15.逃げるな 2
「逃げるな、リズ」
「……私、アルベルト様に嫌われたくないんです」
しかたなく、ソファーに腰を下ろして、リズは自分の腕をつかんだままのアルベルトに目を向けた。
「いつ、私があなたを嫌いましたか?」
「女性に秋波を送られるのはいやだと」
「例外があると言ったばかりですが?」
「でも私はその例外ではないでしょう? 初めてお会いした時に確認されましたから。結婚願望はあるのか? と。ない、と答えたから、私が採用されたことくらい、わかっています」
「人は変わる、と言ったのは、あなた自身です。リズ・カーマイン」
ふと、リズの腕をつかんでいるアルベルトの手が震えていることに気が付く。
「六年前の私には結婚願望がありませんでした。あなたにもありませんでした。そしてあなたは長く勤めたいとも言っていましたね。だから私は安心していました。慢心といったほうがいいかもしれない。私が何もしなければ、あなたはずっと私のそばにいてくれると信じて、疑っていませんでした。辞表を出す日が来るなんて、想像もしていなかった」
「……」
「あなたは婚活したいと言いました。相手はこれから捜すということです。それなら、私でもいいのではないかと。あなたを口説こうと。あなたが奇妙に感じていた私の行動の理由です。今のところまったく効果が出ていませんが」
一気に言われて、リズは混乱した。
――ええと……。
こういう時は三行でまとめると理解が早くなると、死んだ父が教えてくれた。
アルベルトは、
・リズが面接時に「結婚願望がない」と言ったから、ずっと秘書でいてくれると思った。
・ところがリズが「婚活のために辞めたい」と言ったので、「相手は自分でもいいのではないか?」と思った。
・そこでリズを口説くことにした。
三行にしてもちょっとよくわからない。
「……長官、質問です」
リズはつかまれていないほうの手をスッと挙げた。
「なんでしょうか」
「長官は、私のことが好きなんですか?」
「はい。好きです。好きでもない女性を口説くわけないでしょう? 私はそういうことが苦手なので」
「……アルベルト様は、私が好き」
「はい」
「……私も、アルベルト様が好きです」
「嬉しく思います」
「……先ほどの話ですと、アルベルト様は好きな人に欲情するそうですね?」
「しますね」
「……今とか、どうでしょう……?」
「あなたにキスして服を脱がせてベッドに引きずり込みたいです」
真顔で何を言うのだこの男。
リズはちらりと、アルベルトの後方に見えている寝室に目を向けた。
さっきのぞいた時に、立派なベッドがひとつだけ見えた……ひとつだけ……。
「以前、私にかかっている呪いのようなものの話をしたことを覚えていますか?」
アルベルトに話しかけられ、リズはあわてて視線を彼の青色の瞳に戻した。
「え? ああ、はい……個人的なものなので、人に説明したくないというものですよね」
「あれは、リズ、あなただけは平気だったんですよ。あなたには嫌悪感を抱かなかったんです。初めから」
「初めから……?」
「ええ、あなたが面接に訪れたあの時から、私はずっと、あなたに囚われたままです。私は、おそらく、あなた以外の女性に触れることはできない。これはもう一種の呪いだと思いませんか」
なんと、六年も前からアルベルトはリズ一筋らしい。
――どうりで私が辞めると伝えた途端、様子がおかしくなるわけよね。
フェリクスの予想は当たっていた。アルベルトの奇行は、一生懸命、リズの気を引こうとしていたものだったのだ。全然気が付いていなかったけれど。
ふと、退職の日にもらった花束を思い出した。
バラの花束だった。
「それじゃあ、あの花束は……最後の日にいただいた……そういう意味だったんですか……? バラを選んだのは」
「もちろんですよ。個人的に花を贈った女性はあなたが初めてです」
「……枯れない魔法をかけたのは……」
「私を忘れてほしくなかったからです」
重たい。
これほど重たい気持ちでずっと想われていたなんて。
そして本日めでたく、両想いであることが判明した。
なんと、アルベルトの部屋で。
「……アルベルト様、もしかして私は貞操の危機なのでは……」
ごくりと喉を鳴らして再びアルベルトに焦点を合わせると、アルベルトが真顔のまま頷く。
「もしかしなくても貞操の危機です。あなたのことを好きな男の部屋にホイホイと上がり込む、あなたが悪いんですよ」
「そんなの知らなかったんだもの! だいたい、私の貞操を奪ったらアルベルト様は私と結婚しなければならなくなりますよ!? いいんですか!?」
「もとよりそのつもりです。それともリズは、私が結婚相手だと不満ですか?」
「不満はありませんが、アルベルト様は身分の釣り合ったご令嬢と結婚するべきだと思います」
「私が魔法使いでなければ、そうかもしれませんが、残念ながら私には魔法があって、身分にしがみつかなくとも出世が可能なんですよ。私とあなたの間には、あなたが思うほどの身分差はないんです」
本当にそうなんだろうか。彼は伯爵さまで、いずれは公爵さまになる人のはず。
この人と結婚すれば、リズはすぐにでも伯爵夫人で、いずれは公爵夫人である。
「第一、あなたはすでに社交界にて私のパートナーとして認められています。今さらですよ、今さら」
指摘されて、それはまあそうね、と納得しかけ、いやでも、ビジネスパートナーと正式なパートナーとではやはり求められるものが違うのでは? と、思い直す。
「リズ、愛しています」
アルベルトがリズをつかんでいた手を放し、両の手でリズの頬を包んだ。
その手は震えていた。
「あなたがいない人生なんて考えられない」
「……っ。でも……っ」
「何が不安なのですか? その不安は、私では取り除けないものですか?」
アルベルトに覗き込まれ、リズは再び涙をこぼさないように歯を食いしばった。
アルベルトが泣きそうになっていたからだ。
震えているのは恐怖から。
アルベルトだって怖いのだ、リズに拒絶されることが。
アルベルトが好きだ。好きな人に好きと言われた。嬉しい。だけどそれでいいの? この人は身分があって、立場もあって……。
仕事に真摯に取り組むアルベルトが好きだ。そばにいて彼を支える仕事に誇りを持っている。本当は辞めたくなかった。本当はずっと一緒にいたかった。一番近くで、彼の仕事ぶりと生き様を見ていたかった。彼の役に立ちたかった。
その人がリズを求めている。そしてリズから拒絶されることに怯えて、震えている。
その様子に込み上げてきたのは、愛しさだ。
好き、という気持ちよりももっと深くて大きい。
――距離がなんだというの。身分がなんだというの。
六年にわたりアルベルトのそばにいたのだ。
「わ……私で務まりますか……」
「逆に、あなた以外の誰が私のパートナーを務められると思いますか?」
アルベルトの優しくて切実な声音に、リズは陥落した。
私の六年はアルベルトが一番よく知っている。
逆も然り。
誰よりも長く彼の秘書を務めた。相性が悪かったら続くはずがない。答えはとっくに出ている。
「……私も、あなたを愛しています。アルベルト・ロイエンフェルト様……」
アルベルトが驚いたように目を見開くと、今までに見たことがないほど鮮やかな笑みを浮かべた。
レアだ。こんなに嬉しそうに笑う顔はそうそう拝めるものではない。しっかり記憶に刻み付けておこうと思ったが、すぐにアルベルトが顔を寄せてきた。




