第七十五話 王都脱出
(まさかあそこで苦労するとは思わなかったな)
王都を抜け出し、夜の街道をスフィールト方面へ向かいながら、俺はテーバン兄さんとその隣を歩く彼の婚約者の姿を見ながらそんなことを思っていた。
俺の必死の訴えにも、彼は容易には首を縦に振らなかったのだ。
「どうして私まで逃げなければならないんだ?」
兄は自分の立場が分かっていないのか、何故かそんなことを言って俺を困らせた。
それでもスタフィーノ公爵が名乗って、彼に行動をともにしてほしいと頼むと、今度は二つ返事で承知したのだ。
どうも俺のことは田舎の領地にいた子どもの頃のイメージが抜けきらず、そう簡単に言うことを聞く気にはなれないようだった。
一方で公爵に頼まれれば、それに唯々諾々と従うのは、権威に弱い田舎貴族の悲しい性なのかもしれなかった。
俺にもその傾向はあるから、その気持ちは痛いほど分かる。
「待ってくれ。それならネマーニャも」
そんな兄はさらにそう言って俺を困らせる。
「誰ですか? そのネマーニャさんって」
追っ手が掛かるのは時間の問題で急いでいるのにと思ったが、兄は真剣だった。
「婚約者だ」
「えっ。そんな人がいるのですか?」
俺は現代日本でも、この世界から千年後であろう前世でも十五年で途中退場したから結婚したことはない。
だからそういうのは想像の範囲外だったのだ。
「この前会った時に言わなかったか?」
たしかに上司の娘と結婚が決まりそうだと聞いた憶えがある。
俺が王都東方の町を回っている間に、そこから一歩進んで婚約したということなのだろう。
「私一人だけがここから逃げるなんてできないぞ。それなら私はここに残る」
今ひとつ切迫感が欠けている気がするテーバン兄さんはそう言ってきかなかった。
「その方の家はここから近いのですか?」
仕方なく俺は兄にそう聞いた。こうなったらその婚約者も説得して早く逃げ出すしかないだろう。
でもそう聞きながら、あまりに迂遠なその方法に俺は嫌気がさしてきていた。
「いや、やっぱりもういっそ王宮に殴り込むか?」
スタフィーノ公爵から聞いたとおり、本当にジンマーカス宰相が極悪人ならそれもありかもしれない。
実際に俺たちは宿に踏み込まれたし、その可能性は高い気もする。
「何をおっしゃっているのです!」
公爵が驚きの声を上げたのは、俺の魔法の力をまだそこまで認識していないからだろう。
でも、王宮に踏み込んで間違いでしたってなったら、それはそれでまずいと思う。
そういう失態を演じては、将来のハルト一世への仕官にも響きそうだ。
「仕方ない。そのネマーニャさんも一緒に連れて行きましょう」
テーバン兄さんが教えてくれた彼女の家は、官舎からすぐ側の立派な邸宅だった。
兄の上司だと言っていたから、王宮に勤めるそれなりの高官なのだろう。
「ハルト様は兄上様とともに婚約者を説得してください。私は少し用を済ませて参ります」
クーメルは「すぐに戻ります」と言って何処かへ姿を消した。
何処へ行くのか俺が聞く暇もないくらいだったから、彼も慌てていたのかもしれない。
俺は仕方なく兄と彼の婚約者に行動をともにしてくれるようお願いすることになった。
「分かりました。ご一緒させていただきます」
もう深夜と言っていい時間の突然の訪問にも関わらず、ネマーニャさんの方が兄より数段、物分かりが良かった。
彼女は兄とは対照的な理知的な感じのする女性で、おそらく王都で教育を受けたのだろう。
「お急ぎでなのですね。すぐに準備をいたします」
良家のお嬢さんであろう彼女が、こんな夜中、そんなにすぐに出発できると俺は思っていなかったからとても意外だった。
「テーバン様の生命の危険もあるのでしょう? なりふり構っていられませんもの」
そう言って本当に着の身着のままで俺たちと行動をともにしてくれたのだ。
彼女の父親、テーバン兄さんの上司に当たる人は反対するかなと思ったのだが、
「王都にいてはネマーニャも危険なのですな。テーバンさん、ハルトさん。娘をよろしく頼みます」
初めて会ったばかりの俺の言葉を信じて、彼女を託してくれた。
程なくクーメルも戻り、俺たちは夜の王都を城門に向かって走る。
「ここから先は……、もう慣れましたな」
アンクレードは何だか嬉しそうだが、俺はちっとも嬉しくなんてない。
どうして俺は各地の町で『インビジブル』で身を隠し、『レビテーション』で城壁を跳び越えて逃げ出さねばならないのだろう。
でも悔しいかなアンクレードの言うとおり、俺にできることはそうして逃亡することだけだった。
「で、ハルト。王都を出たはいいが、この先どうするんだ?」
町の外に出ると、テーバン兄さんは俺にそう聞いてきた。
そういうのは俺の領分ではない。
「クーメル。どうしよう?」
俺の問い掛けにも彼はいつもの冷静な顔で答えてくれる。
「まずはこの先の町まで行って馬車を手に入れましょう。このままではすぐに追いつかれてしまいます」
「いいえ。私たちが町を出たことは知られていませんから、当分は追っ手は掛からないと思いますが」
スタフィーノ公爵はハルファタから逃げ出せたからか、少しほっとしているようだが、それは甘い考えだと思う。
「俺の魔法の力は、それなりに知られてしまったからな。特に最近、宰相府の要請で各地の町で魔法を使いまくったし、それなりに報告も上がっているんだろう」
それでも正式な復命前で良かったのかもしれない。
俺がほぼ一人で王都東方の町の耕地を劇的に拡大したと知られたら、もっと警戒されていたと思う。
「とにかく街道を急いで町まで行こう」
方針は決まり、俺たちはスフィールトへと続く街道を進む。
馬車がないので夜通し歩いて、翌朝やっと小さな町の前までたどり着くことができた。
「ネマーニャ。大丈夫かい?」
「ええ。大丈夫です」
ネマーニャさんはテーバン兄さんにそう答えていたが、歩くのはかなり辛そうだ。
眠ることもできなかったから疲労も溜まっているのだろう。
「俺も疲れたな。町に入ったら宿を取ろうか?」
俺は本心からそう言ったのだが、アンクレードは驚いた顔をした。
「ご冗談を。こんな王都の側で宿に入ったら、すぐに捕まってしまいますぞ」
そして俺を非難するようなことを言ってくる。
彼は頑健な身体を持っているし、普段から鍛えているからこのくらいなんてことはないのかもしれないが、ここにはそうでない人が何人もいるのだ。
「危険はありますが、少し休むしかないかもしれません」
公爵の家臣のフランドが主君の様子を見ながらそう言ってきた。
スタフィーノ公爵はかなり辛そうだった。
「さすがに夜が明けたばかりだし、まだ王都の中を捜索してるだけだろう」
俺もさすがに疲れていて、希望的観測を口にしてしまう。
だが、俺たちの後方から砂煙を上げ、騎兵が列をなして現れて、その甘い考えを打ち砕いた。
「あれは?」
「追っ手ですね。ハルト様!」
クーメルの意図は俺にはすぐに分かった。
「インビジブル!」
不可知の魔法で姿を消すと、俺たちは街道の脇に身を隠す。
その横を騎兵たちは全速力で駆け抜けて行った。
「まずいですな」
アンクレードの言うとおり、このままではまずい気がする。
騎兵たちは街道の先に見える町の中へと消えて行ったから、そこで俺たちの行方を探すのだろう。
「もう町へは入れないか……」
領地のスフィールトへ向かうと目星を付けられてしまっているようだが、こちらからわざわざ所在を教えてやる必要もない。
でも、町で馬車を調達できないとなると、この先も歩くしかない。
ここからスフィールトまでなんて歩いて向かったら半月くらい掛かるんじゃないだろうか。
「まずは国王の葬儀が優先でしょうから、その間にスフィールトへ逃げ込むしかありませんね」
クーメルの言うとおり、それ以外に良い方法はなさそうだ。
パラスフィル公国と違ってこの国には俺の領地もあるのだから避けられる争いは避けるべきだろう。
だがこのままだとジンマーカスが王位に就いたら、王国軍をスフィールトに進めてくるかもしれない。
「とりあえず歩くしかないでしょう」
そう言うアンクレードは問題なさそうだが、俺たちはもう限界が近い気がしていた。
とにかくどこかで休みたいのだ。
「この先の町に私の叔母が住んでいます。叔母なら匿ってくれると思います」
ネマーニャさんが教えてくれて、俺たちはそれを頼りに道を西に向かった。
スフィールトへは少し遠回りになるが、今はとにかく休む場所が必要なのだ。
炎天下の中、昼過ぎまで足を引きずって歩き、何とか彼女の言っていた叔母君が住むキヨプリの町へとたどり着いた。
「こちらです。急いで……」
例によって『インビジブル』と『レビテーション』で町への潜入を果たした俺たちは、彼女の案内でその叔母君の家へと急いだ。
「ネマーニャ。どうしたの突然。そちらの方々は?」
八人もの大人数で押し掛けた俺たちに、スティカという名のその叔母上はさすがに目を丸くしていたが、彼女が寝る場所を貸して欲しいと言うと、すぐに俺たちに屋敷の部屋をいくつか提供してくれた。
【ハルト一世本紀 第四章の二十】
ハルファタを献じられた大帝は、その地はスタフィーノに任せ、スフィールトへ帰ろうとされた。
「私は今は陛下の下を離れたくありません。どうかお連れください」
スタフィーノがそう願ったので、大帝はその希望を認められた。
町を出てしばらく進むと、今度は大宰相が願い出た。
「陛下の兄上はご婚約され、その親族がキヨプリの町にてご来臨を心待ちにしています。この機会に彼らに拝謁の機会をお与えになられては如何ですか?」
その願いにも大帝は鷹揚に頷かれ、キヨプリまで駕を枉げられた。
「私どもは陛下にごゆるりとお過ごしいただきたいと思っています。どうか我が家とお思いになって、心置きなくお寛ぎください」
つい先ごろまでハルファタ東方を忙しく巡られていた大帝は、この地で一時の安息を得た。
後年、キヨプリの町に特別の配慮がなされたのは、この時の歓待を大帝がお喜びになったからである。




