14.逃げるな 1
この宿は本館とは別に、独立した離れがいくつかある。他の客にわずらわされずゆっくり過ごしたい、という上流階級御用達の宿なのである。
ちなみにロイエンフェルト家の別荘はこの近くにあるが、短期間の滞在かつ一人なら、別荘に泊まるよりも宿を使ったほうが安上りなので今回は使わなかったという。
アルベルトの部屋は、予想通り広かった。居間に寝室にバスルームとトイレまでついている。居間だけでリズが一人暮らしをしているワンルームがすっぽり入ってしまいそうだ。
一通りざっと見てまわったあと、リズはちょこんと居間のソファーの隅っこに座った。
「暗いですね。明かり……つけましょうか」
部屋はランプが灯されているだけだ。
部屋の明かりは天井の照明器具にはめ込まれている魔法石に魔力を流せば灯る仕組みだ。リズのように魔力がない人間でも使えるように、スイッチを入れれば魔力発生装置から微弱な魔力が流れて魔法石が輝くようにできている。空調もそう。魔法によって室内は適温に保たれる。
「ランプの明かりも趣があると思いませんか。見てください、窓の外がよく見える」
アルベルトに言われて窓の外に目を向けると、ライトアップされた中庭の紅葉が幻想的な眺めを作り出していた。
「きれい……」
リズはソファーに座ったまま、目を細めた。
その時、コンコンと控えめなノック音が響いた。
アルベルトが大股でドアに近付き開く。静かな話し声。リズのもとまでは聞こえない。
会話はすぐに終わり、アルベルトがドアを閉める。
「食事はこちらに運んでもらうことにしました」
「え、食事?」
「リズの食事は、本館の食堂で出される予定でしたが、アロワ家の別グループが食堂で勝手にパーティーを始めたそうで」
どうやら訪問者は宿の人だったらしい。
アルベルトの言葉に、リズは言葉を失った。
別グループ?
アロワ家はいったい何人で来ているのだろう?
もしかして一族郎党全員?
それにしても傍若無人、もとい、自由な振る舞いである。これなら部屋も取られるし、それに対して宿の人が強く言えないのもわかるというか……いやそこはやっぱり強く出てほしかったけれど……。
「何から何までお世話になります」
「いえいえ。いつもお世話になっているので、これくらいはね」
恐縮して頭を下げるリズに、アルベルトが返す。
その言葉に、リズは「ん?」と思った。
アルベルトがリズの旅に日程と行き先を合わせてきた理由……丁寧なエスコート……もしかして……。
「……もしかして、そのつもりで私を誘ったのですか?」
リズへのねぎらいのつもりだったのだろうか?
「そのつもり、とは?」
アルベルトに聞き返されて、ハッとなる。
「もっ、申し訳ございません! 決して変な意味では!」
慌てるリズに、アルベルトが「ブッ」と噴き出す。意味がわかったらしい。リズは恥ずかしさのあまり真っ赤になった。
それにしても、アルベルトがここまで笑う姿なんて初めて見た。
――この人でも噴き出すことがあるのね……。
今日はアルベルトの珍しい姿をいっぱい見られて、ものすごく得した気分だ。
今日まで我慢したリズのために、神様が特大のプレゼントを用意してくれたのかもしれない。
この楽しい思い出があれば、転職活動も頑張れる。
「リズが私におとなしくついてきたのは、私を信用してくれているからだとは思うのですが、一般論として、独身の男の部屋にホイホイついていくのはいただけませんよ。もし私が『そのつもり』だったらどうするんです?」
アルベルトが笑いをにじませたまま大股で部屋を突っ切り、上着を脱いでリズが座るソファーの反対側に放り投げる。
「私だって、独身男性にホイホイついていく危険性は承知しています。でも、アルベルト様は女性が苦手だし、結婚願望もありませんから、過ちは起きないと判断しました」
リズはアルベルトではなくアルベルトが投げた上着を見つめながら、答えた。
秋の日は暮れるのが早い。部屋はいつのまにか闇に沈み、部屋の片隅に置かれたランプの明かりだけになっていた。
ふう、とアルベルトが溜息をつく。
「信頼されているのは嬉しいのですが、まったく男として認識されていないことがはっきりわかって、少し悲しくなりました。私の今までの努力にまーったく手応えがなかったのも、そのせいだったんですね」
「え?」
何が悲しいって?
「リズ、私も普通の男なので、性欲はあるんですよ」
悲しい部分の説明はすっ飛ばして、アルベルトが言い放つ。
「でもアルベルト様は女性が苦手でしょう?」
リズは困惑しながら返した。
「女性は苦手です。秋波を送られると鬱陶しく感じます。ですが、例外も存在します。私だって人を好きになるし、その人に好かれたくて手を尽くすし、もちろんその人に欲情もする」
その言葉でかちりとピースがはまった気がした。
辞表を出してからアルベルトが奇妙な行動をするようになった理由。
『これって、アルベルト様も婚活を始めようという前兆かしら。手近な私で練習しよう的な何か?』
以前、フェリクスに予想してみせた言葉が胸に蘇る。
フェリクスはリズの考えに同意してくれなかったが、やっぱりそうだったではないか!
「……それで、その人に振り向いてほしくて、私を練習台にしていたのですか……?」
「練習台?」
怖い顔で呟いたリズに、アルベルトが眉をひそめる。
「私が気が付いていないとでも? アルベルト様、私が辞表を出してからなんだか様子がおかしくなりましたよね。アルベルト様に好きな人ができたけれど、口説き方がわからない。手ごろな練習相手が私しかいないから、いなくなる前に私で練習しておこうと思ったんでしょう!?」
言いながら、心の中に怒りが沸き上がってきた。
好きな人が別な人を口説くための練習台にされたなんて、そんなひどいことがあるだろうか!?
「は……?」
アルベルトの目が点になる。
「だ、だとしたら、私に対してあんまりでは……っ。わっ、わたし、ずっと」
ずっと堪えていた気持ちが、抑えていた恋心があふれて、リズの心を激しく揺さぶる。
涙が込み上げる。
「どうしてそういう解釈になる……」
「ずっとアルベルト様のことが好きだったのに!」
自分を制御できず、リズは思わず大声で叫んだ。
涙がぼろぼろと頬を伝い落ちる。
「んですかって……、え?」
アルベルトの動きがとまる。
言ってしまってから、リズはハッと我に返った。
――わ、私ったら……今、何を……!?
決して言うつもりのなかった一言を口走ってしまった。
どうしよう、アルベルトに嫌われてしまう。
「も、申し訳ございません。私としたことが。今の言葉は忘れてください。私、ロビーで待たせてもらいますね!」
アルベルトの整った顔に嫌悪感が浮かぶのは見たくない。
リズは乱暴に手の甲で涙を拭いながら立ちあがろうとして、アルベルトに腕をつかまれ、強い力でソファーに引き戻された。
思いっきりソファーに倒れ込む。
「何するんですか! 危ない!」
涙目のまま叫んで振り返ると、アルベルトはリズの腕をつかんだまま、今までに見たことがないほど目を見開いてリズを見つめていた。
「今……なんて言いましたか?」
「ロビーで待たせてもらいます」
「その前」
「私で練習しておこう」
「そのあと」
「も、もう、そんな細かいこと覚えてない!」
「好きだって聞こえました。私のことを好きだと」
「それは幻聴ですね、アルベルト様きっと大変お疲れなんですよ早く休まれたほうがいいです私はそろそろ失礼し」
「逃げるな」
アルベルトの腕を振り払って立ちあがろうとしたが失敗した。
アルベルトの手はがっちりリズの腕をつかんだまま、離れなかったのだ。




