07.部下、上司に辞表を提出する
翌日、リズは仕事の合間に旅行ガイドブックを眺めていた。フェリクスと会った帰りに書店に寄って買い求めたものだ。
現地の写真は魔法で再現されているため、なんと動く。土産物屋に並ぶころんとしたリスの置物がリズを見つめている。この置物は指先でつつくと頭をフリフリするのだ。店員が実演する様子が写真になっている。
かわいい。ほしい。
「何を見ているのですか?」
アルベルトの声に、思わず本を閉じる。
「あ、アルベルト様!」
目を上げると、リズのいる秘書室にアルベルトが入ってきていた。
アルベルトの執務室の隣にリズの秘書室があり、一応ドアはついているが、基本的には開けっ放しでお互いに出入りは自由だ。出入りする時の合図として、ノックすることになっている。
「申し訳ございません、気が付かなくて」
「一応ノックしたのですが返事がなかったので。私のほうこそ驚かせてしまいましたね。……中央山岳地方のガイドブックですか。珍しいですね」
リズはなんとなく書類で本を隠しながら頷いた。
「はい。少し、気分転換にどこかに出かけようと思って」
「旅に興味があるのですか? それとも、置物に?」
アルベルトは彼女の席の横に立ち、いつもの感情のこもらない声でたずねた。
物欲しげに置物を眺めていた様子をばっちり見られていた。
恥ずかしい。
「両方です。王都からほとんど出たことがないので」
「そうですか。泊りがけで出かけるとしたら夏の休暇か……でも近すぎて、今からでは宿の予約がとれませんね。冬の休暇ならじゅうぶん間に合いますけど」
「そうですね」
夏。冬。
リズは、めぐる季節に思いをはせた。
アルベルトはこの夏も、次の冬も、リズがいると思っている。
ここは居心地がいい。思いきらなければ辞められない。
「実は、お話したいことがあります」
リズは心を決めると勇気を振り絞って、アルベルトの眼鏡のレンズの奥にある青く澄んだ瞳を見据えた。
「私、仕事を辞めようかと思っているんです」
さすがのアルベルトもリズの突然の爆弾発言に、目を大きく見開く。
「辞める?」
「はい。弟も就職しましたし、私も気が付けば二十三歳ですし。仕事を辞めて、婚活しようかと」
「あ、あ、あなたは結婚願望はない、できるだけ長く勤めたいと言っていたはずですが?」
アルベルトの声がわずかにうわずる。
「それは……十八歳の時の私ですよね。あれから六年もたっています。人は変わるものです」
「それにしては急ですね。あなたがいなくなると私も困るのですが。婚活だけなら、仕事を辞めなくてもできるでしょう」
「それは、そうかもしれませんが、心機一転したいといいますか……」
まさかアルベルトから離れたいからだとも言えず、リズは言葉を濁した。
その様子をアルベルトがじっと見つめる。温度のない青い瞳で見つめられて、なんだか落ち着かない。心の中を見通す魔法でも使われているのだろうか。
「しかし、どうして結婚したいと?」
「弟が独り立ちしたのが大きいですね。本当はもう少しかかると思っていました。その節は本当にお世話になりました」
「私の秘書が珍しく『お願い』をしてきたのですから、聞き入れるのは当然でしょう」
安定した職業についてほしくて、フェリクスには文官試験をすすめていたが、合格しても平民だとなかなか正式採用にならない。臨時採用を二、三年勤める必要があると思っていたが、アルベルトの推薦書のおかげでフェリクスは一年目で正式採用となった。
「弟が独り立ちした時、私はもう嫁げる年齢ではないだろうと覚悟していたのですが、思いのほか早かったので、婚活にまだ間に合うと思いまして」
「なるほど……年齢的なものですか……」
しみじみとアルベルトが呟く。
「年齢的なものといえば、アルベルト様も三十を超えられています。そろそろ本気でご結婚を考えられたほうがいいのでは? お立場的に避けられないでしょうに」
「私は女性が苦手なんですよ」
アルベルトが「何を今さら」といった感じで返す。
「でも、私とは普通に話していますよね?」
「それはリズが私に秋波を送らないからです。下心と打算に満ちた笑顔がどうにも受け付けないんですよ」
「それなら……秋波を送らない女性を選べばいいのでは?」
「……秋波を送らない……ふむ……」
アルベルトが長い指であごを撫でる。
「一人だけいますね、私に秋波を送らなくて、私の妻が務まりそうな人物が」
――えっ、そんな女性が実在するの!?
今度はリズが驚いて目を見開いた。
「リズ・カーマインという女性ですが」
「……」
リズはアルベルトを見つめたまま固まった。
アルベルトの表情はまったく動かない。
たっぷり十秒ほど真意を考えて、
――アルベルト様って、真顔で冗談を言うんだなぁ……。
という結論に達した。
「私はだめですよ。生まれも育ちもアルベルト様に全然釣り合いませんから。冗談もほどほどにしてください。……ご結婚に関しては、そろそろ真面目に考えられたほうがいいと思いますね」
「……。別に、結婚したくないわけではないんですよ。可能なら、したいとは思ってます」
「ええっ!?」
驚きのあまり、リズは素っ頓狂な声をあげた。
「で、でも、女性は苦手なんですよね……?」
「そうですね。苦手です。私もいろいろあるんですよ。個人的な事情が。呪いといってもいい」
表情に乏しいアルベルトが珍しく、眉間にググっと皺を寄せる。
アルベルトは新しい魔法を学びに外国に留学した経験を持つ。そこで何か、あったのかもしれない。魔法と呪いは近しい関係であり、国家魔法使いの中にも呪いつきの者は少なくないのだ。頭に雪だるまを乗せたままとか、笑い声が全部カラスの鳴き声になるとか。命に関わるような呪いはさすがに放置しないので、呪いを放置しているということは、命に関わるようなものではないということでもある。
「呪いがかかっているなら、そう説明すれば結婚をせっつかれることもないでしょうに……」
思わず呟くと、
「厳密に言うと呪いではないから説明しにくいのですよ。個人的なものですから人に言いたくもない」
眼鏡のブリッジを右手の中指でクイっと挙げながら、アルベルトが答える。
いまいち釈然としない説明だが、とにかく言いたくないことだけはわかった。
「それで、リズ。あなたはどうして仕事を辞めようと? 先ほども言いましたが、婚活だけなら仕事を辞めずともできるはずです」
「ずっと働きづめだったので、だから少しゆっくりしたくなったのです」
「息抜きが必要なら、有休を申請しては?」
「いえ、そうではなくて……」
「労働条件に不満があるなら、そう言ってくれたらいいのに。業務内容と労働時間を見直す用意はあります」
アルベルトが提案する。
――これって、引き留められているのよね?
リズは頼られていることを嬉しく思いながらも、自分が大好きなアルベルトの障害になっているかもしれないことを思い浮かべて、頭を振った。
なんて言えばアルベルトを説得できるだろう?
「秘書をしながら婚活すると、私とアルベルト様の仲を疑われてうまくいかなさそうですし」
「あなたを信じる気がない男など、端から対象外なのでは?」
それはそうだが。
「婚活の成功率が下がるのはいやですし」
「あなたを信じる気がない男と結婚しても、幸せな結婚生活は送れないと思いますね」
それはそうだが!
だんだんイライラしてきた。
アルベルトに対してではない。へたな言い訳しかできない自分に対してである。
「私がいるとアルベルト様が結婚しないと、いろんな人から言われているんですよ。それが嫌なんですよね!」
言ってしまってから「しまった」と思ったが、もう遅かった。
アルベルトが無表情のまま、リズを見下ろす。
わずかに浮かんでいた、リズを心配するような気配も消えてしまった。
「そういうことなら、しかたがありませんね。その指摘は私も聞いたことがあります。あなたに負担をかけて申し訳ない」
彼の硬い表情に、今までの記憶が蘇る。
採用面接のとき、アルベルトは「結婚願望がない」ことを理由にリズを選んだ。あれからたった六年で考えを改めるなんて、アルベルトもたまったものではないだろう。
そしてリズのように結婚願望がなく、見た目も地位もばっちりのアルベルトのパートナーを務められる娘はそう簡単に見つかるまい。
「すみません……約束と違うことを……」
アルベルトは手を上げて彼女の言葉を遮った。
「気にしないでください。あなたの言う通り、人の気持ちは変わるものです」
その言葉に、リズの心はさらに苦しくなった。
「そういうことでしたら、近いうちに退職の日取りを決めましょう。取り損ねている休暇や手当などがあったら、すべて申請してください。……あなたの幸せを願っています」
アルベルトはそう言うと、踵を返してリズの前から去っていった。
彼はリズの気持ちなんて知らないのに、こんなにも優しい。
アルベルトがいなくなってから、リズはぼんやりと、書類で隠したガイドブックに目をやった。
アルベルトとの何気ないやり取りが好き。
アルベルトのさりげない気遣いが好き。
無表情で不愛想だけど、アルベルトに心がないわけではない。
居心地のいい場所を手放してしまうのは惜しいし、何より寂しい。
――でも、私がここにいたら彼の結婚の妨げになるのは間違いないから……。
ずるずると居座ることだけは避けなければ。
***
数日後、リズはアルベルトと相談の上、三か月後に辞めることに決めた。そしてその日付で辞表を書き、提出した。アルベルトは無表情のまま受け取った。
「アルベルト様が新しい秘書を見つけられるか心配です」
寂しさを押し隠して言うと、
「心配ありませんよ。見つかるまで求人票を出すだけです。ああ、引継ぎは不要です。あなたと同じで、ゼロから仕事を教えますので」
アルベルトはいつも通り、表情のない顔と平坦な口調で答えた。
その言葉に、リズは自分の六年間が否定されたような気持ちになった。もちろん、彼にそのつもりはないのはわかっている。
「それより、旅の行き先は、決めましたか?」
「中央山岳地方のホーヘルベルクに行ってみようかなと思います。あのリスの置物の実物が見たくて」
「いいところですよ」
「行ったことがあるのですか?」
リズの問いかけに、アルベルトが頷く。
「ええ、子どもの頃に家族で」
彼は少し懐かしそうに答えた。
珍しい。アルベルトが昔話をしている。
アルベルトがリズに家族や、子どものころの思い出話をしたことはなかった。
「山々の景色が美しく、温泉もあります。あなたが赴く頃は、紅葉が見事でしょうね」
それからいくつかの観光地や宿の名前を挙げる。
「この宿は特に料理が評判です。予約は早めにした方がいいでしょう」
リズは嬉しくなって、さらに質問した。
「温泉はどこがおすすめですか?」
アルベルトは丁寧に答えてくれた。
彼と話をしながら、リズは改めてアルベルトへの気持ちを確認していた。
やっぱりこの人が好き。
だからこそ、彼の将来のために身を引くべきなのだ。
自分の選択は、間違っていない。