第四話 領主の依頼
「ハルト様がお怪我をされたのですか?」
領主館の俺が横になっている部屋へ、イレーネ嬢が駆けつけてくれた。
彼女は昨日までの貴族のお嬢様らしい可憐な装いではなく、動きやすそうな服装に、長い髪もまとめていた。
「イレーネ様。これはわざわざ」
クーメルが何か言っているが、俺はそれどころではない。
「ハルト様のおかげで敵は早々に退きましたから、私たちにはほとんど被害はないのです。本当にありがとうございます」
「こちらも傷は大したことはありませんぜ」
アンクレードは相変わらずそんなことを言っていたが、どうやら味方で怪我をしたのは俺くらいのものらしい。
(これも皇妃となる彼女を見捨てて逃げ出そうとした罰なのか?)
俺は痛みに顔を顰めながら彼女の方を見ると、彼女の水色の瞳と目が合った。
彼女の目には涙が溜まっていた。
「私が無理なお願いをしたために……。ハルト様。申し訳ありません」
そう言ってその後、彼女は献身的に俺の看護をしてくれた。
「その程度の傷で。放っておけばいいのです」
アンクレードの言葉にも彼女は首を振って、俺の肩の包帯を替えたりしてくれた。
幸い利き手ではなかったので、食事の世話まではしてもらわなくて済んだのだが。
俺は彼みたいに剣士としての訓練を受けているわけではないし、元々現代人だから痛みには弱いのだ。
グヤマーン軍を撃退した俺たちにファーフレント卿が会いたがっていると言うので、俺は痛みを堪えながら屋敷の応接へ向かった。
とは言うものの、アンクレードの言ったとおり俺の肩の傷はそれ程のものではなかったらしく、別に寝ている必要などない。
(少し騒ぎ過ぎたかな……)
そんな思いもあって少しバツが悪いので、辛そうな顔をしている面もある。
「ところで、あの焼き討ちはハルト殿がされたのですよね。いったいどうやって?」
戦闘に参加したことに対して俺たちにお礼の言葉を述べた後、ファーフレント卿はそう聞いてきた。
「まあ、そうですが。そこは秘密なので……。ご勘弁ください」
「そうですか。残念ですが。それにしても本当に驚くほどの手際ですな。わが領にとってみれば『軍神』とお呼びしたいくらいです。いえ、領民のうちにはすでにそう呼んでいる者がいるのです」
この世界の貧弱な魔法の力が常識である彼らには、本当にマジックを使ったように感じられるようだった。
そうして話がひと段落すると、彼は急に容儀を改めて、「ハルト殿にお願いがございます」と言ってきた。
「はい。どのようなことでしょう?」
俺みたいな若造に、この世界の父親より年上にみえる、しかも義理の間柄とはいえ未来の主君の父に改まった態度を取られて、俺は緊張してしまった。
「あなたにこの町の領主になっていただきたいのです」
ファーフレント卿はそう続けて、俺を驚かせた。
「いえ。ちょっと待ってください。領主はあなたではないですか。ファーフレント卿。あなたはどうされるのです?」
「私は引退します。この町を守ることのできるのは私ではなく、あなたしかいない。今日の戦で私はそう悟ったのです」
俺の問い掛けに、彼はまったく動じる色もなく、そう返答した。
「王国に何の断りもなく勝手に領主が交代するなんて、あり得ないでしょう?」
俺にしては常識的な意見だと思ったのだが、卿は諦めなかった。
「国王陛下のお許しなら、後で申請いたします。もちろん正式には陛下に認められてからということになりますが、それまで仮にでも」
「私がこの町の領主になる道理がないではないですか? 私は一介の勲爵士の三男に過ぎません。誰も納得しないでしょう」
俺の返答にファーフレント卿は莞爾とした笑みを見せた。
「では、イレーネをハルト殿の妻としていただけませんか。そうなれば、ハルト殿は我が家の婿ということになる」
(ああ。なるほどね。それなら……)
なんて俺が思うと、ファーフレント卿は考えたのだろうか?
それに彼女は俺と同じくらいの年齢に見えるのだが。
「いえ、いくらなんでもまだ早過ぎるのでは……。それにイレーネさんのお気持ちも……」
「もともとイレーネにはそろそろ婿を迎えねばと考えていたのです。それにイレーネは危機から救ってくださったあなたに感謝をしています。まさか否やはありますまい」
こういうところは、俺はまだ現代日本の感覚が抜けきらないのだと気づかされた。
前世でもっと長く生活していれば違ったのかもしれないが、前世も途中退場だったからな。
「イレーネがお気に召さないのでしょうか? 親の私から見ても素直な優しい娘だと思うのですが」
「いえ。決してそんなことは……」
イレーネ嬢が将来の皇妃だとしたら、俺は主君として仕える予定の未来の皇帝、ハルト一世から睨まれてしまう。
彼と皇妃イレーネは、とても仲睦まじい夫婦だったようだから、それを横取りするなんて絶対に許してもらえないだろう。
(でも、もしそうでなかったら……)
正直言って彼女はかなり可愛らしかった。
大きな目にアクアマリンのような水色の瞳。透き通るように白い肌は瑞々しく輝くようだ。
それに話をしたのはほんの少しだけだったが、それだけでも聡明なことがよく分かった。
問題は彼女が未来の皇妃である可能性があることだけなのだ。
「イレーネさんは私などより、もっと高貴な方と結ばれる運命なのではありませんか?」
俺は必死で前世の記憶を手繰り、思い出したことがあった。
イレーネ妃にも生まれた時の逸話があったはずだ。
(たしか母親が祝福された赤ん坊を天使から受け取る夢を見て、占い師から『この子は将来、王妃になられる』とか言われるんじゃなかったかな?)
「そのようなことは。ハルト殿は三男とはいえ貴族の家柄。失礼ですが、イレーネの婿として問題があるとは思えませんが」
(あれ? じゃあ、彼女は皇妃ではないのかな?)
俺は判断がつかなくなったが、やはりきちんと確認しておくべきだろう。間違いがあったら取り返しがつかないからな。
「いえ。イレーネさんがお生まれになる時に、奥様が縁起の良い夢をご覧になったと伺った気がしましたから。高い位に登られるのかと思ったのですが」
念の為、そう聞いてみると、ファーフレント卿は驚いた顔を見せた。
「どうしてそのようなことをご存知なのですか?」
(やっぱり! 彼女はイレーネ妃じゃないか!)
「私も忘れていましたが、あの娘が生まれた後、妻がそんなことを言っていましたな。空に浮かんでいるような気持ちの良い夢だったと」
どうやら俺の懸念どおり、彼女はハルト一世の妃になる女性のような気がした。
(でも、夢の内容はかなり伝説と違う気がするけど……)
俺がそんなことを考えて黙っていると、卿は俺の顔をまじまじと見ていた。
「あなたはそのようなこと、どこでお聞きになったのです? ハルト殿は不思議な方ですな」
「我が主君は常人とは異なりますからな」
驚くファーフレント卿を煽るようなことを、クーメルが付け加える。
「今はこのようなご身分ではありますが、必ずやイレーネ様に相応しいお立場になられることでしょう。いえ、我らをさらなる高みへと導いてくださるお方です」
「…………!」
絶句した俺とは対照的に、クーメルは落ち着いたしたり顔で卿に話し続けていた。
「ちょ、ちょっと失礼」
俺は何とかそれだけを口に出すと、クーメルの腕を引いて、その場を逃れる。
「クーメル。何てことを言うんだ。俺を反逆者にするつもり……ではなくて、俺は彼女と結婚するわけにはいかないんだ!」
「ハルト様は彼女を娶られるべきです」
焦る俺に、彼は落ち着き払った様子で告げた。
「まずはそうして、この領を足掛かりとされるのが上策かと思いますが」
「いや、俺は……、とにかく彼女と俺が結婚するなんて、とんでもないぞ!」
俺が少しばかり大きな声を出したところ、間の悪いことに、イレーネ嬢が俺たちの側に近寄って来ていたのだった。
「ハルト様。私のことがお嫌いですか?」
背後から突然、彼女の声が聞こえ、俺はまた絶句することになった。
【ハルト一世本紀 第一章その四】
敵軍が去ると、尊い大帝をその疎屋に迎えた岳父は、彼に皇妃となる娘を献じようとした。
「今はまだその時ではない」
大帝はそう言って固辞された。
大帝にとって、皇妃を娶ることは天に定められたことであり、時を待って自然に成就することを望まれたのだ。
「後日、陛下に再びお目にかかるまで身を清め、静かにお待ちいたします」
皇妃も同様の意志を示したので、岳父は畏れ多く、彼らの意を迎えることにした。
「この地の陛下にまつろわぬ者を平らげれば、自然とその時が訪れましょう」
大宰相も静かにそう付け加えたので、岳父は恐懼して引き下がった。