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第八十四話 マナヴィー湖

「この先は湖になっているのです。大昔にあの山裾が崩れ、川をせき止めたのでしょう」


 クーメルは街道を右に折れて、少し高台になった場所で野営の準備を命じた。

 そうして俺と数人の兵を連れ、川沿いまで戻ると、そう言ってサリハヤ川の上流を指差した。


「行ってみましょう」


 そんな行楽地を訪ねるみたいなことをしてていいのかなって思ったが、クーメルは林の中の道をどんどん進んで行く。

 途中から道は険しくなり、行楽ではなく探検って感じになってきた。


「ハルト様。この岩の上へ行けますか?」


 クーメルも無茶を言うなと思ったが、魔法を使えばなんてことはない。

 行く手を阻んだ大きな岩の上へ、俺はレビテーションを使って皆を連れて移動し、さらにその先の岩へと順に昇って行く。



「おおっ! これはすごい景色だな」


 ちょっとした絶景と言っていいだろう。

 青い水を満々と湛えた湖は、下から見た時には想像もできなかったものだ。


「あちらの峰々からはここを見下ろすことができるのです」


 クーメルがそう説明してくれて、たしかに北にある山からなら、ここに湖があることは一目瞭然なのだろう。

 でも、サリハヤ川の上流にこんな湖があるなんて俺は知らなかったから、ちょっと感動を覚えてしまうくらいだった。


「では戻りましょう」


 そんな感慨に耽る俺とは対照的に、クーメルは事務的と言った態度で俺に野営地への帰還を促した。


(せっかくだから、彼ももっとゆっくり景色を堪能すればいいのに……)


 そう思った俺の気持ちが顔に出たのだろう。彼は苦笑するように、


「ここへはまた参りますから。今日は、ここへ来られることが分かっただけで十分です」


 そう言って再び帰ろうと言ってきたので、俺は元来た道をまたレビテーションを使って戻って行った。



 そうして戻った野営地で、俺たちは二日間を過ごした。


「なあ。クーメル。この辺りには味方してくれそうな諸侯なんていないぞ」


 ここまで来る途中の小さな村では俺たちが到着する前に、部隊の接近に気がついた代官も警備兵も逃げ出して、味方に引き入れる者なんていなかった。

 どうせ川に沿って行くのなら下流である南に向かった方が良かったのではないかと思う。


 そちらならそれなりに名の知られた大きな町もあるからだ。

 だが、クーメルはいつものとおり落ち着いたものだ。


「ええ。そうですね。ですが諸侯が治める町へ出向いたとして、彼らがハルト様に味方してくれると思いますか?」


 それを言ったら身も蓋もないって気がするが、彼の言うとおりなのだろう。

 それに町の領主が協力してくれなかったからと言って、この兵力で町を占領にかかるなんて無謀以外の何ものでもない。


「じゃあおとなしくあの拠点でって……、そういうわけにもいかないか」


 俺の言葉にクーメルは静かに頷きを返してくれる。

 俺があそこにいるかぎり、敵はそう簡単には攻めてはこないのだ。


 ある意味スフィールトの袋小路に閉じ込めて無力化を図ってしまうことができれば、それで十分なのだから。


「そうです。そのために危険を冒してハルト様に陣地を離れていただいたのですから」


 そんな話をしているうちにも、彼が命じたアンクレードへの連絡とその復命を繰り返していた兵たちの一人から、クーメルが待っていた情報がもたらされた。


「王都方面から敵の大部隊がサリハヤ川の我が軍の拠点に向かって行軍中です。その数、およそ二万!」


「二万人だって!」


 俺は驚きの声を上げるが、クーメルは兵の報告を静かに聞いていた。

 そして彼が送り続けた連絡兵から、次々と続報がもたらされる。


「王都を出た敵軍は途中で野営をし、翌朝、我が陣に戦書を届けました。叛逆者スタフィーノを差し出すならこれまでの罪は不問に付す。さもなくば三日後の夜明けとともに攻め込み、王国の敵として殲滅するとのことです」


「三日後の夜明けって、明日の朝ってことか?」


 俺はもう浮き足だっていた。

 伝令の兵はほとんど寝ずに馬を走らせてくれたようだがそれでも陣地からは丸二日掛かっていた。


 このままだと戦書にあるとおり、味方は殲滅され、スフィールトの町は蹂躙されてしまうだろう。


「早く戻らないと!」


 今から戻っても間に合うかどうか。

 でも、俺一人だけでも戻れば魔法の力で何とかなるかもしれない。そう思ったのだが。


「ハルト様。お待ちください。敵はこちらの誘いにのったのです。この機を逃す手はありません」


 クーメルはいつものしたり顔で、そして自信に満ちた声でそう言った。


「いや。そんなこと言ったって……」


 自分の守るべき大切な人たちが危険に曝されているのに、どうしてそんなに落ち着いていられるのだろうといったクーメルの態度だった。


「ハルト様。アンクレードがいるのです。彼は敵の半ばが川を渡った時、ハルト様の助けがあることを知っています。それまで上手く敵を揺さぶり、損害を出さないように後退するはずです」


 たしかにアンクレードはハルト一世の大将軍だ。

 それでも彼我の兵力が隔絶する中、そんな神技みたいな芸当ができるのだろうか?

 それに……。


「俺の助けって?」


 クーメルは確かにそう言った。

 でも、こんなに離れた場所にいて、しかもすぐに馬を走らせても間に合うかどうかという状況で俺が彼を助けることなんてできるのだろうか?


 混戦になってしまうと、大きな魔法は使いづらいのだ。


「ハルト様に先日行った湖まで赴いていただき、サリハヤ川へと湖の水が注ぎ込む場所にある岩を魔法で打ち砕いていただきたいのです」


「どういうことだ?」


 そんなことをして何になるんだって一瞬思ったが、俺はすぐにそれに気がついた。


「まさか。水を使うって……」


 クーメルは陣地を出発する前に俺にそう言った。今回は水を使うのだと。


「ご想像のとおりです。湖の一部を決壊させ、鉄砲水を起こすのです」


 俺の魔法で川に流れる水の量を一気に増やし、ダムが決壊した時ような濁流に敵を飲み込ませようというのだろう。


「そんなことをしたら……」


「大変なことになります。敵兵に死者が出ることは間違いありません」


 彼の言い種に俺は腹が立った。

 この男は本当に、民を我が子のように慈しんだと言われたハルト一世の下で、治世に辣腕を振るった大宰相クーメルなのだろうかとさえ思えた。


「ふざけてる場合じゃないぞ!」


 俺が叫ぶようにその思いをぶちまけると、いつもは静かな彼がそれに負けないくらいの大きな声で、


「ふざけてなどおりません!」


 そう返してきた。さらに彼は話し続ける。


「私とアンクレードの間では、これしか手がないだろうという結論が早くに出ていました。敵はハルト様が簡単には取って返せない場所まで離れなければ攻め寄せては来ません。ハルト様の魔法の力を恐れることなく、大軍で一気に揉み潰せる見込みが立たなければ兵を送っては来ないのです」


 俺が呆気に取られていると、彼はもうあのしたり顔ではなくほとんど泣きそうな、真剣な顔を見せていた。


「スフィールトで私たちは多くの降兵を受け入れました。その中には心ならずも降った者もいるはずです。そうした者たちもハルト様は拒絶されることなく受け入れられましたから」


 たしかに彼の言ったとおり、俺はなるべく多くの敵兵を自軍に受け入れることにした。

 少ない味方の兵で多くの捕虜を扱うことに、何となく不穏な空気を感じたこともある。


 だが、とにかく味方の数が少なくて、少しでも兵力を補充する必要があったのだ。


「それでも全員を受け入れたわけではなかっただろう?」


 俺はその時のことを思い出して反論してみた。

 アンクレードは「さすがにこれは無理ですな」なんて言って、一部の兵は受け入れなかったのだ。


「当たり前です。それでは戦闘が起きた瞬間、裏切り者が続出し、我が軍は崩壊してしまいます。これまでひたすらジンマーカスに媚びへつらってきた者たちなど、どう考えてもハルト様のために働くとは思えませんから。それでもアンクレードだからあれだけの兵を受け入れたのです」


「そうなのか?」


 俺の反論など彼は予想していたのだろう。すぐにそう答えを返し、口調もいつもの静かなものに戻っていた。


「もちろん一部の兵はそうと知って受け入れ、外部と連絡が取り易く、いざとなれば切り離せる外縁部に配置しています。今ごろ彼らはせっせとハルト様不在の報を敵軍に送っていることでしょう」


 俺は彼の言ったことに違和感があって聞いたのだ。

 俺でさえどうかなと思ったような将兵をクーメルとアンクレードは信用できると言って採用していたからな。


 やはり彼らはそうと知って、敵の間者となりそうな者を受け入れたらしかった。


「それよりも問題はハルト様のお覚悟です。あのスフィールト郊外の戦いで、ハルト様は一度は覚悟を決められたと思っておりました。ですが、やはり心配していたとおりでした」


「いや。あの時はたしかにそう思ったんだ。だけど今回は……」


 そう言いながら、俺はやはり俺の魔法によって多くの人が傷ついたり、亡くなったりすることには耐えられない気がしていた。

 クーメルはそんな俺の気持ちはお見通しらしく、ふーっと大きく息を吐くと、


「この先の湖からアンクレードの兵がいる陣地まではたしかに恐ろしい水の流れが押し寄せるでしょう。ですがその先は川幅も広く、流れも緩やかになるはずですから、下流の町や村が被害を受けることはないはずです」


「そう。なのか?」


 たしかにここまでの道はかなりの上り坂になっていた。それに比べればあの拠点から先はなだらかな平原になっていたとは思う。


「そうです。それに下流の町ではサリハヤ川の護岸工事もされていたではないですか。百年に一度の大雨にも耐えられるとおっしゃって、見事な出来栄えだったと思います」


「えっ。あれってこの川の下流だったのか?」


 俺の驚きにまた彼は例のしたり顔を見せる。


「ご存知なかったのですか。あそこまで行くとかなりの大河だったでしょう」


 クーメルの言うとおり、俺が護岸工事を行った川はかなり大きな川だった。

 あれがこの川の下流の姿だとするならば、そう簡単には氾濫しないような気がした。





【魔法帝国地理誌 ジャンルーフ地方】(抜粋)


……ハルファタの北東に位置するマナヴィー湖は多くの観光客が訪れる景勝地であり、この地方を潤すサリハヤ川はこの湖を水源としている。


 マナヴィー湖にはかつては水面が現在よりかなり高く、急な岩壁まで水で満たされ、湖岸に平地がなかったという言い伝えがある。


 魔法帝国を建国したハルト一世が人々が訪れて楽しめるよう、水量を調整したと言い伝えられており、彼に仮託した伝説のひとつと考えられてきた。


 近年の発掘調査で、湖の水面が大きく変化した痕跡が見つかり、その時期がおおよそ紀元一千年前後とハルト一世が活躍した時代と重なることが分かってきた。


 マナヴィー湖の伝説については、今後の研究が待たれるものの一つである。


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