第百十五話 イナルガの反乱
「ああ。疲れたな」
王宮から宿舎に帰った俺は、さすがにかなり疲労を感じていた。
「お疲れ様でした。無事にお帰り下さって。安心しました」
イレーネがそう言って迎えてくれたが、どうもあまり嬉しそうに見えない。
いつも俺の前では花が開いたような笑顔を見せてくれるのだが、今の彼女の表情は少し憂いを含んでいるようにさえ見える。
「ああ。とりあえずは無事に宰相に就任して、女王陛下から公爵に叙されたんだ」
俺はさすがにアンジェリアナ女王との結婚の話があったことは伏せた方がいいなと思っていた。
わざわざイレーネに心配を掛けることはないと考えたからだ。
「それだけですか?」
だが彼女は何かを感じたようで、いつにない様子で俺に尋ねてきた。
「何か気になることでもあるのか?」
俺はできれば知られたくなかったのだが、彼女は何か勘づいているようだった。
「私はこの国には来たくなかったのです。女王様はきっとハルト様のことを気に入られていると、以前ここへ来た時、そう思いましたから。随分とお時間も掛かりましたから、気を揉んでいたのです」
「あ、ああ。そうか……」
彼女の真剣な眼差しに、俺は黙っていることができなかった。
俺に断られているから面目丸潰れって感じで、外に漏れる可能性は低い気がするが、あの女王様の性格だと平気で、
「おお。余を振ったスフィールト公ではないか。どうだ。その後、気は変わらぬか?」
とか聞いてきそうな気もするのだ。
何処からかイレーネの耳に入るより、俺からきちんと説明しておくべきだろう。
「実は女王陛下から結婚しないかと誘われたんだ」
俺はなるべく重くならないように言ったつもりだったのだが、イレーネが息を呑んだ音が聞こえた気がした。
「もちろん断った。この国では将来、魔法を使えるようになった子どもたちを率いて、俺が攻め込んで来るって言い振らしている者がいるらしい。だから女王様はそんな俺を取り込んでしまおうと考えられたようなんだ」
イレーネは俺の説明を黙って聞いてくれていた。
「俺はそんなことをする気はないから、心配する必要もないし結婚なんて無理だって答えた。俺にはイレーネがいるからな」
「でも……、女王様はハルト様が私と結婚していることはご存知だったのではありませんか?」
イレーネは不安をその顔に浮かべ、俺に尋ねてきた。
彼女の辛そうな表情に、俺はやはりこの話をするのではなかったかと、胸が痛む気がした。
「ああ。知ってはいた。だからとんでもないって俺は断ったんだ」
俺の言葉にイレーネは下を向いて、目を瞬いているようだった。
そして、顔を上げるとまた口を開いた。
その声は微かに震えているようだった。
「女王様が何をおっしゃったかは大体分かります。ハルト様は公爵になられて、私などが隣にいるべきではないことは分かっているのです」
聡明な彼女にはアンジェリアナ女王の言ったことなど手に取るように分かるのだろう。
それが自分にとって辛い言葉であっても。
「いや。そんなことはない。イレーネは俺にはもったいない人だって彼女に言って、きちんとお断りしたんだ。俺は今こそ公爵だなんて言っているけど、もともとヴェスティンバルの田舎者だしな」
そういうことが言いたいわけじゃないって、自分でも分かっていた。
でも、彼女の辛そうな様子を見て、俺はとにかく何か言わないとって焦っていたのだろう。
そんな俺の思いに反して、彼女はまた顔を伏せて、しきりと小さく頭を振っていた。
「もし俺が公爵になったことで、イレーネが俺から離れて行くと言うのなら、俺は公爵の位なんていらない。ラマティアの町で無位無官の身になって、二人で暮らしたっていいと思っているんだ」
「そのようなこと。本当に?」
もう一度、顔を上げた彼女の目は大きく見開かれ、少し濡れているようだった。
「ああ。でもクーメルやアンクレード、それにシュルトナーやダニエラに悪いから、できれば彼らの身の振り方を考えてからだな。そうそう、先日仲間になったフィロメもな」
俺がそう答えると、彼女は少し冷静さを取り戻したようだった。
「そうですね。ハルト様は私だけのハルト様ではないって分かってはいるのです。でも、先ほどのお言葉、とても嬉しかったです。私はハルト様を信じます。これまでと同じように」
笑顔を見せてくれた彼女に、俺はやっと少し安心することができた。
「ああ。信じてもらって大丈夫だ。俺は時間が経つにつれてイレーネから信頼されなくなってきているみたいで気になっていたんだ」
そんな軽口も口にすることができるようになった。
「その。申し訳ありません」
彼女は恥ずかしそうに謝ってくれたが、もちろん俺だって本気じゃない。
「いや。冗談だよ。でも信じてもらいたいのは冗談じゃない。俺の妻はイレーネしかいない。だから安心してほしい」
「はい」
俺はハルト一世がこれから興す帝国に、自分の居場所がなくなるかもしれない危険があることを承知の上で、彼女と結婚したのだ。
そして、それを彼女も望んでくれていることを、あり得ないことだと思っていた。
彼女の笑顔を、それはいつも俺に見せてくれるものなのだが、俺はとても眩しいと感じていた。
キルダ王国での叙爵や宰相就任の儀式はこれまで以上の規模で、十日ほどの間、俺は王宮に官衙に練兵場にと引き回されることになった。
そういった行事にはここではイレーネにも同行してもらっていた。
「私などがご一緒させていただいてよろしいのでしょうか?」
彼女は遠慮していたが、いつも俺の側にいてもらうことで、彼女が俺のパートナーだって周知することにもなるだろう。
そうして一連の行事が済んでひと息ついたところで、ケムリックの町にいるフィロメから緊急の連絡があった。
「イナルガの町の元領主のバルナラーバが閣下に叛旗を翻し、町を占拠し、同盟からの独立を宣言しました。バルナラーバは旧イナルガ派の各町に檄文を送り、それらの町を糾合して閣下を逐おうとしています!」
早馬で知らされた内容は憂慮すべきものだった。
俺はキルダ王国へ行くと言ってしまった以上、早くそれを果たしたくて焦ってしまった面がある。
本当ならある程度の期間、例えば半年とか俺があの地に留まって共同統領として地域の安定を見てから動くべきだったのだろうが、そうもしていられなかったのだ。
「フィロメのいるケムリックの町は大丈夫なのか?」
あの町はもともとイナルガ派ではないし、キルダ王国との国境も近いから何かあれば撤退するのも容易だろう。
「はい。フィロメ様は閣下に申し訳が立たないと、兵を動員しようとされましたが、ケムリックの町でさえ、言を左右して動員に応じておりません」
にわか統領の弊害が出たなって俺は思った。
評議会こそまとめられたものの、それはその場の雰囲気や勢いもあったことは否めない。
そのめっきが剥がれれば、俺はペルティア都市同盟とは縁もゆかりもない外国人の、しかももとは田舎勲爵士の三男に過ぎないのだ。
「とりあえずケムリックヘ向かうか?」
俺はダニエラに相談してみた。
「ケムリックの町の兵さえ使えないとなると、こちらの使える兵はほとんどありません。さすがに危険ではないかと思いますが」
それでもフィロメが頑張っている以上、彼女に実質的な共同統領の代行を依頼した俺は、駆けつける必要があると思った。
七功臣の一人である彼女を見捨てたと知られたら、俺なんてハルト一世からどんなお叱りをこうむることか分かったものではない。
彼は臣下をとても深く思い遣ったと言われているのだから。
「それでもフィロメを救わないとな。彼女を失うことは大きな損失なんだ」
今はペルティア都市同盟で俺の代行をしているに過ぎないが、彼女は将来、魔法帝国に莫大な富をもたらすはずなのだ。
「どうしてもとおっしゃるのなら、身命を賭してお護りいたします」
ダニエラの様子は悲痛なもので、ハルト一世の近衛騎士団長の彼をして、そう言わしめるとすれば、ペルティア都市同盟の状況は、俺が思っているより厳しいものなのかもしれなかった。
「いや。そうなのか? そんな生命を賭けないといけないくらいなのか?」
フィロメもそうだが、ダニエラだって失うわけにはいかないのだ。
これはもう俺が単身、ケムリックの町に乗り込んで、とにかくフィロメだけでも救って逃げ帰って来るかなんて考えてしまったが、それもあまりに無責任だろう。
(まずいな。ペルティア都市同盟を大混乱に陥らせて、俺の能力不足を露呈してしまったかな)
余計なことをせずにスフィールトの町でハルト一世が姿を見せるのを待っているべきだったかとも思うが、俺は別に自分から望んで動き回ったわけではない。
俺が自分から始めたことって、魔法学校の設立くらいのものだと思うのだ。
「これは進退極まったかな?」
ズィンクの町のファンタヴァ卿が、俺がキルダ王国の宰相になるって知った時に、似たようなことを言っていた。
俺の今の状況はある意味、それ以上だと思う。
だが、俺が彼と違うのは、俺には優秀な臣下が綺羅星の如くいることなのだ。
「ハルト様。まだエルバネにいらっしゃいましたね。間に合って良かったです」
「クーメル!」
宿舎で無い知恵を絞る俺の前に現れたのは、スフィールトにいるはずのクーメルだった。
【ハルト一世本紀 第五章のニ十九】
キルダの地を巡撫されていた大帝の元を大宰相が訪れた。
「陛下のお力によって既に南方は治ったかに見えますが、僅かに乱の兆しを見ましたので罷り越しました」
大帝に拝謁すると彼はそう言って、近衛騎士団長に兵を用意させるよう願った。
「固より謹厳な彼に油断などあろうはずがない。大宰相の願いはすぐに叶えられるであろう」
大帝のお言葉のとおり、近衛騎士団長の準備は万端であった。
火事は小火のうちに消し止められ、民はその手腕に大帝を仰ぎ見ること神を見るようであった。
「この功は大宰相の慧眼に帰するものである」
大帝は大宰相を褒めてそうおっしゃったが、彼は首を振った。
「臣を草莽から拾われ、その言を用いられたのは陛下です。すべては陛下の御徳によるものです」
大宰相が自らの功を徒に誇らないのは、いつもこのようであった。




