第六十八話 シュルトナーの帰還
「撤退を始めましたね」
「撤退と言うよりも潰走ですな。追撃しますか?」
カレークの軍は俺たちに背を見せて元来た街道を東に向かっていた。
「やめておこう。別に戦争をしに来たわけじゃないし」
「相手はそうだったと思いますがね」
アンクレードの言うとおりなのかもしれないが、クーメルの策のとおりに進めるというのなら、これで十分なはずだ。
「慌てる必要はありません。ハルト様のお力を知る人は少しずつ増えています。時間は私たちの味方ですから」
彼の方針を採用すると伝えた時、クーメルはそう言って涼しい顔だったが、俺は落ち着かなかった。
こんなことをしていてはますますハルト一世に出会えなくなるのではないかと思えたからだ。
だが兄のテーバンの王都での職や結婚話を守るには、こうするしかなかったのかもしれなかった。
「我々も引き上げるぞ!」
アンクレードが兵たちに命じ、俺たちはスフィールトへと兵を引いた。
「ただいま戻りました」
その後、カレーク側の動きもなく、俺はスフィールトで領主としての雑務をこなしたり、何より魔法の教師として子どもたちに学校で教えたりして過ごしていた。
そうして二か月が経った頃、シュルトナーが戻ってきた。
彼はいつものポーカーフェイスで俺には交渉が上手く行ったのか分からなかった。
だが、クーメルは、
「町の受け取りはいつですか?」
いきなりシュルトナーにそう尋ねて、失敗することなど端から想定していないようだった。
「来月末です」
一方のシュルトナーも当たり前といった様子で答える。
「随分と急だな」
俺はもうふた月もないじゃないかと思って言ったのだが、アンクレードは笑みを見せた。
「もう兵の準備は整っていますから、明日とは言いませんがすぐに受け取りに向かえます。来月末に到着するよう出発の準備を進めておきましょう」
彼はそう答えてくれたから、こうなることを想定していたようだった。
「よくそんなに簡単にビュトリス王国が納得したな。どんな魔法を使ったんだ?」
一兵も損なわずに俺の領地はほぼ倍に、いや『妖精の森』まで含めれば何倍にも広くなったのだ。
俺の魔法なんかより余程すごいと思う。
「クーメル殿が考えられたとおりのことを伝えただけです。これなら私が行く必要もなかったかもしれませんな」
シュルトナーの言葉に、俺がクーメルの方を見ると彼は苦笑していた。
「そんなことはないでしょう。中には恫喝を加えてくる者もいるでしょうし、甘言で誘ったり、何とか少しでも有利な条件を勝ち取ろうとするのは当然ですから。それに対応できる人は少ないのです」
クーメルの言うとおりだと俺も思う。
俺だったらきっと怯んだり丸め込まれたりして良い結果を得られなかっただろう。
「領内の関所はすべて撤廃し、通行税も取らないこと。さらに兵は二つの町にそれぞれ百人ずつ。まあ実質、治安要員だけですな」
シュルトナーが俺に説明したのは、彼がエフラットでティエモザ四世に示したカレーク領有の条件だった。
「さらに毎年、金貨千枚を王家に献上します。それで納得してもらいました」
「金貨千枚だって!」
俺は思わず大声を出してしまったが、そんなお金がどこにあるというのだろう?
「ハルト様。大丈夫です」
クーメルがいつもの冷静な声で俺に説明してくれた。
「確かに大金ですが、妖精の森が開かれて以来、スフィールトの町は大きく発展しています。そしてこれからはカレークの領主が掛けていた通行税も撤廃しますから、この町を通る街道が大陸の西と東を結ぶ主要街道になるはずです」
それによって町にもたらされる富は莫大なものになるだろうと彼は言った。
「それでも金貨千枚なんて……」
俺の目が恨めしそうに彼を見ているように思ったらしく、シュルトナーが憤慨したといった顔で、
「最初の三年は免除です。ご説明しようとしたらハルト様が大きな声を出されたから言いそびれてしまったのです。どうせカレークの領主は根こそぎ町の財産を持って行ってしまうでしょうからな。私もそのくらいは考えております」
そう言った後、少し落ち着いたのか「これもクーメル殿の提案そのままですが」と付け加えた。
「三年後には金貨千枚では少なすぎるとエフラットから苦情が来るかもしれません。そのために税収に対する比率ではなく、金額で決めたのですが」
苦笑するような様子を見せてクーメルはさらに追加の説明をくれた。
どうやら二つの町が発展することで、そのくらいの利益は十分に上がると二人は考えているようだった。
「まあ、いいや。それで兵士の方はどうなんだ。たった二百人で大丈夫なのか?」
俺は今度はアンクレードに聞いたが、彼は渋い顔だった。
「正直申し上げて治安維持だけで精一杯でしょうな。クーメルやシュルトナーが言ったとおり町が発展するのなら、トラブルもそれに比例して増えますから」
憮然とした彼の横からダニエラが言いにくそうに少し小さめの声で話し出した。
「ですが、こちらにはハルト様がいらっしゃいます。まさかあちらから攻めて来るとは思えませんし、二つの町は近いですから少し持ち堪えていればハルト様が駆けつけてくださるでしょう。町の守りは最小限で済みますから」
今回、カレークの軍は攻め寄せて来たが、それも一蹴したのだから、この辺りでも俺の恐ろしさはしっかりと認識されたはずだとも彼は自信を持って告げた。
領地の安全に資することができるのなら、俺が恐れられるのも仕方がないと諦めるしかないのだろう。
「それにしても、事後承諾で申し訳ありません。このように重要なことはもっと丁寧にご説明しておくべきでした」
クーメルがそう言って俺に頭を下げる。
でも、彼が本当に頭を下げるべきなのはハルト一世に対してだけなのだ。
「いいや。俺はこの地を預かっているだけだからな。俺が決めるより、クーメルやシュルトナーの考えたことの方が数段良い方策に決まっているし」
俺は本心からそう思って言ったのだが、クーメルはまだ珍しく申し訳なさそうな顔をしていた。
「交渉ごとですから、この場で決めても最後は現場で判断せざるを得ないこともありますからな。すべて任せるとおっしゃってくださって、安心して取り組めました」
シュルトナーも神妙な顔を見せる。
交渉ごとだといいつつ、すべてクーメルの考えていたとおりになったようだったが、それでも実際に相手方と向き合った彼はそれで安心できたのだろう。
「これで宰相閣下もご満足なのかな?」
彼はシュルトナーに嫌われているようだから、将来はハルト一世に粛清されるのかもしれないなと思う。
でも俺は今のところ彼の不興を買うわけにはいかない。
スフィールトの町を訪れる人が増えていて、その中にはハルト一世がいるかもしれないのだ。
当分はここで静かに彼を待ちたいと思っているのだ。
「彼は満足するでしょう。私が王宮にいれば、彼のために身の程を弁え、焦らずに不遜な考えを捨てるよう忠告しますがな」
シュルトナーはやはりジンマーカス公爵が嫌いらしい。
俺も友だちになりたいとは思わないが、そもそも彼のことはよく知らないから、好きも嫌いもないのだ。
「じゃあカレークの町を受け取ったら王宮へ命令を完遂したと報告してもいいんだよな。俺が行く必要があるのか?」
結局、カレークの町と妖精の森の帰属は、俺が両国の貴族を兼ねていることもあって曖昧なままになっている気がする。
それで任務完了って、ちょっとどうかとも思うのだ。
「それはハルト様に行っていただかないと。もちろん私もお供いたします」
どうやら俺はまた王都へ行かないといけないらしい。
サウィーナ先生からまた苦情を寄せられそうだなと思うと、王都行きは憂鬱だった。
それもあって俺はその後、翌月の月末が近づくまで、真面目に魔法の先生を続けていた。
その甲斐もあって、子どもたちのうちに魔法を使うことのできる者が順調に増えてきた。
そして……
「レビテーション!!」
「わー。すごーい!」
子どもたちが歓声を上げたのは俺に対してではなかった。
「イレーネ様。やりましたね」
彼女が浮遊の魔法で人間の身長の三倍くらいの高さまで上がり、そのままゆっくりと池の上を横切ったのを子どもたちは拍手で迎えた。
「ハルト様のおかげです」
緊張していたのか、上気したようにも見える顔色で彼女はお礼を言ってくれた。
「いいえ。イレーネ様が俺のことを信じてくださったからです」
それは俺の掛け値なしの感想だった。
彼女の年齢で魔法が使えるようになるなんて、奇跡に近いと思うのだ。
その証拠に彼女よりずっと小さな子どもでも魔法を使えない者は多いのだから。
「はい。私はハルト様を信じています」
そう言ってくれる彼女の笑顔が眩しかった。
【ハルト一世本紀 第四章の九】
大帝の大宰相に対する信頼は厚く、しばしば彼はすべての権限を委ねられた。
「大変有り難い思し召しなれど、外国との交渉ごとまで臣に委ねられるのは如何なものでしょうか?」
ある時、大宰相は大帝にそう尋ねた。
彼は博識であり、分を犯した臣下がたどる道を、多くの例から知っていたからである。
「戦場にあっては将は君命を受けざる場合がある。遠く使いする者に権限を与えねば、あたら有為な人材を失うことになろう。大宰相の心配は無用である」
大帝の言葉にも大宰相はまだ憂い顔を見せていた。
「外国とは異なことを。すべては大帝の有に帰すのです。所詮は内々のことに過ぎません」
国公がそう言って、君臣は互いに笑い合った。




