第九十話 ハルト侯爵
「俺をですか?」
スタフィーノ公爵の発言を俺は念の為、確認する。
たしかに宿にいた俺を彼が訪ね、王都からの脱出を依頼してきた時、彼はそんなようなことを言っていたとは思う。
「そうです。スフィールト卿が宰相になられるのなら、反対する者はいないでしょう」
そう言った彼はだが、気がついたように言葉を継いだ。
「いえ。スフィールト卿はパラスフィル公国で伯爵に叙せられたのでしたね。それでは不足ですか……」
何が不足なのか俺には分からなかったが、イレーネ様には分かったようだった。
「歴代の宰相は王族や公爵、少なくともその下の侯爵の爵位を持つ方が就任してきましたから、そこを難じる方がいらっしゃるかもしれませんね」
少し心配そうな彼女の言葉に公爵は頷いていた。
「それでは私には荷が重いということですね。やはりここは公爵に……」
俺はもう一度押し返そうと、そう言ってみたのだが、公爵は俺ではなくイレーネ様の顔を見て言った。
「国王不在の間、臨時で宰相として政務を執られるのであれば、私が王家に連なる者として仮にスフィールト卿を侯爵に叙したということにしましょう。新しい王が即位され、それにご不満があるとおっしゃるのならば、お取消しになれば良いのです」
言っていることが矛盾していると思うが、彼の中では今は自分が王位に即くという考えはないのだろう。
だが将来、新しい王として即位する資格があるのは彼だけだろうから、その王にご不満があろうはずもない。
ジンマーカスが戻れば別だろうが、その時は俺が爵位を賜わることなど有り得ないのだ。
「ですが、それでは私は侯爵を自称するということにはなりませんか」
なんとか彼を説得できないかと思って俺は食い下がったが、彼は容易に首を縦に振ろうとはしなかった。
まだ精神的に王位に即くことには耐えられないのだろう。
「そうかもしれません。ですが、もうこれ以上は……」
体調もすぐれないようで、そう言って辛そうな様子を見せたので、俺は彼の寝室から下がるしかなかった。
「スフィールト卿のご懸念は分かります。私からもまた主人にお願いしてみます」
公爵の家臣のフランドは応接へ戻った俺とイレーネ様に申し訳なさそうに言ってくれた。
だが、あの公爵の様子を見るに、そう簡単には行きそうにない。
「困ったな。とりあえず俺がクーメルたちに頼んで政権を動かしていくにしても、このままだと王位にはジンマーカスが即いたままってことになる」
俺の目論見では、スタフィーノ公爵に即位してもらって、後は公爵に任せてしまうつもりだったから、それ以上のことは考えていなかったのだ。
「ハルト様が宰相になられたら、きっとこの国は良い国になると思います」
一方でイレーネ様はそんなことを言ってくださるが、それは俺を買い被り過ぎだと思う。
俺は元の世界でも劣等生で、そんな表舞台に立って民を導くとかそういう類いの人間ではないのだ。
(ハルト一世がいればな)
彼がいれば、俺はなんの憂いもなく彼に統治をお願いし、その下の小役人か何かで満足して働くのだ。
そもそもクーメルやシュルトナーがいるから俺なんかの出る幕はないし。
「そうだ。クーメルとシュルトナーがいるじゃないか。彼らに任せればいいんだ」
ハルト一世は偉大な君主で、すべて家臣に任せていたわけではないだろう。
だが、クーメルやシュルトナーも名臣の名を欲しいままにしてきた大人物なのだ。
「仕方ないな。一時、宰相の職を受けることにするか」
俺がそう口にすると、イレーネ様がまた、俺に優しい笑顔を向けてくれる。
「ハルト様。大丈夫です。ハルト様が宰相になられたら、きっと上手くいくと私は信じています」
何となく、イレーネ皇妃ならハルト一世にそう言うんだろうなって気がして、俺は不思議な気分だった。
「私はハルト様が宰相になられることに賛成です」
領主屋敷でクーメルに意見を聞くと、彼は迷うことなくそう答えた。
彼はそう言うんだろうなとは思ってはいたが、やはりそういう意見らしい。
「そうなるとハルファタへ戻らないといけないのかな? 面倒だな」
彼のことだからハルファタへ行ったなら、俺が政務を彼に任せることも計算のうちなのだろう。
それでも魔法帝国の大宰相となる彼からしたら、軽いウォーミングアップに過ぎないのかもしれない。
俺の方は公爵に王位に即いてもらおうと、せっかくスフィールトまでやって来たのに、目的を果たせずに帰ることになりそうだった。
「でも、そろそろシュルトナーも戻るんじゃないか? 彼を待ってから王都へ行くか」
可能性は低いが、スタフィーノ公爵を説得できるかもしれない。
彼の家臣たちも動いてくれているだろうし。
俺はそう思っていたのだが、フランドたちからの連絡はなく、その前にシュルトナーがビュトリス王国から帰還した。
「ただいま戻りました。大変なご活躍だったようですな。エフラットでもハルト様の噂でもちきりでしたぞ」
スフィールトへ戻って来たシュルトナーはそんなことを言った。
「ですがそのおかげでビュトリス王国はジンマーカスに力を貸すことを拒み、奴からの使者を追い返しましたから。それもハルト様の活躍あってこそですな」
さらにそう続けたので、俺たちはさすがに驚いてしまった。
「えっ! ジンマーカスはビュトリス王国に使者を送ったのか?」
俺が聞くとシュルトナーは「さようです」と言った後、
「クラウズ王子の一件で、すでにエフラットの王宮はハルト様に借りがありますからな。これ以上、ハルト様と事を構えるなど、考えるはずもありません。ジンマーカスからの使者に対し門前払いと言ってよい対応でしたから」
たまたまシュルトナーがビュトリスの王宮に滞在していたことも幸いしたのかもしれない。
彼の知るところとなったからには、裏で取り引きも難しかっただろう。
「ティエモザ王は急ぎパラスフィル公国へ使者を遣わし、ジンマーカスの一派を受け入れぬよう伝えてくれました」
別にビュトリスからの連絡がなくても、パラスフィル公国が彼らに力を貸すことはないだろうとも彼は言った。
大公となったティスモス殿下はさすがに俺のことを覚えているだろうから、そうであってもらいたいものだ。
「そうなると彼らはどうするんだろう?」
このジャンルーフ王国は大陸の西の端で、北東でビュトリス王国と、南東でパラスフィル公国と境を接しているだけなのだ。
「海へ逃れるという方法も考えられますが、現実的ではありませんな」
シュルトナーによれば、船を調達して海へ出ても、両国の港を利用できないのでは、その先の国まで航海することは難しいらしかった。
「それよりジンマーカスたちはどこにいるんだ? 使者を送ってきたのなら、捕まえることもできるんじゃないか?」
彼がスフィールトに帰って来るまでにかなりの時間が経っているだろうから、もうそこにはいないとは思う。
だが、ある程度の目星をつけることくらいはできるはずだ。
「どうやらティルナの町の側に潜伏していたようですな。あの町は国境も近いですから、万策尽きた場合には密かに国外に逃亡することも視野に入れていたのかもしれません」
幸い隣国はどちらも俺に好意的なようだから、すぐに攻め込まれるようなことにはならなさそうだ。
でもこのまま奴を逃すと将来、奴を押し立てて攻めて来る者が現れるかもしれない。
「困ったな。スタフィーノ公爵は王になってくれないし、やっぱり俺が宰相になるしかないのか?」
もともと俺はこの国の支配者になりたいとか、これっぽっちも思っていないのだ。
(待てよ。この世界はハルト一世によって統一されるはずだ。そうすると各国の支配者ってどうなるんだ?)
俺はそう考えて戦慄を覚えた。
このまま俺が宰相に就任し、この国を統治したとすると、将来ハルト一世に滅ぼされるのかもしれなかった。
「どうする。いっそ、ジンマーカスに使者を送って……」
「ハルト様。突然、何をおっしゃるのです」
あまりの恐ろしさに、俺は思わず声を出してしまっていたらしい。
シュルトナーに咎められたが、奴が滅びの運命を引き受けてくれるなら、俺はそれまでどこかで隠遁生活を送っていてもいい気がする。
ハルト一世に滅ぼされるよりはマシだろう。
「ちょっと待ってくれ。王国の統治者になったとして将来、その地位を平和的に誰かに譲ることは難しいのかな?」
自分で口にしておいて何だが、おかしな事を言っているなって思う。
案の定、シュルトナーは、
「何をおっしゃっているのか理解できませんな? どうして地位を譲る必要があるのです? しかもジンマーカスにですか?」
そう言って首を傾げていた。
俺は落ち着いてもう一度考えてみる。
(そうだ。もしハルト一世が姿を現したら、すすんで彼に統治者の地位を譲ればいいじゃないか!)
そう考えるとスタフィーノ公爵に国王に即位してもらうのは危険かもしれなかった。
彼がハルト一世と戦うと決めたら、俺まで巻き込まれかねない。
「それじゃあ、皆でハルファタに向かうか?」
俺がそう言った時、部屋のドアがバタンと音を立てて開けられ、ダニエラが飛び込むように入ってきた。
「ジンマーカスが殺されました!」
いつも落ち着いて謹厳な態度を崩さない彼が、珍しく慌てた様子でもたらした情報に、俺たちもまた驚かされることになった。
【ハルト一世本紀 第五章の三】
大帝がジャンルーフを治められるようになると、ハルファタをはじめ多くの町はこれまでにない繁栄を謳歌することになった。
「民は十分に食を得ることができ、楽しく歌って陛下を君主として戴くことを喜んでいます。これもすべて陛下の御徳によるものでしょう」
群臣は挙って大帝の治世を褒め称えた。
だが、国公が大帝を諫めて言った。
「陛下はこれに満足されてはなりません。食に飽き、歌に倦んでも彼らが身を正しく保つよう導くのが陛下の務めです」
その言葉に大帝は頷かれた。
「国公に従って、まずは民に学ぶ場を供しよう」
大帝に考えを大宰相がすぐに実行に移した。
各地に初等魔法学校が設けられたのは、これが始まりである。




