第百十四話 アンジェリアナ女王
「それで私にお話とは何でしょうか?」
『聖者の間』と呼ばれる部屋は、宮殿のかなり奥まった場所にあった。
小ぢんまりとしているが、そこは王宮の中のこと、調度は豪華で、天井には見事な絵が描かれていた。
絵の中で天使に祝福を与えられているのが聖者なのだろう。
「まあ。そう急くでない。ゆっくりと語ろうではないか」
女王陛下はそう言って、部屋の中央のソファに腰を下ろす。
俺はどうしたものかと少しの間、そのまま立っていたのだが、彼女がテーブルを挟んで反対側にあるソファを勧めてくれたので、それに従うことにした。
侍女がお茶を淹れ、女王陛下と俺の前にそれぞれティーカップが置かれる。
彼女は優雅な所作でカップを持ちあげると、口をつけた。
「どうした。パラス山脈の高地で採れた茶葉で淹れたものだ。我が国の自慢の逸品だぞ」
そうしてお茶を勧めてくれるが、俺は彼女の要望が気になって、のんびりとお茶を飲む気分ではなかった。
彼女は俺に受けて欲しい事柄が三つあると言った。
そのうちの二つはそれぞれ、宰相への就任と公爵への昇爵だった。
そして俺が公爵になることが、この後の話に関係するとも言っていた。
どうも俺がジャンルーフ王国の、そしてパラスフィル公国の宰相に就任したのを見計らって、上手く事を運ばれてしまったという気がする。
そうして退路を断っておいて、俺に無茶な要求をしてくるのではないか。そんな危険な匂いがした。
「そうか。どうやらあまりゆっくりと話をする気にはならぬようだな。致し方あるまい。すぐに本題に入るとしよう」
彼女はカップをソーサーに戻すと、真っ直ぐに俺の顔を見た。
豪奢なダークブロンドの髪が揺れ、緑色の瞳は俺の目を射るようだ。
「スフィールト公爵よ。そなた余と結婚する気はないか?」
「は?」
想像もしていなかった言葉に、俺は間抜けな声を出してしまった。
彼女は俺がイレーネと結婚していることを知らないのだろうか?
さすがにヴァンサンドル卿が伝えてくれていると思うのだが、彼はああ見えて実は粗忽な男なのだろうか?
「結婚じゃ、結婚。つまり余と結婚して王配となるということじゃな。どうだ。悪い話ではなかろう?」
「えっと。俺……いえ、私は結婚しているのですが……」
この世界の教会の教義は一夫一婦制だったはずだ。少なくとも千年後の世界ではそうだった。
でも実は千年前であるこの世界では、貴族は複数の妻を持ったりしていたのだろうか?
俺は記憶をたどってみたが、そんなことを教わったことはない気がした。
まあ、あまり学校で習うことではないのかもしれないが。
「知っておる。だが、離縁すれば良いではないか。別に余はそなたが再婚でも気にせぬぞ」
随分と簡単に言ってくれるなと、俺は驚きを通り越して呆れる気がした。
俺の相手はその辺りの女性とは違うのだ。
本来ならこの世界を統べるハルト一世の傍らにいて、その聡明さと美しさを称えられる皇妃となられる方なのだ。
この世界では俺しかそのことを知らないのが残念だが。
「お断りします」
俺は散々悩んだ末にイレーネと結婚することを決めた。
それは俺のこの世界でのこれまでの人生を賭けるくらいの決断だった。
何しろ自分が仕えると決めていた主君の妻を奪うのだ。
反逆者として追放されるくらいならまだマシで、生命の危険さえあるかもしれなかった。
唯一の光明は、俺が先に彼女と知り合い、ハルト一世と出会う前に妻にしてしまったことだ。
さすがに出会ってもいない女性を俺が妻にしたからといって、罰せられることはないと信じたい。
「断るとな。分からぬな。悪いがそなたの結婚の相手は男爵の娘だそうではないか。父親はジャンルーフの辺境の町の領主と聞いたが」
やはりイレーネについては調査済みらしかった。
たしかにファーフレント卿が治めるラマティアの町はジャンルーフ王国の王都ハルファタからはかなり西に外れた町だ。
俺の父親の領地であるヴェスティンバルよりはだいぶマシだが。
「手切れ金は十分に用立てるぞ。それを持参金に男爵の身分に見合った立派な婿を迎えた方が彼女のためでもあろう。そうは思わぬか?」
そうなのかもしれないが、俺はもう彼女を知ってしまった。
そして彼女も俺と出会って以来、俺なんかのことをずっと信頼してくれていた。それこそ奇跡的に魔法が使えるようになるほどに。
だから俺は彼女と離縁するなんてことは考えられないのだ。
「いいえ。私も先ほど申し上げたように、元々ジャンルーフ辺境の勲爵士の三男に過ぎません。それに彼女は私などにはもったいない人です。彼女と別れるなど、あり得ないことです」
俺はもう一度、今度はきちんと理由を添えてイレーネと離縁する気がないことを告げた。
「分からぬな。彼女はたかが男爵の子女に過ぎぬ。そなたはすでに公爵に昇っておるのだぞ。いかに古い付き合いであっても、いや、だからこそ状況が変われば相手との関係も変わって然るべきではないか?」
「たしかに自分からは言い出しにくいことかもしれぬがな」と付け加えて、彼女は一旦、視線をティーカップに落とした。
「先ほども申し上げたとおり、彼女は私などにはもったいない存在です。私は自分などが彼女を娶ったことに罪悪感さえ覚えているのです。ですから陛下と結婚することはできません」
俺はもう一度、女王陛下にそう申し上げた。
最初はハルト一世に仕えた時、彼の愛する皇妃であるイレーネから嫌われていたら出世は覚束ないという打算の思いもあった。
だが、彼女とともに過ごした日々が、俺の心を変えたのだ。
彼女のいない人生など考えられないという想いが生まれ、それはどんどん大きく強く、俺の心を占めるようになったのだ。
「そうか。それでは将来、そなたは余に退位を迫るつもりか?」
「えっと。どうしてそういうことになるのですか?」
いきなり理解不能な言葉を投げ掛けられ、俺は思わず失礼な物言いをしてしまったと思う。
それでも彼女はそれを咎める様子を見せなかったが。
「ジャンルーフで、そして最近ではパラスフィルでもそなたは子どもに魔法を教え、魔法を使える者を養成しておると聞いている。その者たちを使い、将来、我が国を含めた周辺諸国を併呑せんとしておるのではと疑う者も多いのだ」
どうも俺の魔法学校の設立が酷い誤解を生んでいるらしい。
俺はこの世界の千年後の魔法文明が発達した世界を知っているから、魔法が使えないと不便だなって単純に思って始めたことなのだが、そうは取らない人もいるようだった。
「いえ。そんなことは考えていませんし、陛下に退位を迫るなんてするはずもありません」
そう答えながら、でもハルト一世が世界統一を果たしたら、彼女はどうなってしまうのだろうとふと思った。
俺が退位を迫ることはなくても、歴史の必然として彼女は退位するしかなくなるかもしれないのだ。
(その時は俺もできるだけ口添えするようにしよう。せめて皇家に準ずる扱いを受けられるようにするとか)
俺はそこまで考えて、ハルト一世が現れたら彼女と結婚してもらうのはどうだろうかと思いついた。
イレーネは俺と結婚してしまったから彼の皇妃になることはできない。
その点、アンジェリアナ女王は独身だし、いみじくも彼女の言ったとおり皇帝の相手として相応しい身分の女性だ。
それに彼女は失礼だが目鼻立ちのはっきりとしたかなりの美人でもあるから、ハルト一世も気にいるのではないかと思うのだ。
「そうか。その言葉を信じるとしよう。そなたは結婚を解消せぬと言うし、一度口にしたことは簡単には違えぬようだ。こうなってみると心強い気もするな」
彼女は少し安心したようにそう言った。
「この国の宰相にも任じていただきましたから、子どもたちに魔法も教えましょう。それに陛下には私などよりずっと素晴らしい方が現れますから」
これってイレーネに言っていたことと同じだなって、俺は不思議な気がした。
でも、俺なんかが女王陛下と結婚するとか、やっぱりあり得ないのだ。
「そうか! まさかそなたの方から我が国の民に魔法を教えると言い出してくれるとは思ってもみなかったぞ。近い将来、そなたが魔法兵の軍団を編成して攻め寄せてくるのだと主張する者も多くてな」
俺はそんなことは頭の隅にもなかったが、魔法を使える者が極端に少ないこの世界ではそう考える方が普通なのかもしれなかった。
いや、やっぱり俺のこれまでの振る舞いが、そういった評価を招いている気もするのだが。
「そのようなこと、するはずがないではありませんか。まさか陛下はそれを心配されて、私などと……」
俺は種明かしをされたような気がして興醒めって思いだった。
俺を取り込めばそうした危険から国を守れるって思われたのかもしれない。
「いや。そのようなことはないぞ。それにそなた以上の者などそうそう現れまい。そなたならこの世界を統一できるかもしれぬと、余はそう思ってさえいるのだがな」
ハルト一世でもあるまいし、さすがに買い被り過ぎにも程がある。
そういうのは俺の柄ではないのだ。
「それに余はそなたに好意を持っておる。それは間違いないからの」
俺の顔が不審そうに見えたのか、女王様は慌ててそう付け足した。
リップサービスが過ぎるのも、俺を恐れているのかもって、俺はこの国でクーメルの口車に乗ってやり過ぎたことが恨めしい気がしていた。
【最後の女王アンジェリアナ〜キルダ地方の郷土史より】
ハルト一世の魔法帝国再興以前にこの地を治めていたキルダ王国では、紀元九百九十年前後に若くして即位したアンジェリアナ女王が最後の王となった。
正史にはその記述はないが、キルダ地方では彼女がこの地を訪れたハルト一世と恋に落ちたと伝えられている。
彼女は豪放磊落な女傑であったと伝えられていることや武を尊ぶ土地柄、さらにはその劇的な最期の様子から彼女には似つかわしくない俗説とされてはいる。
しかし、彼女が非業の最期を遂げ、その後、帝国が成ったことから、特にこの地方では彼女に憐憫の情を持つ者が多く、ハルト一世との悲恋物語が様々な形で作られ、残されている。




