後編
今年の宮廷はどことなく浮ついた空気が漂っていた。理由はきっと、他国の王女が迎賓館に滞在しているからだ。
齢十六の可憐な姫君は、名をリリーティアというらしい。祖国を離れ、輿入れ先を探しに来たようだ。だが、年回りの釣り合う王族にはすでに妃か婚約者がいる。そこで、少しでも王家に近い高貴な血を持つ貴族達は色めき立った。我こそがこの王女の心を射止めてみせる、と。
そんな貴公子達の熱狂も、エイレナには関係のない世界の話──のはずだった。
(またクラウス様がリリーティア王女とお話をなさっているわ……!)
ヴェールをこっそり上げて、物陰から二人を見つめる不審者もといエイレナは、喜びに胸を震わせていた。クラウスは決してエイレナには見せないような楽しげな笑みを浮かべていて、リリーティアも頬を染めている。絵画のように釣り合った美男美女は、どこから見ても文句のつけようもないほど完璧な恋人達だった。
クラウスに強引に夜会のエスコートを受けたものの、結局ぽつんと一人で取り残される。これはまあよくあることだ。
だが、ここ最近のクラウスは、エイレナを放置したらまっすぐリリーティアのもとに行き、以降は彼女にかかりきりになる。これは素晴らしい。実に素晴らしい兆候だ。
(バールトン公爵家なら、王女の輿入れ先として不足はないでしょう。他国とはいえ王族の縁戚になれるなら、バールトン家にとっても願ってもない話。つまりわたくし達の婚約は、解消してもらえる……!)
周囲の視線を感じ、エイレナは慌ててヴェールで顔を隠してその場を走り去った。
やっと、やっと、自由になれる──!
「『顔なしの魔女』といえど可哀想ね。あそこまではっきり、婚約者の不貞を見せつけられて……」
「あの年になっても結婚できない以上、お二人の関係が書類上のものでしかないのは見え透いていたのですから、クラウス様の不貞というのも違う気がしますけど……こうなることを、エイレナ様もどこかで予期してらっしゃったのかもしれませんわ」
「どのみちリリーティア王女が相手なら、ああして逃げるしかないでしょうね。あれほど美しくて完璧な二人、他人の出る幕などありませんもの」
「まさかクラウス殿があそこまで幸せそうに笑えるとは。これもリリーティア王女の魅力のたまものだな」
「年中黒ずくめの不気味な女より、華のある若い娘がいいのは仕方ない。ずるずる結婚を先延ばしにしていたのはきっとこの時のためだったんだろう」
「いくら『顔なしの魔女』とはいえ、責任を取るつもりなら最後まで面倒を見るべきだったと思うが……自分に過失のないことで人生を棒に振りたくないと考える若者の気持ちもわかるさ」
エイレナに同情的な者、クラウスに同情的な者と反応は様々だったが、クラウスとリリーティアの新しい恋はおおむね好意的に受け止められていた。それだけエイレナとクラウスの関係が事務的で、冷え切っているからだろう。
訳知り顔で勝手なことを囁く宮廷人達は、『顔なしの魔女』がヴェールの向こうでどんな顔をしているのか想像した。怒りか、それとも悲しみか、あるいは絶望か。もしかしたら、なんとも思っていないのかもしれない。残念ながら、喜びだと見抜くことができたのは、フェリシアとその夫のトレミー──それからもう一人、とある青年だけだった。
*
クラウス・バールトンは初恋に悶え、悩み苦しんでいた。
愛しいあの子を前にすると、上手に話すことができない。あの子があまりにも可愛すぎて、ついそっけなくしたり睨んだりしてしまう。緊張のせいで表情だって固い。
(私の純情をもてあそぶお前が悪いのだぞ、エイレナ……!)
一目惚れから始まって十年間温め続けたこの愛は、もはや言葉にすることなどできそうにない。
始まりは十年前、クラウスの誕生日パーティーのこと。
逃げるあの子を追い詰めて、ちょっと驚かせてやりたくて。巣穴を煙でいぶし、飛び出てきた動物を撃つ。最近父のナシアフから教わった狩りの方法を、クラウスは実践した。
思ったより派手なことになり、エイレナも怪我をしてしまったが、それでも結果的には大成功だ。
だって、これでエイレナの美しい顔はもう誰にもわからなくなる──これでエイレナを独り占めできる。
エイレナを傷物にした責任を取るという名目で、クラウスは彼女を無事に手に入れた。父のナシアフと母のアーラマも、息子の初恋を理解して歓迎した。
「あらぁ、まあまあ。うふふ、クラウスったら。好きな子をいじめたくなるのはわかるけど、あんまりやりすぎたら駄目よぉ?」
「エイレナちゃんは照れ屋さんみたいだな。いいかクラウス、お前がびしっとリードしてやらないといかんぞ! エイレナちゃんが素直に口に出せないぶん、その気持ちを汲み取ってやるんだ!」
両親はいつだって、クラウス達のことを微笑ましく見守ってくれた。応援してくれた。
まだ婚約して間もないころ、エイレナと庭園を散歩していた時に、たまたま目に入った生垣の薔薇をエイレナに渡そうとしたことがある。女心を学びなさいと母に渡された恋愛小説で、そういう描写があったから、真似をしてみようと思ったのだ。
だが、力加減がよくわからずに花を握りつぶしてしまった。薔薇は棘があるから、うまく花のほうを引っ張って抜こうとしたのが間違いだった。カッコつけずに、最初から庭師に頼めばよかったのだ。花を乱暴に扱ったせいでエイレナを怖がらせてしまったようだが、そんな表情すら愛おしかったし、なにより花を渡せなくても想いは届いたようで嬉しかった。
エイレナのことならなんでも知りたくて、婚約者ならその権利があると思って、彼女宛の手紙や彼女が綴った手紙も読んでみた。エイレナのことで自分が知らないことがあると思うと我慢ならなかったからだ。
使用人達は、自分が仕える家の若様の頼みなのだからと断るどころか快諾した。ヴェールで顔を覆い、自分のことをほとんど話さないエイレナは、難攻不落の要塞に見えていたからだ。坊ちゃんが彼女ともっと親密になるきっかけが掴めればと、使用人達は結託したうえで率先してクラウスにエイレナのことを包み隠さず話し、どんな些細な手紙も見逃さずにまずクラウスに届けた。
屋敷中の人間が、幼いクラウスの不器用な初恋を応援していた。
ただし、エイレナの感情を考慮する者はいなかった。エイレナもクラウスを憎からず思っていると、誰もが当然のように考えていた。
火傷と貧困のせいでもう後がない令嬢が、それでも自分を見初めてくれた令息の慈悲に感謝しないはずがないという思い込み。
公爵家から受けた恩の理由、すなわちクラウスの好意を、無下にするはずがないという勘違い。
クラウスの恋心を自分達が知るように、エイレナも知っているに決まっているという誤解。
クラウス・バールトンという少年がこの世に生を受けてからずっと彼のことを見てきた者達だからこそ、その目は曇って自分の都合のいいものしか映さなくなる。
バールトン公爵家の面々にとって、クラウスとエイレナは両想いに違いなく、それ以外の可能性などありえないことだったのだ。
さて。
クラウスの幼い初恋は、年頃になるにつれて欲が出た。
自分はいまだに直接エイレナに愛を告げる勇気が出ない。だが、それはエイレナも同じこと。それでもクラウスは、言葉ではなく行動で示しているつもりだ。だからこそ、エイレナからも愛の証を渡してしかるべきではないだろうか?
できれば言葉が望ましい。「愛している」とただ一言、エイレナに言ってもらってから結ばれたい。それでも小悪魔なエイレナは、むしろ婚約の解消をちらつかせるという駆け引きをしかけてくる。だからクラウスは、愛情を表す赤い薔薇の花束を今度こそきちんと渡した。それを愛しげに抱きしめるエイレナごと抱きしめてやろうかと思ったが、自制が利かなくなりそうなのでやめておいた。せっかく上手に渡せたのに、また花を散らしてしまいかねないし……ごにょごにょ。
ただ、あまりに可愛らしいとはいえ、やっぱり望みの言葉は言ってもらえない。でも、ここまで来たら自分から言うのも負けな気がする。
どうせ自分達は婚約者同士、誰にも仲を引き裂かれることはないのだから、気長に待とう。無理に世間の風潮に合わせる必要なんてない。自分達には自分達のやり方があり、温度があり、速度があるのだから──
「ねぇ、クラウス様」
「そうですね。ははは」
そのはず、だったのだが。
他国から来た、リ……リリなんとかという王女が、最近やたらとまとわりついてくる。面倒なので、余所いきの笑顔で対応中だ。うわべだけ取り繕った社交術は、空虚だからこそ本当に話したい相手─すなわちエイレナ─に対して発揮されることはなかった。
(隣にエイレナがいる幸福に耐えきれなくて、これまでもなんやかんやと理由をつけては心臓を落ち着かせる時間を取ってきたが……)
どうしても意識しすぎてしまうエイレナとは違い、この王女の傍にいると平常心でいられる。完全な“無”の境地だ。とはいえ、エイレナしか眼中にないクラウスが特別なだけで、どうやらこの王女は貴公子達の注目の的らしかった。
(こんな女が傍にいたら、もしかしたらエイレナを不安にさせてしまうか……?)
自分が置き去りにした相手を横目で探す。だが、黒いドレスにアメジストという、クラウスの髪と目の色で飾った女性はどこにも見つけられなかった。
(万が一エイレナを悲しませるようなことがあれば、この小娘に償ってもらうしかないな)
表面上は爽やかに会話を続けながらクラウスは内心で黒い笑みを浮かべる──露呈しなければ、外交問題になどなりはしない。
*
リリーティアが滞在してる迎賓館から、エイレナ宛に招待状が届いた。当然その呼び出しはクラウスも把握しているのだろう。クラウスも当たり前のようについてきたが、リリーティアの近衛騎士にやんわりと遠ざけられ、リリーティアとエイレナは正式に相まみえることになった。
『姫』と『魔女』が、応接間にて向かい合う。その密談は、拍子抜けするほどあっさりとまとまった。
「このように無礼な申し出を受け入れてくださって、本当にありがとうございます。お二人の婚約の解消にあたって、望むだけの補填はもちろんさせていただきます」
「お心遣いに感謝いたします。……ですがその前に、ひとつだけ訊かせていただいてもよろしいでしょうか?」
エイレナは一瞬の迷いの後、おずおずと尋ねる。
「クラウス様の、一体どこに惹かれたのです?」
するとリリーティアは涙をぬぐい、恍惚の表情を浮かべ──
「わたくし、自分が世界で一番尊い存在だと思い込んでいる殿方を屈服させる時が一番幸せですの。まだ心が折れずにわたくしを毅然と睨みつける顔……自分の矮小さを思い知り、わたくしに忠誠を誓って跪いた時の顔……! クラウス様のあのつんと澄ましたお顔を、どうしても屈辱に歪めさせてあげたくって……! ああっ、一体あの方、どんな風に──」
彼女はまだ何か喋っていたが、エイレナはすべて忘れることにした。
*
最愛の恋人が、目障りな小娘と二人きりで過ごしている。何か意地悪をされていないか気が気でないと、クラウスは応接間のドアの前をやきもきしながら行ったり来たりしていた。本当は今すぐドアを開けたいのだが、王女の屈強な騎士達が目を光らせているのでそれも叶わない。
「ちょっと。そんな風にうろうろされたら通行の邪魔なんですけど」
突然つっかかってきた無礼な声に振り返る。いつか見た仕立て屋の見習い風情が、一人前に盛装に身を包んで立っていた。
(まだクビになっていなかったとはな。マダムの店が御用聞きに遣わしたのか?)
……こうして改めて見ると、彼に見覚えがある気がする。もちろん一度タウンハウスで会っているのだが、それ以前にも、どこかで何度か見かけたことがあるような……。
クラウスは彼を睨むが、仕立て屋はひるみもしない。どこまでも生意気な男だ。
「あのさぁ、クラウス様。俺、いくら好きな相手でもベタベタしてこられたらさぞ鬱陶しいんだろうって思ってたんですよ。でも、もっと鬱陶しいのって、自分は好きでも何でもないのに無言で付きまとってくる相手だったんですね」
「突然何の話だ?」
「別に。ただ、そういう男にはなりたくないなって思っただけです」
仕立て屋の後ろには、商品の入った箱をいくつも抱えた従業員らしい人間が並んでいる。今この迎賓館には、リリなんとかのほかにも、彼女にくっついてきた異国の使者達がいるから、彼らに何か売り込みに来たのだろうか。
「一方通行の独占欲をひけらかすのは、正直迷惑なだけだと思いますよ? 相手の好みを取り入れずに自分の色だけ押しつけたって、センスの悪さを露呈させるだけなのに。頭もセンスも悪いなら、せめて周りをよく見て空気を読むぐらいはしましょうよ。もしかして、目まで悪いんですか?」
「貴様! これ以上私を愚弄する気なら、ただではおかんぞ!」
「はぁ、そうですか。馬鹿にされているのが自分だったらそんな反応ができるんですね。……貴方のせいでエイレナ様が『顔なしの魔女』って呼ばれてること、知ってるでしょう? それなのに貴方は怒るどころか、むしろ彼女が孤立することを喜んでいるようにすら見える。びっくりするほど最低ですよ、貴方は」
「貴様に私達の何がわかる!?」
「これでも商人の端くれなので。人を見る目はそれなりに鍛えてるつもりです」
『顔なしの魔女』。その二つ名は知っている。エイレナの魅力を知る者は少なければ少ないほどいいと、あえて放置していた呼び名だ。友人やら愛人やらと、エイレナが自分以外に拠り所を作る機会を逸せるなら都合がいいとさえ思っていた。そのほうが、早くエイレナの本音を引き出せると信じていた。必要なら、ヴェルデロサ家を消してしまうことも考えていた。
エイレナの世界にクラウスしかいないなら、彼女はきっと真摯に向き合ってくれる。恥ずかしがってちっとも口に出してくれない本音を、やっと──
「だから、エイレナ様が貴方を心から嫌ってることも、あの変わり者の王女様が貴方をどうしても手に入れたいって思ってることもわかるんですよ。どうぞこれからも、あの王女様相手に好きなだけ笑いかけてあげてくださいね。どうせ、これまでエイレナ様には本当の意味で優しくしたことなんてないんでしょう?」
告げられた真実に、クラウスは愕然として立ち尽くす。
仕立て屋達は、いつの間にかいなくなっていた。
*
リリーティアの祖国とつながりを持ちたいこの国の王家、そしてリリーティアの祖国の王族による根回しのおかげで、エイレナとクラウスの婚約は速やかに解消されて代わりにクラウスとリリーティアの婚約が結ばれた。リリーティアの強い希望で、二人はすぐに結婚するそうだ。
貴族の婚約は、当主の許可がなければ勝手に白紙にはできない。
ヴェルデロサ侯爵夫妻は開拓地で何やらあったらしく当分帰れそうにないそうで、ヴェルデロサ家側は当主代行としてフェリシアとトレミーが書類にサインをした。
バールトン公爵夫妻はごねたが、両国の王家の要請ともあれば受け入れるしかなかった。リリーティアの祖国は、大きくて豊かな国だ。傍目から見ても利益しかない縁談を、はねのける理由などどこにもないだろう。
「おめでとう、クラウス殿! リリーティア王女と幸せになってくれ!」
「違う、違うのだ! 私が愛しているのはエイレナで、」
「えっ? だって君、いつもエイレナ嬢を睨んだり、放っておいたりしていただろう? それに、いつまでも結婚しなかったじゃないか」
「そうそう。その代わり、リリーティア王女と一緒にいるときはすごく楽しそうで。ああ、王女様と結婚できるなんて本当に羨ましいなぁ」
「ははは、大丈夫ですよ、クラウス殿。みな、ちゃんとわかっていますから。誰も貴方達を責めはしません。これは仕方のないことです」
多くの人に囲まれるクラウスを、エイレナは遠くから見つめていた。
宮廷人達もクラウスとリリーティアを祝福している。不貞だなんだと騒ぎ立てられたらリリーティアに悪いと思っていたが、その心配はなさそうだ。
「その新作のヴェールの使い心地、どう? 細かい穴をたくさん開けてるから、視界は悪くないと思うんだけど。俺からは、貴方の顔はちゃんと見えてないし」
「はい。とっても快適です、レニ……じゃなくて、レインさん。おかげで、これまでは見えなかったものがよく見えますわ」
エイレナは微笑んだ。顔を隠していても、この喜びは伝わっていると信じたい。
「ですが、せっかくの舞踏会なのに、わたくしを誘っていただいて本当によろしいのですか?」
「他に誘える相手がいなくてさ。この年で母親と参加するのはさすがにちょっと、ね。姉さんは義兄さんとよその国で暮らしてるし。……あの暴君姉なんて、いてもエスコートしたくないけど……」
仕立て屋のレニー改め、ラドリエ商会の後継者、ユスト男爵家の嫡男レイン・ユストは悪戯っぽく微笑んだ。数日前、フェリシア達のタウンハウスに身を寄せていたエイレナを今日のパーティーに誘ったときも、彼はこんな顔をしていたのかもしれない。
「何度も言っただろ。貴方が俺の仕立てたドレスを着て晴れ舞台に立ってるところを見てみたかったって」
今日の舞踏会のテーマは『星』だ。たとえ黒でも、星空のような装飾の施されたエイレナのドレスはまったく浮いていない。それどころか、夜の女神として神秘的な輝きを放っている。レインが用意してくれた、耳と首を飾るダイヤモンドも星を演出する重要なアイテムだ。
「それに、実は理由は他にもあるんだ。フェリシア様の家で、貴方はすごく楽しそうに俺の服を着てくれた。それぐらい雰囲気でわかる。だから、黒以外のドレスを着てるところも見てみたくなって……。でも、仕立て屋の見習いですらなくなる俺に、貴方にドレスを着てもらう権利はないから……」
目をわずかにそらしたレインの頬には赤みがさしていた。言葉の意味を少し考えて、エイレナも思わず赤くなる。
「わ、わたくし、もう二十歳ですのよ? 貴方にふさわしいような、他にもっと若くて綺麗な子ならいくらでもいるでしょう?」
「たった三歳しか変わらないじゃないか。どうせ誰でも年を取る。今の年齢なんてすぐに関係なくなるよ」
「火傷の痕もたくさんありますし」
「その話はフェリシア様から聞いた。でも俺は、エイレナ様の勇敢さの証拠だと思う。この前も言ったけど、薬や化粧品なら手配できるし、そのヴェールみたいなものだって作れる。俺がどう思うかじゃなくて、エイレナ様がどう思ってるかに合わせてほしい。俺はそのサポートをするから」
「名ばかりの侯爵家の生まれですから、政略的な価値などございませんわ」
「こっちは平民上がりの男爵の息子だ。どこかの国の王子様じゃなくて悪かったね。でも俺は、血統だけの王侯貴族じゃなくて金で成り上がった資産家のほうが力を持ってるって信じてる。これまで誰もユスト家を潰せてないのがその証拠だ。確かに貴族の一員になった以上箔付けは必要だけど、その『名ばかり侯爵家』で十分だろ?」
「十年間もバールトン家の言いなりだったわたくしに、社交ができるとは……」
「むしろその忍耐力を評価したいよ、俺は。……そもそもラドリエ商会の顧客って、正確には上流階級の皆様方じゃないからね? それはあくまでも最終顧客。うちの商会のお客様は、それよりもっと上流のところにいる人達だ。それに、うちの商品は国外でも買い手が多くてね。たまたま祖国の爵位を買ったっていうだけだから、最終顧客の貴族相手に愛想をよくする必要もない。つまり、社交が嫌なら無理にしなくていいってこと」
「ええと……ええと……」
なんとかして青年の過ちを正そうと、エイレナは必死で頭を働かせた。けれど胸を高鳴らせる熱のせいで、うまく言葉が出てこない。
「わっ、わたくし、昔から田舎の静かな土地でひっそりと暮らすつもりでしたの!」
「望み通りの穏やかな場所、用意できるよ? 好きな景色を教えてくれればそれに沿うような場所に家を建てよう。農園やら工場やら、繊維の生産には土地が入用でね。ユスト家はあちこちに土地を持ってるから、大抵の希望は叶えられると思うけど。それでも無理なら、貴方のための新天地を探してもいい」
きらめく翡翠の瞳が、まっすぐにエイレナを見ている。いっそ視界の悪いヴェールのままならよかった。だってこんな純粋な好意、まっすぐぶつけられて耐えきれるわけがない。
「どうやら俺は、貴方のことが好きみたいなんだ。どんなドレスを仕立てたらエイレナ様に喜んでもらえるんだろうって、フェリシア様に呼ばれてからずっとそのことしか考えられない。……責任取ってほしいんだけど、貴方はどう思う?」
「わ……わたくし、も……レインさんが仕立てたドレス、もっとたくさん着てみたい……。お洒落のことなんて、何もわかりませんけれど……でも、貴方のドレスを着た時に、初めて心から感動できて……」
たどたどしい言葉に我ながら恥ずかしくなる。年上なのに。もういい大人なのに。どうして肝心な時に、ちゃんと話せないのだろう。
「あの、ええと、お洒落だけではなくて、恋、とか、愛とか……教えていただけると、嬉しい……です……」
「それは了承として受け取るけど、いい? 言質は取ったからね?」
手を取られ、甲にキスを落とされる。夢見心地で頷く以外の行動は、うぶな乙女には難しかった。
*
「これがバールトン家……」
ぞくぞくと身体を震わせながら、リリーティアは陶然として周囲を見渡す。
大事な若様の初恋を引き裂いたおぞましい恋敵を、使用人達は冷たく迎えた。公爵夫妻はよそよそしい。夫であるクラウスからも、あの満面の社交辞令はとうに消え失せていた。
バールトン家の面々から向けられる憎々しげなその眼差しは、けれど王女にとって恐れるようなものではない。
「調教しがいがありそうですこと。……愛してしまったんですもの、仕方ないですわよね?」
リリーティアは、ぺろりと唇を舐めた──自分達から望んで飼われるのなら、外交問題になりはしない。
*
「お姉ちゃん! お父さん達からの手紙、読んだ!?」
ユスト家のタウンハウスを訪れたフェリシアは、姉の姿を見るなり叫んだ。妊婦とは思えないほど身軽な妹の姿に戸惑いと喜びを感じつつ、エイレナはこくこくと頷く。
「まさかお父様とお母様が、金脈を掘り当てただなんて……!」
両親から届いた手紙は、まさかの大成功を伝えるものだった。
ここでの生活も軌道に乗ったから移住するといい、と手紙には書いてあった。あの二人、宣言通り一財産築いたのだ。……もしかしたら純粋に、この国の風土が肌に合っていなかったのかもしれない。
「あたしとトレミーは、子育てが落ち着いたらお父さん達のところに家族で移ろうって話したんだけど……お姉ちゃんはどうする?」
「わたくしは……そうね、旅行がてら一足先に様子を見に行ってみるけれど、本格的な移住はしないと思うわ。……別の開拓地に、ラドリエ商会の農園があるらしくって。もし移住するとしたら、レインの仕事の都合に合わせたいの」
「そっか。よかったね、お姉ちゃん」
エイレナの幸福が伝わったのだろう。フェリシアは安心したように微笑んだ。
ヴェールの下でエイレナも笑う。両親のことは確かに大切だが、今はエイレナにも新しい家族がいた。
エイレナはもうすぐ、閑静な景勝地の新居に移る。レインが用意してくれた、エイレナの理想通りののどかな場所は、新婚生活にぴったりだった。だが、二人で選んだ家具がすべて新居に運び込まれるまでは王都に残る予定だ。
結婚の披露、それから昔の婚約の解消について禍根がないことの証明も兼ねて、エイレナはたまにレインと一緒に催し物に顔を出すが、以前のような苦痛は一切感じない。
クラウスから解放されて、エイレナ・ユストになった今、社交界は自分が思っていたほど居心地の悪い場所ではなかったことに気づくことができたからだ。
リリーティアとクラウスは、うまくやれているらしい。王女であるリリーティアがバールトン家でつらい目に遭うとは考えづらかったが、案の定彼女が幸せそうで何よりだ。
リリーティアのすぐ後ろを忠実についていき、なんでも言うことを聞くクラウスを、世間は愛妻家だと褒めていた。……エイレナの目には、二人の間に首輪と手綱があるようにしか見えなかったが、それは追及しても仕方のないことだし、クラウスの服の下にどんな傷がいくつあるかなんて暴く必要のないことだろう。
(明日のガーデンパーティーは、どんなドレスを着ていこうかしら)
レインが愛を込めて仕立ててくれた、色とりどりのドレスに思いを馳せる。
本人はただの趣味だと言いつつも、どんな腕利きの仕立て屋の作品よりも素晴らしい出来栄えで、エイレナのことを第一に考えたそのドレス達は、どれもエイレナの大切な宝物だ。衣装部屋を明るく彩るその色彩は、エイレナが手に入れた幸せそのものなのだから。