暮れかかっておりました。そして雨の気配を帯び始めた、昏い灰色の雲はいまにも最初の一滴を零しそうでした。
姉娘は渡された衣服などをぎゅっと胸の前に抱いて、サイズの合わない靴をパタパタと鳴らして、宿の前の路を歩いていきました。
それが、姉娘の最後の姿になりました。彼女の足音を追うように降り出した雨は、しとしとと降り続き、日付が変わるころに静かに上がりました。
ぼんやりと霞む月が道を照らしても、朝もやが立っても、姉娘は宿に帰ってきませんでした。
※
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※
「・・かわいそう、」
じ、と目を瞠って話を聞いていた幼い娘が呟いた。
重厚な造りの部屋でも、微かに雨音が耳に響いてくる。つまり、なかなかの豪雨になっていた、とある日のお茶の時間だった。
朝から守備隊とともに領地の見回りをしていた男は、それを別隊に引き継いで一息をついていた。お昼寝から目覚めた娘が嬉しそうに寄ってきて、お話をねだった。
「こわいお話、違う。」
要望と違って、娘は不満そうだ。
「そうね。ある意味、こわい話ではあったかしら?」
刺繍針を動かしながら共に聞き入っていた男の妻は、隣に座った娘の髪を撫でて、その向こうにいる夫に意味ありげに微笑んだ。
「なにかな?」
「いいえ、他人事とは思えないところがあって。」
「・・どういう、」
と、言いさして、家付き娘に婿入りした男は娘の頭の上にある妻の手に手を重ねた。
「誓って、おれには君だけだ。この子を、一人で浅瀬に行かせることがあってたまるか。」
娘が見たのは、部屋の端に控えていた乳母はあらあらという顔をして、若い侍女たちが顔を赤くしたり目を伏せたりしている様子だった。それは父と母がとても仲良くしている時のことと察して、娘はそのまま動かないことにした。
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姉娘がいなくなっても、宿屋にも村にも、表面上、何も変化はありませんでした。
お情けで置いてもらっていた娘がひとり逃げ出したくらいにしか、他の使用人は思っていませんでした。はじめはお嬢様のことを気の毒に思って、鏡の件のようにそっと手助けをする者もありましたが、そういう心ある者は義母と合わず、次々に辞めて いき、もう姉娘がこの宿屋の正当な跡取り娘だと知らない者たちばかりとなっていたのです。
野菜の下洗いや皮むき、竃の煤払いやゴミ片づけなど、何でも言いつけられる便利な相手がいなくなったことに彼らは苛立ち、互いにそれを押し付け合って、ぎすぎすした空気が常に流れるようになりました。
裏方のそういう空気は、やがて表にも流れ出します。
居心地のいい宿として評判でしたが、清掃や接客に小さな苦言が出始め、そして不満になり、苛立ちになり、文句となる。
そこまで波立ってしまえば、元通りの評判に戻すのは、まずは主人がしっかり心根を入れ替えて、一から始めるつもりでなければ叶いません。
婿に望まれるくらいでしたから、決して能力のない男ではなかったはずでしたが、残念ながら主人はそれを思い出すことはなかったのです。
主人は、使用人をしっかり監督しない後妻を責めて、後妻は村長になるためと言って出かけてばかりだった無責任を責めました。
宿の雰囲気はますます悪くなり、使用人たちは見切りをつけて出ていき、お世話ができないから迎えられる客の数も減らさなければなりません。
やがて、何とも煤けた雰囲気を漂わせた宿に泊まるのは、値段の安さだけを問う客やガラの悪い客たちばかりとなったのです。
妹娘は、それでも家の手伝いの一つもせずに、カフェに出かけたり買い物に行ったりするだけでした。両親は溺愛する娘にはこれまで通りの生活を送らせていましたが、小間使いはお給金があまりに遅れるもので、辞めてしまい、買い物もツケが溜まりすぎて断わられるようになりました。お茶会のお誘いもなくなり妹娘は、両親に癇癪を起こしましたが、どうなるものでもありません。
ある雨の夜でした。
夕食の営業も終わって、戸締りをしようという頃に客がやってきました。粗末な身なりの行商人でした。
閑古鳥が鳴いていた宿屋でしたが、連日降り続いていた雨のため瀬を渡れない足止めの逗留客が仕方なく、暖簾をくぐっていました。
雨は強くなっていました。春は浅く、野宿は堪えます。他の宿はもう戸締りを終えて灯を落としています。荒天の中を旅してきたのでしょう、疲れた様子の行商人は泊めてほしいと頼み込みました。
部屋は実のところ空いているのですが、見すぼらしい、一見の行商人のために、掃除の労を取る気はありません。
お気の毒に、と笑みを貼り付けた主人は普通の客室に泊まるほどの代金を取って、あの階段下の小さな隙間に案内したのでした。
あの小さな姉娘は何とか寝ることができていましたが、痩身とはいえ大人の男ですから、ぎりぎり体を押し込んで、壁に寄り掛かって休むのがせいぜいでしょうか。
行商人は少し眉を寄せましたが、嵐の中、屋根のあるところに居られるだけマシと思ったのか、黙って頷きました。
「風が強いですからな、ちゃっちゃとやって、灯をすぐに消してくださいよ。」
広いところで荷物の整理をしたいという申し出に、主人は廊下の端の、昔は花瓶を置いていた台あるところを示して、小さな燈台を渡しました。
行商人は背に担いでいた荷を丁寧にそこに下ろし、濡れた旅装を解きました。
妹娘が二階を通りかかったのは、それから少し後のこと。家族用の浴室から自室に戻る途中でした。小間使いがいた頃は、丁寧に櫛梳らせていて王都のお嬢様方が使うと喧伝されたオイルを使って調えていたのですが、ぜんぶ自分でとなると生来のものぐさが頭をもたげます。適当に梳かして、オイルも適当にかけて、ちゃんと乾かしもしないから、艶というよりベタついてコシのない髪になっていますが、当人は気づいていないようです。
階下に小さな灯りがついていて、何気に覗き込み、それから息を殺しました。
顔は陰になっていて見えませんが、手袋をした手が丁寧に持ち上げては下ろす、キラキラした輝きに釘付けです。
箱いっぱいのそれに、妹娘は唾を飲み込み、そうして、足音を潜めて両親の部屋に向かいました。
次の日は晴れました。
晴れたからといって、すぐに瀬を渡れるわけではありません。むしろ、雨上がりは水嵩と流れは増しますし、転がった岩や砂場の位置も変わってしまい、渡りに適したルートも変化します。
大きな渡し場ならば専門の役人が判断するものですが、ここでは宿屋の主人たちの役割でした。
緑の匂いがする、陽も明けきらぬ早朝。宿屋を営む者たちが、連れ立って瀬に向かっていきました。
「おや、『青白い馬』亭さんは?」
「戸は開いてましたから、先に行かれたのでしょう。ほら、足跡が。」
「二人分、ですな。気の早い旅人がいるのでしょうか。」
「あの降りようでは、今日の夕、いや明日の朝までは難しいとはおもうのですけれど。」
のんびりとぬかるんだ道を行きます。
眼下に川が見えてきました。いつもならば、岸である部分に水が上がっていて、水嵩も目に見えて多い。これは川岸まで行かなくても結論は出た、と目を合わせた一同でしたが、川べりに見知った姿を見つけて、おおーい、と声を上げました。
「無理じゃろぉ!?」
声に、ゆっくりと『青白い馬』亭の主人はこちらを振り仰ぎました。ちょうど差してきた朝日でその表情はよく見えません。
ぶんぶん、と慌ただしく手を振っています。
子どものような仕草でしたので、どうしたのか、と首を捻っていましたが、切れ切れに届く声と振り回される手の示す先を見て、主人たちもその異変に気付きました。
岸辺の小ぶりな岩の陰に倒れ伏した人影のようなものが見えたのです。
「・・ありゃあ、土左衛門かい?」
「こりや、いかん。」
一同は慌てて川岸に続く坂道を駆け下り、今日は早瀬となっている川から何とか気の毒な死体を引き上げました。
旅の行商人のようでした。荷物は流されたようで何も携帯していませんでした。
「これは、やはりうちの客さんです!」
第一発見者である、『青白い馬』亭の主人がおろおろと言いました。
「昨日の夜遅くにおいでになって、今朝、姿が見えなくなっていたので慌てて追いかけてきたんです。」
「不払いか!?」
「いいえ、部屋に荷物は置いてあって。」
なら、何故追いかけたのかと不審な目に主人は戸惑ったように首を傾けながら言葉を継ぎます。
「昨日お着きになった時に、奇妙なことを言っていたので。」
「奇妙な事?」
場所は川岸で、遺体は筵に包まれています。それを見、それからとうとうと流れる川を見ました。
「・・この客さんは、昨夜真っ青な顔でお着きになったんです。」
「雨だったから冷えたのであろうか。」
「・・・いえ、」
言い淀みましたが、き、と川を睨んでから続けます。
「魔女に遭った、とそう言われたのです。」
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「まあ、魔女?」
やはり御伽噺には欠かせませんわ、と奥方が笑う。
神族に敵対する魔の眷属のひとつ。謀や呪いを能くする、という。
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闇色に染まった川に、さあさあと雨が降っています。
行商人は先を急いでいました。だから一縷の望みをかけて、村で足を止めず川岸までやってきたのです。
普段なら、浅瀬を踏んで対岸に渡れるこの渡し場でしたが、数日雨が降りしきった水は水嵩と速度を増して流れています。
近くの村の住人が浅瀬を示す旗を立てて、渡し場を運営していますが、さすがにこの雨量では瀬の中に旗はなく、代わりに岸辺の木の枝に黒い布が結ばれて不可を告げています。
川辺ギリギリに進んで試しに靴を入れてみましたが、甲にかかるほどの浅い部分でもしっかりと流れを感じます。
空は昏く、雨の止む気配はありません。日が変わった後に止んだとしても、きっと明日の流れも速いでしょう。
行商人は正式な渡し場へのルートに切り替えるかどうかを思案しました。そこには二日の道のりです。船を使いますから、多少の雨でも止まることはありません。しかし、やはり雨がこうも降れば減便となりますから、恐らくあちらは船待ちの混雑となっている可能性も高いのです。
無情な天を仰いで、顔に雨粒を受けていた行商人は諦めの溜息をついて踵を巡らそうとしました。いえ、半分巡らしたところでぴたりと止まりました。
川の真ん中より、こちら側でしょうか。まるで蹲るような影が見えたのです。岩かと思いましたが、何か違うような気もします。川面は平たかった、そう思いながら、手首に下げていたカンテラを高く掲げて目を凝らしました。足元を取られないように気を付けながら、じりじりと水の中に踏み込みます。脛の半分まで水を感じた時、それが生き物だと判りました。一瞬、熊かと心臓が跳ねましたが、人が蹲っていると判って、さらに心臓は跳ねました。
おおーい、と行商人は川音に負けないように声を張りました。
無理をして渡った者が動けなくなっているのかと思ったのです。
おおーい、聞こえるかあ!!
行商人はカンカンカン、と右の腕輪でカンテラの蓋の部分を叩きます。
影は身じろぎました。白い顔がこちらに向きました。闇の中なのに、どうしてかはっきりと造作が目に飛び込んできて、若い美しい娘、と行商人は思いました。
おおーい、動けるかあ!!
行商人の声は届いているのか、娘はゆっくり首を横に振りました。白い掌が闇の中で翻ります。助けてとばかりに、手招くように動くそれに、行商人は誘われるように二、三歩踏み出し、そうして。
ズボリ、と深みに体が滑り込みました。そこは偽の瀬で、急に深くなっている部分でした。頭まで沈み、流されましたが、何とか小さな岩に手が引っかかって岸に上がることができたのです。カンテラはどこにもなくなってしまいましたが、背の小さな荷物がちゃんとそこに括りつけてあることにほっとして、行商人は這いつくばって息を調えてます。
最初のところから流されていたはずなのに、川の中の娘は同じ距離でこちらを見ています。
娘も流されたのかとぼんやり思いましたが、その無表情な白い顔の、朱い朱い唇が、
「時は来たれり、我がもとへ来たれり」
と唱える声が、川がこんなに激しく飛沫を上げているというのに、どうしてでしょう、こんなに耳元で鳴るのは。
行商人は跳ね起き、縺れる足でその場から駆け出しました。
背後からは流水の音が聞こえなくなるまで
「時は来たれり、我がもとへ来たれり」
あの声も、繰り返し繰り返し、ずっと追いかけてきたのでそうです。
※
※
※
『青白い馬』亭の主人は、行商人が語ったという昨夜の話を終えました。
「----きっと、・・魔女に魅入られ連れていかれてしまった、のではないでしょうか。」
一同はしん、と静まり返り、は、と笑いをそれぞれの形で吐き出しました。
「馬鹿馬鹿しい。」
という言葉は嘲笑と共に。
「『青白い馬』亭の御主人がそんなに迷信深いとは思いませんでした」
と、呆れを含んだ乾いた笑いで。
「動転していらっしゃるのでしょう。」
と、一応は気遣う笑みで。
「おもしろい推論だ。」
と、揶揄うように。『青白い馬』亭の主人は自分が口走ったことを恥じるように目を伏せたものの、やはり言っておきたいと再び口を開きます。
「魔女の仕業でなければ、あのような浅瀬に顔を突っ込んで死ぬとは思えません。」
「昨日の酒が抜けていなかったのでしよう。」
「昨夜、とても動転していたので気付けの酒を小ぶりのコップに半分サービスしました。それだけですよ!? 」
『青白い馬』亭の主人は首を振りました。
「そもそも、とても怖くて瀬を越えたくないから道を変えるとも言っていたのです。あんなに疲れた様子で散歩もなかろうと、まさかと厭な予感がしてこちらに来てみたのですが。」
「偽瀬の魔女、か。」
人を惑わせ、浅瀬に偽した深みに誘い込む。
一同は顔を顰め、
「魔女が棲む瀬など冗談ではない。旅の者が減ったらこちらは飯の食い上げだぞ!」
と、頭を抱えました。
一同は重い溜息が一つ、また一つと重なりました。
「・・魔女なぞに惑わされおって、」
「魔女に誘い込まれるような性根のヤツなぞ、ろくでもないに決まっておる。」
「疫病神よ、」
気の毒に思い被せた上着を、忌々し気に剥ぎ取りました。
「----魔女がこいつを所望というのなら、持っていってもらおうじゃないか。」
----翌日の朝。
何事もない顔で、村の渡し場は再開したのです。
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もう傾くだけかと思われていた『青白い馬』亭は、内装に手を入れ、溜まっていた未払いを清算して、商売を続けることができました。
貧乏人の宿になりかけていた頃に、よく滞在していた客のひとりが新装開店の時に顔を出し振舞いを飲み過ぎたようで、吐いたもので窒息死したのはとても不幸なアクシデントでありました。しかし、どこからどう見ても無頼漢だったその客を丁重に弔ったことで、厄払いができたようです。店の評判と売り上げは伸びていきました。
妹娘も新しい服や装飾品を、以前のように買い込んで装っています。あとはいい婿を迎えることができれば、もう安心です。
村には、今日も多くの旅人がやってきて、そうして浅瀬を渡っていきます。
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※
「・・めでたしめでたし、とか言わないでくださいましね?」
「おや、不評だ。」
「こわい話を聞きたい、とこの子はお願いしたのに、」
因みに娘は大人しくしているうちに母親にもたれて二度目の昼寝になっていた。夜寝なくなるから、いつもなら起こすのだが、あまりの展開にそのままにせざるを得なかった。
「強盗殺人の、死体遺棄の、そのうえ証拠隠滅の話って、どういう展開ですの?」
「いや、聞き手が君だけになったので、大人向けで?」
「性悪な人間がのさばるなんて、」
と、しかめっ面の、きゅっと寄った眉間に語り手たる男は唇を寄せた。
「ご期待に副えると思うよ、奥さま。」
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春はもう夏に向かって駆け出していたはずなのに、今日は季節が戻ったような寒空の夜になっていました。
まずは顔を洗おうと流れに手を入れた姉娘は、慌てて掌を引きました。流れが速いせいなのでしょうか、真冬の水もかくやというように肌を刺しました。
体を洗わねば家に戻れません。けれど、こんな冷たい水に入ったらきっと息が止まってしまうでしょう。
娘は途方に暮れて水面を見つめます。水鏡はおぼろに彼女の輪郭を映していましたが、やがてポツリポツリと降り出した雨がその姿を消してしまいました。
それはまるで記憶の中の母のようでした。つらい時間に侵食されるように、思い出せる顔はぼんやりと滲んでいっています。
ごめんね、と潤んだ声も、頬を撫でる手の柔らかさも、ただ遠ざかっていくのでしょうか。
「・・お母さん、」
俯いた娘から、温かな雫が一粒、二粒、水面に落ちて小さな小さな波紋を作りました。雨は降り続いていますから、涙の波紋など飲まれて消えてしまうものなのに、その小さな小さな波紋は小さな小さな渦に変じ、渦は水面に上がってそこを鏡面のように均しました。
「----娘、」
水鏡に映ったのは、ぼさぼさ頭で煤けた顔の娘ではなく、臈長けた女の白い面輪でありました。
「なにゆえ、そのように泣いておる? あたくしの足を止めさせるほどの嘆きをその若すぎる身空で顕しておるのは、どういう理由だ?」
「----川の女神さま、聖なる道行を騒がせ申し訳ございません。」
娘は深く首を垂れました。
「よい。理由を申せ。」
継母と継子の不仲など掃いて捨てるようなありふれたものだ、と娘は尻込みしましたが、
「あたくしのもとに届くような、重き雫の理由をどうして知らずにおれようか?」
川の女神も頑固であった。こうなれば、神の前に人は折れるよりない。娘の身の上を女神は聞いた。
「----人の世によく聞く話だな。」
一片の哀れみも示さぬというように、細い眉がつり上がりました。
「なのに、・・・あたくしは呼び止められた、」
娘は怯え切って、水鏡の前で震える手をついて平伏しました。
「申し訳・・っ、」
「何を謝る。なれば、これはおまえに手を差し伸べよという大神が定めたもう律であろう。」
川の女神の物言いは素っ気ないものでしたが、告げられた神託は甚だ物騒なものでした。
「その 家族だった者どもに雷を落とし灼いてやろう。そして、見て見ぬふりをした村ごと押し流して更地にしてやろう。」
「! 川の女神様!」
娘は慌てて顔を上げました。厳めしい表情を思い浮かべていたのですが、
「そう望む娘は、こんな昏いところでひとり泣きはすまいな。」
水鏡の中の川の女神は穏やかな瞳で娘を見ていました。
「お前は、父親をはじめとする家族を見放せなかった。彼らが心を改めることを願って、だから静かに従っていた、優しい娘よ。」
よく分かりません、と娘の迷い子の表情に、 川の女神は不意に胸を衝かれたように目を瞠りました。
苦しみも悲しみも辛さも怒りも寂しさも混沌とした感情に名づける術を知らず、亡羊としている娘は、年齢よりも幼く見えました。
「⋯今更、何故思い出す?」
遠い遠い昔、遥か隔たったところに置いてきた吾子が、もし同じ目に遭っていたらと思うと、目も眩むような激情が川の女神を突き上げました。
「なるほど----大神さまはよくお分かりのようだ。」
唸るように口の中で転がした言葉を娘が聞くことは決してありません。
水面に白い腕が生えました。
そうして川の女神の掌が娘の手首を掴みます。
「あたくしの----『水底の国』に連れて行くとしよう。此の世に体は生きながら、こころは死んでいるおまえに、きっと相応しき場所になろう。」
女神が触れているところから、娘のかたちは崩れて溶けていきました。溶けて、水鏡の中に滴っていきます。
そうして、岸辺から娘の姿は消え去り、水鏡はまたただの水に戻りました。残された衣服や荷物を少しずつ増していく水嵩が攫って、娘の痕跡は此の世から消えたのです。
※
※
※
「川の女神さまには御子さまがおいでなのですね。」
妻は少し首を傾げたが、
「そういえば前にお聞きした烏の女神と塚の男神も、もとご夫婦でしたわね。」
「神々は世「界」を、似せて象ったのだから神の世界と人の世界の括りはそう遠いものではない。」
奇妙な違和感を覚えて妻はじっと夫を見つめた。
「・・まるで、」
言いさして、言葉を飲んでいた。
自分の知っている夫ではないような横顔だ。そのまま、知らないところへ戻っていきそうな。
----こんなことは、幾度もあった。
「旦那さま、」
頬を両手で挟んで引き戻す。
「続きをお願いします。」
「!⋯あ、ああ」
彼女の知る表情に戻るのを確かめつつ、何処にも行かせないと呪いのように強く目を覗き込んだ。
※
※
※
季節は廻り、あれから何回目かの春の終わりがやってきました。何があれから、なのかもうだれも気にしていませんが。
『青白い馬』亭は今日も営業をしています。
朝はよく晴れていたのですが、昼過ぎから曇りはじめ、夕刻に入って雨粒を零し始めました。本降りになりそうな空模様です。
かつての妹娘、婿を迎えたいまは宿屋の若女将と呼ぶべきでしょうか。娘の時分から少しは成長したのか、宿屋の帳場に立って、にこやかに客を迎えています。とはいっても、本当に迎えるだけで、手続きやら説明は隣に立つ従業員の仕事です。
いつもなら、到着する客や夕食に向かう客で賑やかな通りが、その時奇妙に静かでした。
珍しくもない馬がいななく声が、何故か背中をそわそわとさせました。
そこに暖簾をくぐって、新しい客がやってきました。穏やかそうな若い男は行商人のような風体でしたが、小さな荷を背中に背負っているだけです。
「いらっしゃいませ、」
若女将はその旅人に声をかけ、仕事は終わったとばかりによそを見ました。すぐに従業員が引き継ぎます。
「ようこそ「青白い馬」亭へ。」
「部屋は空いているか?」
「ええ、大丈夫でございますよ。お客様、お一人でいらっしゃいますか?」
「そうだ。」
「ご一泊? お食事はどうされますか? 村の食堂へは少し歩きますから、お疲れならばうちの食堂をご利用ください。朝食は予約制になりますが・・、」
旅人は朝に早出の者用の弁当を注文しました。
「承りました。雨の降り次第では明日ご出発いただけないこともご承知おきください。」
「その時は、宿でいただくよ。」
とは答えたものの、若く見えますが旅慣れた風で、天気を読む術を心得ているような口ぶりでした。
「雨ですので、明日の早朝に瀬読みが行われると思います。その後の渡りをお勧めします。この辺りの偽瀬は見分けにくいですから。」
その瀬読み代を追加した雨天時の割増料金の提示に、仕方ないと肩を竦めました。
「----お客様、馬は?」
従業員は先ほどの馬の声を思い出して問いました。
「いや、徒歩だ。」
「失礼いたしました。お客様がお着きになる寸前に馬の声が聞こえたものですから。」
「馬、なんていたかなあ?」
旅人はとても不思議そうでした。
宿屋に併設された食堂に客はあまりいませんでした。壁沿いの二人がけの席に腰を落ち着けた旅人は通りかかった給仕に本日の定食と麦酒を一杯注文しました。
さほどの時間はかからず運ばれてきました。給仕の娘が勢いよく置いたものだから、スープが盆に零れました。旅人が顔を顰めたのに気が付かないふりで、娘は一言もなく離れていきました。
味は普通でしたが、値段に見合っているかは微妙です。またこまめに掃除をしていないところがすみずみ目について、何となく食欲は失せてしまいました。
気の抜けたような麦酒にも溜息をついて、旅人は飲み干すことなく席を立ちました。部屋に置くことなく、背の後ろにおいてガードしていた彼の小さな荷物を手に食堂を出て行きました。
ちょうど食堂に入ってきた若女将とすれ違います。
「・・・あら、」
旅人がしっかり抱えた小箱に、その目は釘付けになりました。
「・・何か?」
「いいえ、随分大切なもののよう、と思っただけですわ。」
「商売道具だ。」
「そうですの。・・きっとたくさんの富を与えてくれるのでしょうね?」
「?・・・たぶん。」
何の話かと眉のあたりは言っていましたが、当たり障りなく会話を切り上げて、旅人は今度こそ食堂から出て行きました。
その背を----正確には小脇に抱えられた小箱に視線を注いでいた若女将もまたすぐに引き返して行ったのです。
『青白い馬」亭は表向き繁盛している様子でありましたけれど、内実はまた厳しくなっていました。
あの宝石は確かにまとまった金額にはなりました。ですが、まっとうなルートで売りに出すことはできなかったので、仲介代と口止め料でまずごっそりと持っていかれました。
負債の補填と、新しい従業員の一時金に用い、あとは従前のように堅実な経営に戻ればまだ救いはあったのかもしれないけれど、そのお金がどこから来たのか分かっているのに若女将は取り分を主張しました。
見つけたのは自分なのだから、と。
娘に甘い両親は結局それを受け入れました。
若女将はまた美しく着飾るようになり、やがて結婚しました。婿に入ったのは、顔と体はいいけれどあとはだらしのない、そして冷酷な男でした。
あの日、薬と酒で眠ってしまった行商人を溺れ死にさせるように手配したのは、当時宿の常連客だったこの婿とその弟分だったのです。弟分は、あの吐しゃ物を喉に詰まらせるという、不幸な死に方をした客です。そんな都合のいいことが、と思われる通りに真っ黒です。
若夫婦は共々に金遣いが荒く、宿屋の仕事は片手間です。両親はどうしてこうなった、とため息ばかりでしたが、今更どうなることもなく、また「青白い馬」亭は必然に傾いていきました。
また思うように金を遣えなくなって若女将は苛々としていたのですが、そこにかつてと同じ、小さな箱を携えた旅人がやってきたのです。
また、あの箱から宝石を手に入れれば、元の暮らしに戻れるのです。
そこでさっそく若女将は夫と謀り、旅人の部屋に薬の入った酒を届けました。
宿屋は灯を落とし、皆が寝静まった夜中。合鍵を持ち出した若夫婦は旅人の部屋に忍び入りました。若女将の携えた手燭がゆらゆらと壁に二人の影を描いています。
旅人はぐっすりと眠っていました。二人はよく確かめてから、件の小箱を探しました。肌身離さずとじかりに、それは寝台の上にあって、眠ってなお小脇に抱えていましたから、慎重に指を除けて取り上げました。
小机の上で、上から灯りをかざしながら、そっと蓋を持ち上げます。
鍵はかかっていませんでした。
最低でも若女将の親指の爪の大きさがある色とりどりの宝石が、ぎっしりと詰められていました。
夜明け前です。
厨房が動き始めます。今朝は若女将が帳場前のソファに既に座っていて、早出の従業員はぎょっとしながら挨拶をしましたが、不機嫌そうに睨まれただけでした。
「若旦那さんが朝帰り?」
「たぶんね。」
よく、と、たまに、の間くらいの出来事で、
「つまり、一日、機嫌悪いのね、」
くわばら、と肩を竦めました。そこへ、
「たいへんです!!」
と、泡を喰った様子で別の従業員が飛び込んできました。これは宿直で、そのまま大旦那様の朝のお勤めに供をした者です。
やっと来たか、と胸を撫でおろしながら、若女将は、
「落ち着きなさい、」
と、威厳あるように応じました。
「声が大きいわ。お客さんはまだお休みよ。」
自分は、朝帰りの夫とそんな配慮のない大喧嘩をすることは棚に上げて言いました。
「若女将!」
けれど、声も勢いも落ちませんでした。面倒を避けるのに必須である、若女将を立てる振舞いを忘れるほどに動転していました。
「旦那様が浅瀬の見極めで・・・そこで若旦那様が・・・あの、とにかく急いで瀬に来るようにと。お早く!!」
普段なら、どうして川辺にと一蹴するところだが、ただならぬ様子に何かしくじりがあったのだろうかと、内心の苛立ちは頬のあたりに留めて、若女将はまだほのぐらい表へと出て行きました。
この村で宿屋を引き継ぐのならば、浅瀬を見極める技術を身に付けなくてはいけないのです。これだけは、父親もきつく言うこともあったのですが、衣服が汚れる虫が出る眠いなどと述べ立てて、殆ど近寄ることはしませんでした。道と不釣り合いな華奢な靴で、スカートの裾を飾るレースを草にひっかけながら川辺へと坂を下ります。
朝靄がまだ切れぬ夜明け前の川べりは妙にざわざわした空気で、彼女に気づいた皆の目が慌ただしく振り仰ぎました。一瞬怯んだ若女将でしたが、持ち前の気の強さで場を見渡し、自分の父親は彼女を見ていないことに気づきました。
父親は少し離れた川辺に膝をついていました。そして、瀬にうつ伏した体が見えました。
ああ、と一瞬頬を緩ませた喜色は、じわじわと怪訝に、そして恐慌で塗りつぶされました。
「・・あんたっ、」
転げる勢いで坂を下り、父の----瀬に突っ伏した体の----もとへ。
地味で粗末な衣服の行商人のはずが、派手な色味の、見慣れた服でした。
「・・あんた?」
頭の部分に布がかけられていて、流れにひらひらと揺れています。
かつては精悍な傭兵でありましたが、若旦那業に就いてからすっかり弛んだ体の線になっていて、あの旅人ではないということはよく分かりました。
あんな貧弱な相手に返り討ちにあったのか、作業の途中で薬が切れたのか。若女将は納得がいかなくて、信じられなくて首を横に振り続けます。何も知らない一同は、夫が突然亡くした女の痛ましさだと解釈して、思いやり深く彼女を見ていました。
----ただ、その父親を除いて。
かつて己が造ったのとそっくり同じかたちで、共犯者が死んでいるのですから何も思わないはずはありません。
「・・また魔女が・・、」
「やはり魔女は贄を・・、」
迷信深い者たちは慄いていましたが、実利を優先した側は非常に懐疑的な視線を父娘に注いでいます。
「む、婿殿は以前の仕事柄恨みを買うこと・・もあったかも・・知れない。」
「こんな殺され方をされるほどの恨みを?」
「しかも。」
「あの、我々しか知らぬ件を彷彿とさせるさまを、わざわざ再現して?」
実利派も冷静とは言い難いのです。犯罪(の恐れがあること)を隠ぺいしたのは確かなのですから。
若女将は茫然としたまま腰を落とし、夫の肩の下に巻き込まれている布を取ろうと手を伸ばした。死に顔を確かめたいというのは自然なことではあったが、
「見ない方がいい。」
と制止されてしまいました。
「でも・・・あんまりですわ。どうして陸に引き上げて下さらないの?」
「役人の検分を受けるには、そのままがいいだろうと判断した。」
「検分? 」
「殺しは届け出ねばならない。」
「!? 溺れ死にを・・したのではないの?」
そうする代わりに、そうされたのでは。
さわさわ、と水の中で布の端が揺れています。
パシャリ、と不意に波が跳ねました。近くで魚が動いたのかも知れません。波は波を呼んで流れを揺らして、均衡を崩しました。布はふわりと流れに乗って、それが隠していた部分を露出させたのです。
首から上だった部分を、雨で少しだけ濁った水が何にも遮られず流れていきます。
若女将は甲高い悲鳴を上げながら後ろに後ずさり、パタンと腰を抜かしました。駆け寄った父親に縋りつくようにして、暫く言葉にならない喚き声をあげていましたが。
「・・あいつよ、」
渋面を突き合わせて、風評被害対策を論じていた一同は、漸く言葉になった若女将の声に振り向きました。
「あいつが、やったのよ!!」
「----あいつ?」
「昨夜、うちに泊まった行商人! あいつを調べてよ!」
「どうしたんだね? その男がいったい何を・・、」
かわいい一人娘ですから、何とか気持ちを和らげようと父親は声をかけましたが、
「前と同じような小箱を持っていた行商人よ!」
「! 黙りなさい。」
あらぬ方向へと転がろうするのを、ぎょっとして遮りました。
「おまえは錯乱している。」
「おはようございます。」
実に爽やかに声がかかったのは、その時のことです。
偶然か、わざとか。それはここにいる誰もがまだ分からないことです。
坂を下りたあたりにいつの間にか立っていたのは、小さな荷を背負った行商人でした。
「もう瀬を渡ることはできますか? また旗は見えませんが・・、宿の方はそろそろ終わる頃合いだと言うので出てきたのですけれど?」
夜明けから早朝の明度になり、靄も川の真ん中あたりに残るだけ。いつもなら、とうに旗を立て終えているはずの刻限でしたが、この騒動のため作業はまったく進んでいません。
「すまんね、今から始めるから少しだけ待ってくれるかい?」
了解するしかないけれど、不服そうに肩を竦めたのは、瀬読み代を追加した雨天時の割増料金を支払っていることを考えれば無理もないことでしょう。
「弁当じゃなく食堂で温かいものを食べて来れたか、」
溜息と、この程度の嫌味も。
「・・あんた、」
ぶるぶると体は震え、髪も逆立っていきます。そんな様子に気づかないのか、
「おや、おかみさん? おはようございます。お弁当、受け取りましたよ。」
と、愛想よく言って、『青白い馬』亭のお弁当包みを振って見せました。
「・・・あんた、」
か、と目を見開きました。
「なんで----あんたが生きているのよ!?」
河原に響き渡る絶叫でした。もともと感情を抑えることのできない女でありました。
「----どうかされたのですか?」
正気とは思えず、旅人が近くにいた者に驚いた顔で問いかけるのは自然な流れです。実は、と状況を明かされて、顔を曇らせて彼女と彼女の傍の父親へ一礼するのは全く礼儀に適っています。
ぶるぶるぶるぶる、と激しく身を震わせて、尋常ではなく目を吊り上げて、若女将はなおも叫びます。
「なんでうちの人が死んであんたが生きているんだ!」
言われた当人も周囲も困惑しかないが、父親だけは何か察したようでやめないかと娘の口を塞ぐように拘束しようとする様子をみせましたが、娘はその手を振り払い、髪を振り乱して暴れます。
「『青白い馬』亭さん、娘さんには刺激が強すぎたんだろう。取り乱すのも無理はないよ。連れ帰って休ませてやりなさいな。」
そう親切に言ってくれる他の宿のだんなさんもいたのですが、
「あたしは正気だ!!」
若女将は父を突き飛ばし、旅人に詰め寄ろうとするのを他の旦那数人が慌てて阻みます。
正気を手放した人間ならではの馬鹿力で、
「人殺し!! よくもうちの人を殺したな!?」
「どうしてわたしがその身も知らぬ人を・・初めて泊まった宿で顔を合わせてもいないのですよ?」
「うそだ!」
叩いたりひっかいたり、果ては噛みつこうとすらするのですからたまったものではありません。
「あんたを連れて、うちの人は河辺に行ったんだよ!? あんた以外のだれが!」
思いもかけない告白に旦那衆の手から力が抜けました。若女将は旅人に掴みかかり、揉み合って(旅人は困惑の余り振り回されているだけだったが)、そうして荷物を奪い取りました。胸に抱き込んで叫びます。
「これはあたしンだ!! この盗っ人!!」
もう常軌を逸しているとしか見えず、旦那衆は勿論奪われた旅人でさえ、青ざめて立ち尽くしています。
「----ほら、お父様、あたしが見つけたのだから、またあたしがたくさんもらいますからね?」
「お、おまえ、や・・、」
やめないか、という制止を喰って、
「その男はまた川に流しましょう。そう! 魔女がいるんでしたっけ!?」
ひどく馬鹿にしたように笑いました。
「魔女が取り違えたんですよ。ちゃんと取り替えて、返してもらわないと、うちの人。」
狂女の哄笑を聞きながら、一同の思考はバタバタと動いて、ある疑惑に辿り着きました。
「まさか、あの、」
「数年前の溺死者は、」
「『青白い馬』亭の旦那さん!?」
「い、いや、知らん!! 娘は取り乱して埒もないことを口走っているんだ!」
真っ青になって、そう抗弁した父親は、は、と慌てて周囲を見渡しました。
いつの間にでしょう。
夜はすっかり明けていたはずでした。靄も切れて、光の粒を塗したような朝の空があったはずでした。
----なのに。
周囲はすっかり昏くなり、秋の夜半でもあるように深い霧が彼らを取り囲んでいました。真っ暗な川がごうごうと流れています。
何がと恐ろし気に辺りを見渡した一同の耳に、遠くから響く蹄の音が届きます。
霧のあちらにオレンジ色の小さな灯りがぼんやりと揺れて、蹄の音とともにそれははっきりとして、近づいてきます。
どれほどの----いいえ、さほどの時間ではきっとなかったのでしょう。
最後の霧を抜けて、巨大な黒馬が現れました。首のない、馬です。
----乗り手は、いません。
! いいえ!
目を瞠っていたあの旅人の姿が二重にぶれます。あるいは、その背後からきたのかも知れませんが、黒い甲冑の、逞しい騎士は、彼から歩みだしてきたように見えたのです。
その騎士にも首はありません。
首無しの騎士は、首無し馬にまたがりました。
騎士は左の手にフルフェイスの兜を抱えています。もしかして、その兜の中に騎士の頭部は収まっているのでしょうか。
右の手は手綱を取ることはありませんでしたが、馬はぴたりとその遺体の傍らで止まりました。
騎士の右手には巨大な鎌がありました。鎌は何もない宙を鋭く一閃しました。すると、水の中から丸いものが飛び出し、馬の首があるべきところに収まったのです。
か、と目を瞠ったまま|の若旦那の首は、高い位置《馬》から一同を睥睨するようでした。
変わり果てた夫の様に若女将は腰を抜かし、旦那衆もそのグロテスクな様に息を詰めています。
一同を尻目に、馬は堂々と水際に進みます。
川は----これがあの浅瀬でしょうか。どんな豪雨の後でもあり得ない、水がそこにありました。まるで、二階の建物のような嵩なのですが、どうしたわけかこちらに崩れず、川の幅を流れていくのです。
「時は来たれり、」
陰々と声が響き渡りました。フルフェイスの、胸に抱えられた首が発しているのでしょうか。
それはどこかで聞いたような語句でありましたが、だれも最初思い出すことができませんでした。
カ、と拍車を鳴らして、首無しの騎士はその川の中に突進しました。
「我がもとへ来たれり」
『青白い馬』亭の主人が何か思い当たったようで、目を瞠り、さらに蒼褪めました。
水は大きく逆立って二つに分かれ、あれよと言う間に川底を露呈しました。出来た道へ首無し騎士を乗せた馬は乗り入れ、駆け去っていきます。
通った先から水は崩れて、まるで透明なトンネルのような川を何処かへと騎士は遠ざかっていくのです。
そうして、水は----その壁のような川は一気に崩れたのです。
河原にいた人々は逃げる間もなく押し寄せ、逆巻く水に飲み込まれていきました。
「御女神の裳裾を汚した者らよ。」
贖え。
水の中で、そう、声が聞こえたと言います。
※
※
※
水に飲まれなかったのは、あの旅人と旦那衆の中で最も若い----代替わりしたばかりの----とある宿の主人だけでした。
二人、岩の上に立って囂々と流れていくのを見つめます。
「・・あ、」
旅人が腰を屈めて、足元の岩に引っ掛かった小箱を拾い上げました。
「『青白い馬』亭のお嬢さんが持って行ったものですね?」
懐から取り出した布で丁寧に拭われているそれに、好奇心の目が向けられます。
「ああ、これですか?」
旅人は、蓋をあけました。中には色とりどりの石が並んでいます。紅いものを摘まみ上げた旅人は安堵したように呟きました。
「良かった。濡れていない。」
「これは・・・宝石、ですか?」
「そう見えますか?」
嬉しそうに笑って、旅人は純度の高い紅玉石と見えるものを口の中に放り込みました。嚙み砕く音にぎょっとする相手に、
「どうぞお一つ」
と、箱を向けました。
「は?」
「黄色はオレンジ味で、紫色は葡萄味、赤は苺です。」
確かに彼の口元から香るのは苺の匂いでした。
「え? お菓子、なんですか?」
「はい。砂糖菓子です。」
再度進められて、緑色を取りました。
「それはライムですね。わたしは菓子職人なんです。」
と、身元を明かしました。
「これは凄い・・ですね。きっと評判になることでしょう!」
「ありがとうございます。」
水が弾けた時、相当な音がしましたから村から様子を見に駆け付けた人々が、坂の上からこちらを見て騒いでいます。
岩場の二人を見つけたのでしょう、舟を運んでこいとかロープだ、とかいう声が、悲鳴に変わりました。何事だ、と若い主人は旅人を振り向きました。
二人が乗っていた岩が割れ、そして下部もくずれたということなのでしょうか。主人を乗せた岩は村側の岸へ、旅人の岩は対岸に向かって流れていきます。
互いに、違う岸に足を乗せたとき、岩は粉々になって水底に消えていきました。
茫然としていた二人でしたが、旅人はすぐに切り替えたようでした。そもそも彼は先を急いでいたのです。
旅人は手を振って踵を巡らし、姿はすぐに見えなくなりました。
※
※
※
「首無し騎士は悪い人たちを懲らしめにきたのでしょうか?」
妻の問いに、夫は曖昧に笑うだけだ。
新しいお茶が注がれたティーカップと、掌ほどの大きさの陶器の箱がテーブルの上に載せられた。その蓋を開ければ、知っていてもなお嘆声を上げずにはいられない、美しい菓子が整然と詰められていた。
それは、まるで本物の宝石のような砂糖菓子。
「まさか、この素敵なお菓子が登場するとは思いませんでしたわ。」
東ラジェの老舗から、特別の注意を払って運ばれてきた逸品だ。
「本当に物語の才がありますわ。」
嫋やかな白い指で摘まみ上げた紅い菓子は、他の店の類似の品では作りえない透明度で、うっとりするほどに美しいものです。
商品には、ひび割れた手鏡というこれまた一風変わった店章をすき入れした説明書きが添えられて、そこにはこの特別な菓子の伝説が記されていた。
『水の女神の娘に恋をした若者が、世「界」のどこにもない美しいものを捧げようとして生まれたお菓子です。』
・・と。
※
※
※
川に飲まれた旦那衆は、それぞれ下流で打ち上げられ九死に一生を得たようです。ただし、『青白い馬』亭の主人と妻は、行商人を殺害した罪に問われて鉱山に送られました。没収された財産と、死体を遺棄するのに関わった他の宿からの賠償金は行商人の遺族に渡されたと聞きます。
そうして。
浅瀬が浅瀬に戻ることはなかったのです。どんなに水が少ない時季でも、この浅瀬だったところだけはいつも轟々と流れる早瀬になり、川底は足が着かないほどの深い淵となり 渡し舟の導入も試みたようですが、あちらこちらで不規則な渦も発生し、招いた熟練の船頭も匙を投げたといいます。
おまけに魔女が棲みついたという噂が流れました。偽瀬に旅人を誘い込もうとするのだそうです。
「刻は来たれり、我がもとに来たれり」
と、半分抜け落ちた髪で鼻の欠けた魔女が川辺の岩に蹲って繰り返し呟きながら、獲物が来るのを待ち構えていると。
誰も川を渡ろうとはしなくなりました。
旅人が立ち寄ることがなくなった村は一気に寂れて、毎日のように住人が離れていきます。
いまは村の名前を憶えている人も、村があったことを知る人もいません。
むかし、昔の----罪深いお話です。
参考 wiki「ケルピー」の項目より。
とにかく書くのに時間がかかりました。書き始めたの六月下旬です・・。
夏のホラーに参加しようと思っていたのですが、まったく間に合わず。かつ、ホラーではなくミステリー調となりました。でも、童話のつもりで書き上げました。
前書きでも書きましたが、連載作の番外です。宜しければ本編もお読みください。