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寡黙な愛を貴方へ

雄弁な愛を君へ

作者: 猫田ねこ

 生命の誕生は力強い福音によって齎される。

 浅黄色の髪を額に張り付けさせ、嬰児(えいじ)を胸に抱き、感涙する彼女の姿はなんと愛おしいことか!

 まろやかな瞳で私を見上げ、名付けを待つ様は歌劇を前にする少女のよう。

 彼女と愛の交合を深め、その結晶たる嬰児を残すことが出来るのは私だけである。

 この類い稀な美貌をもつ私だけの特権さ!

 あぁ!申し訳ないことに君には関係のない話だった。

 彼女に執心しようと泡沫の夢。三回連続でダンスを踊ろうが期待するのはやめたまえ。

 命をかけて嬰児を産み落とす彼女の心は未来永劫、私のものである。

 願わくば君の新たな門出を祝わせておくれ。

 釣書を送ったので色よい返事を待っている。

 残念だが、このままでは君の将来は明るくないだろう。

 すべてを語るまでもない。

 即刻諦めたまえ。



 アドルフ一世の手紙集。ヴィクトワール王妃編。

 その文章を指先でなぞりながら、ベアトリスはほうっと艶かしい吐息を吐いた。


『さあおいで、ヴィクトワール』

 彼女の脳裏には、いつだって彼がいた。

『ほら、君の瞳に映る私はとっても幸せそうだ。愛してるよ、ヴィクトワール』


 真っ直ぐな愛を伝えてくれるひとだった。

 同じように返せば頬を染め、少年のような笑顔ではにかむものだから、いつもくすぐったい気持ちになった。


 アドルフ一世は筆まめとしても有名であり、数多くの手紙が後世に残されている。

 原文は博物館に所蔵されているが、その複製が書籍に纏められ誰でも手に取ることができた。

 だから、他人へ宛てた手紙をこうして読むことができる。


 この手紙は、時空を超えて届けられた恋文(ラブレター)だ。


 初めて手に取したときは突然のことに面食らい、一瞬理解が及ばなかった。

 だが次第に意味を理解していったとき、胸の高鳴りが止まず、周囲が心配するほど赤面していた。

 いまでも兄姉がからかってくる小話の一つだ。


 アドルフ一世は本当に魅力的なひとだった。

 少年のような一面があり、ヴィクトワールをからかって悪戯な笑みを見せたかと思えば、真剣な眼差しで愛の言葉を口にする。

 その一方で国政を大事にしており、国をより良くするために遅くまで大臣達と語り合っていた。


 寝ずに何日も公務をするものだから、折り合いが付かず喧嘩をしたときもあった。

 国民のために働く彼と、彼自身のことを心配する彼女。

 お互い意地になり、ヴィクトワールが拗ねて他の男性と親しくすれば、アドルフ一世は血相を変えて頭を下げた。


 それに味を占めたのがいけなかったのだろうか。

 このような手紙を送っていたなんて、当時のヴィクトワールは知らなかった。

 知っていたらこんな馬鹿な真似はしなかった……かもしれない。


 もう数百年前のことなのに、いまでも当時を鮮明に思い出せる。

 それがなんだが可笑しくて、ベアトリスは絵画に描かれるアドルフ一世との相違を探すのが楽しみのひとつになっていた。


 確かに彼は絶世の美丈夫だったけれど、神の題材にされるなんてとても面白いわ。

 現代にアドルフ一世がいたら、耳を赤く染めて蹲っていたことだろう。

 そういう彼の姿を想像しながら作品を鑑賞するのが、ベアトリスにとって何よりも娯楽だった。


「お母様、いまお時間よろしい?」


 扉をノックして顔を見せたのは娘のリリアーヌだった。

 先月社交界デビューを果たし、現在はどの舞踏会へ行こうか頭を悩ませる年頃の淑女。


「ええ、どうしたの?」


 ベアトリスは丁寧な手付きで本を閉じると、姿勢を正してリリアーヌをソファへ促した。


「まあ、お母様ったら。また同じ書籍を読んでいたのね。飽きないの?」

「ふふっ、ええ、そうなの。まったく飽きないわ。私、物凄く一途なのよ?」


 胸元に指先を添えて、少女のように微笑むベアトリスに、リリアーヌは呆れたように肩を竦めた。

 時折りどきりとさせられる母の仕草を、少し恨めしく思ってしまう。


 女主人としてベアトリスが主催する晩餐会の招待客のなかに、気になる殿方を紛れ込ませているのだが、何かあるたびに女としての自信を失くしていく。

 ほつれた髪をかけ直す指先の繊細さ、機知に富んだ話術、ゆっくりと微笑みながら見上げてくる妖艶さ、落ち着いた大人の雰囲気から少女のような反応をみせる瞳。


 そういう姿に見惚れたり、意識するような仕草をしたり、心惹かれる若輩者の多いこと!


 当然ベアトリスは既婚者であり、ローランのいる前で下手な真似をする紳士はいないが、その障害に想いを募らせてる者もいるだろう。


 愛妻家の父とそれを支える母は傍目から見ても仲睦まじく、結婚当初父に愛人がいたことさえ信じられないほどだ。

 お喋りな祖母の「結婚当初はやきもきしたものだけれど、あの女と別れてくれて良かったわ」とうっかりした発言がなければ、終生耳にしない真実であった。


 それは兄も同様で、揃ってローランを避けていた時期がある。

 誇らしく思っていた二人に、水を差すような話だったからだろう。

 だが、何の蟠りもなく過ごす両親の姿を見て、次第に態度を軟化させていった。

 いまではおしどり夫婦と名高い二人にも、様々な歴史があったのだと納得している。


 けれど、いまはその歴史を憎らしく感じている。

 祖母はもう過去の話だからと「私が惚れ込んだ嫁は本当に出来がいいの。最終的に愚息の心を射止めたのよ!」と自慢して触れ回っているのだ。

 貴族社会で愛人の存在は禁忌とされてないが、それでも愛人を切って本妻を本命とする例は数少ない。

 だから余計に鼻高々なのだろう。


 しかし、その逸話は勘違いさせる紳士を増幅させ、まだ傷が癒えていないのでは、と馬鹿な妄想をしながらやに下がった顔つきで母を見る。

 そのなかに気になる殿方も入っていることが、リリアーヌの気を重たくさせている。


 無論、母が父以外に靡くわけもなく、的外れな紳士の誘いを撥ねつけているのは言うまでもない。


「お母様のように、素敵な女性になるにはどうしたらいいのかしら」

「まあ、本当にどうしたの? 貴女は十分魅力的な女性よ」


 リリアーヌの目鼻立ちが整った顔立ちと、華やかな色彩は疑う余地もなくローランの血筋だ。

 嫡男もまた負けず劣らずの美丈夫で、義母が安堵していたのを覚えている。

 はっきりとした物言いをする義母は、ベアトリスの凡庸な容姿だけが残念だと口にする。

 それについてはベアトリスも同意せざるを得ない。


「外見を褒められても嬉しくないの。もっとこう、女性らしさ……いいえ、色気が足りないんだわ」


 自分で口にしながらしゅんと項垂れる娘に苦笑する。

 ベアトリスは困った子ね、と頬に手を添えて首を傾げた。

 社交界デビューのときは自信に満ち溢れていた娘が、いまになって落ち込む理由は、恋絡みなのだろう。


 ヴィクトワール時代はどうしていたかしら、と過去を振り返る。

 いまよりも特徴のある色彩を持って生まれたが、傾国には及ばない顔立ちだった。

 手紙に記されたアドルフ一世の言葉はかなり誇張されており、かつて絶世の美女だったのではと錯覚してしまいそうになるが、そのような事実はなく。


 ベアトリスは宝物に触れるように表紙をそっと撫でる。


「そう、それよ! そういう何気ない仕草が、心を掻き乱すのだわ!」


 思いも寄らない言葉に目を瞬かせる。彼にも同じことを言われたのを思い出した。


『ヴィクトワール、君のそういう何気ない仕草が私の心を掻き乱すんだ』


 どのような仕草をしていたのか。当時のヴィクトワールも心当たりがなく、可笑しなひとねと笑った覚えがある。

 女性たちの憧れの的であったアドルフ一世は、交流を深めれば深めるほど存外普通の青年で。

 一緒にいると笑顔が絶えず、手紙のやり取りに胸を躍らせ、会える日を心待ちにする頃にはもう恋に落ちていた。


「仕草って、それほど重要なのかしら?」

「重要よ。そうじゃなきゃ納得いかないわ。お母様には失礼だけど、ほら、外見の華やかさが足りないでしょう? その分仕草に目がいってしまうのよ」

「あら、そうなの? ふふっ」


 それで彼も心射止められてくれたのかしら。

 そう考えると可笑しくて、ベアトリスは喜色満面の笑みを浮かべてしまう。


「なら、恋をするといいわ」

「え?」

「心から愛が溢れるような恋をすると、女の子は可愛くなるのよ」


 内緒の話をするように、口元に手を翳して囁くベアトリスはいたずらな笑みをこぼす。


 その笑みにどきりとさせられて、やはり何もかも敵わないとリリアーヌは溜息を吐いた。

 性格だけでも似ていたら違ったのだろうか。

 リリアーヌはどちらかといえば祖母に似た勝ち気な性分で、派手な容貌と相俟って高飛車に思われがちだ。

 

 お茶にしましょう、とベルを鳴らしに立ち上がった母の姿を追う。

 使用人に用意を頼み、本棚にそっと本を仕舞い込む。

 母は熱烈なアドルフ一世のファンだ。絵画展が開かれると、予定をずらしてまで必ず鑑賞しにいく。

 伯父と伯母が母の初恋はアドルフ一世だと軽口をいうほど目がない。


「……初恋か」


 気になる殿方といいつつ、どの青年も紳士に接してくれたから結婚してもいいと思っただけで、リリアーヌはまだ恋を知らない。

 両親のような仲睦まじい夫婦になることを理想としているが、彼女は隠された真相を知る由もない。



 ベアトリスは仕舞い込んだ本の背表紙をなぞる。

 ここには、アドルフ一世の雄弁な愛が綴られている。


 いじらしい彼女は、私を視界に入れるとひとたび目を輝かせ、駆け寄ってくる。

 その愛らしさをどう表現したものか。

 可憐な花のよう、いや、お茶目な妖精のよう、いいや、私を心から愛してくれる美しい(ひと)

 私は彼女の愛の奴隷なのだ。

 手からすり抜け君の胸元へ擦り寄ろうとも、彼女の心は未来永劫、私のものだ。

 神に寵愛される私だけに許された禁断の果実、あぁっ、愛しのヴィクトワール!

 彼女の甘さ、柔らかさ、温もりを知るのは私だけでよい。

 愚かな君でもわかるだろう。

 即刻諦めたまえ。



 この、魂から溢れ出しそうな気持ちをどう表現したらいいのか、いつもわからない。

 だから、目を閉じる。

 貴方へ届くように。25年と短い人生では伝えきれなかった沢山の愛を。

 こんなにも雄弁に愛してくれた貴方に。



『――私の心は未来永劫、貴方のものよ』




雄弁な愛を、君へ


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