後編
この番外編には監禁・虐待・マインドコントロール要素があります。閲覧の際は注意してください。
蛇足と感じる方は、このまま見なかったことにしていただけると幸いです。
リリーティアはクラウスと一緒に、ある夜会に出席した。この隙をついてクラウスが逃げ出さないのは、すでに彼がリリーティアに従属している証だ。あとは、彼が素直になれるよう導いてあげればいい。
「ご覧になって、クラウス様。あちらにエイレナ様がいらっしゃいますわ」
「エイレナ……!」
エイレナは、ユスト男爵家の嫡男レインのエスコートを受けていた。
野暮ったい印象を与えていた、あの重たげな黒のヴェールではなく、涼しげな白のヴェールを身に着けている。リリーティア達とは少し離れた場所に立っている二人だが、寄り添いあって楽しげに談笑する若い男女の姿はどう見ても仲睦まじい恋人のそれだった。周囲の人々も、エイレナを疎ましがったり気味悪がったりしている様子はない。
「あ、あの男もお前が手を回したのか!?」
「それはエイレナ様の口からお話ししていただきましょう。さぁ、賭けの時間ですわ」
クラウスを連れ、リリーティアはエイレナ達に声をかける。レインは不審げに眉根を寄せたが、すぐに微笑で取り繕った。リリーティアが側にいるなら悪いようにはならないと判断したのだろう。
「エ、エイレナ。お前が幸せそうで、その、なによりだ」
「ありがとうございます、クラウス様。クラウス様とリリーティア様もお幸せそうで、安心いたしました」
ルールは簡単。現在のエイレナの様子を見てもらい、クラウス自身がどう思ったかで判断する。ただしクラウスは、エイレナの前ではあらかじめ決めておいたみっつの台詞しか口にすることを許されない。
(きっとエイレナ様は、これまでは立場上不利な婚約に縛られているせいでクラウス様に本当の気持ちを伝えられなかったのでしょう。ですがその婚約が解消された今、何も気にする必要はございませんわ)
エイレナは、深海を感じさせる青を基調としたグラデーションのドレスを纏っている。美しいボディラインを強調するタイトなそのドレスは、背の高いエイレナによく似合っていた。
以前見かけた時は自信なさげにおどおどと丸められていた背中も、今はしっかり伸びている。この堂々とした姿を見て、誰も彼女を不気味で陰気な『顔なしの魔女』だなんて呼ばないだろう。
仮にまだその名が引きずられるとしても、それはもはや蔑称ではない。畏敬の念によるものだ。ここまで妖艶で魅力的ならば、そう呼びたくなるのも無理はなかった。
「ほ……本当に、申し訳なかった。私との……私との、ふ、不本意な婚約で、お前を長年縛りつけてしまって……」
レインが意外そうに目を丸くして、リリーティアを一瞥する。エイレナは何も疑っていないらしく、朗らかに応じた。
「それはお互い様ですわ。クラウス様も、幼いころの気まぐれのせいでたいそう悩まれたでしょう。あの日のことがなければ、わたくし達の婚約など成立するわけがございませんでしたし」
「それはどういう……っ!」
予定にない言葉がとっさに口をついたクラウスの足を、リリーティアはさりげなくヒールで抉る。だが、エイレナが気づくことはなかった。前に立つクラウスから意識をそらすため、アシストした人間がいたからだ。
「二人が婚約してなかったら、俺はもっと早くエイレナと逢えてたのに」
「レインったら。でも、こうしてちゃんと出逢えたのだから、運命というものはどこかで必ず収束するようにできているのかしら?」
ヴェール越しでも照れくささが伝わってくるが、それ以上にあふれるのは幸せなオーラだ。
エイレナの妹だという女性の顔立ちを見る限り、元々エイレナは目鼻立ちのくっきりしたゴージャスな美貌を誇っていたのだと思う。顔の隠された今は、ミステリアスでどことなく艶めかしい。だが、実際のエイレナはそんな外見の印象とは正反対の、可愛らしくて純粋な少女のようだった。
「正直なところ、いつクラウス様はわたくし達の婚約を解消してくださるのかと気を揉んでいたんです。いえ、ご厚意で結んでいただいたということはわかるのですが、やはりわたくしには分不相応のものでしたから。ですが、今はリリーティア王女という素晴らしい方がいらっしゃるので、やっとわたくしも重責から解放された気分です。これまでクラウス様もさぞ肩身が狭かったでしょう?」
「……」
リリーティアは横目でクラウスを見る。クラウスは打ちひしがれた表情でエイレナを凝視していた。もはや踏みつけるまでもなく、彼の舌はからからに干上がっているようだ。
「クラウス様。もうわたくし達の道が交わることもないでしょうし、幼いころの禍根は忘れて、お互いに今ある幸せとこれから紡いでいく未来を見据えていきましょうね」
「いい言葉だね、エイレナ。確かに過去はもう変えられない。どれだけ時間を無駄に使ってしまったとしても、取り戻すことはできないんだ。だからこそ、それ以上に現在を大切にしていこう」
幸福を確かめるように、レインはエイレナの腰に手を回す。エイレナは恥ずかしそうにしながらもレインに身をゆだねた。
その隙にリリーティアは、放心しているクラウスを蹴った。クラウスは必死の思いで、最後に残った台詞を告げる。
「ほ……本当に愛する人と、こ、これからも末永く……幸せでいてくれ……」
「はい。レインと一生を添い遂げられるなら、これから先に何があろうと幸せな人生だったと胸を張ることができますわ」
レインに抱き寄せられたエイレナが今日一番の笑みを浮かべているであろうことは、その弾む声音からも明らかだった。
「そろそろ賭けの結果を聞いてもよろしくて?」
休憩用に解放されている小部屋にクラウスを連れ込むなり、リリーティアはそう尋ねた。
「……きっとあの偽仕立て屋の家の金が、エイレナ……いや、ヴェルデロサ家に必要で……」
「貴方が語る真実の愛は、お金の魔力で揺らぐ程度のものでしたの?」
「な、なら、不可抗力だ! 金の力で強引にエイレナを囲い込めば、エイレナに拒否権はなくなる!」
「そのエイレナ様を、これまでずっと権力で強引に囲い込んでいたのはだぁれ?」
神託のように、厳かに。リリーティアが耳元で囁くと、クラウスは力なくその場に崩れ落ちた。
「わっ、私は……だが、本当に、エイレナのことが本当に好きで……!」
「ですが、エイレナ様はそうではありません。貴方の気持ちはエイレナ様に伝わっていませんし、貴方もエイレナ様の本当の気持ちを知ろうとしませんでした。それだけの話でしょう」
この思慕が一方通行のものに過ぎなかったと認めるのは、敗北の宣言に等しい。
それでも己の負けを認めた下僕を、リリーティアは温かく抱きしめた。
「たとえ貴方がどれだけ想っていても、その愛のせいで相手を傷つけてしまってはいけませんわ。愛とは与えるものであって、苦しめるものではないのですから」
慈愛に満ちた抱擁を受け、クラウスは恥も外聞もなく涙を流して洟をすする。みじめで無様なその表情は、まさしくリリーティアが待ち望んでいたものだ。
「──愛が独りよがりのまま終わってしまう虚しさを知る貴方なら、わたくしの愛がどんな形であったとしても、喜んで受け止めてくださいますわよね?」
頷く以外の選択肢は、クラウスにはもう残されていない。




