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前編

「ごめんなさい、ごめんなさいエイレナ様……」


 迎賓館の応接間で、大粒の涙をこぼす可憐な少女が一人。


「わたくし、ここまで殿方に強い想いを抱くのは初めてで……。あれほどわたくしの理想通りの方がいらっしゃるなんて思わなくて……。もう、自分でもどうしたらいいのか……」

「お顔をお上げください、リリーティア王女」


 そんな少女に声をかけるのは、彼女の向かいに座る娘だ。

 顔を厚いヴェールで覆ったその女性、ヴェルデロサ家の長女エイレナは、悲嘆にくれる異国からの賓客を安心させるように力強く言い切った。


「もとよりわたくしでは、クラウス様には釣り合わないのです。わたくし達の婚約は、すぐにでも解消いたしましょう」


 リリーティアは何度も頭を下げ、涙に染まった声で感謝を告げる。

 気に病むことはないと応じるエイレナだが、それは噓偽りのない本心だ。


(クラウス様を見初めるなんて、王女様は変わった趣味をお持ちなのね……)


 だってエイレナは、どうにかしてクラウス・バールトンとの婚約を解消できないかと常日頃から頭を悩ませていたのだから。


*


 事の起こりは十年前、エイレナが十歳の時。


 かつてエイレナは両親、そして二歳年下の妹のフェリシアとともにバールトン領の隅っこにあるカントリーハウス─と称するのも気後れするような家─で細々と暮らしていた。


 ヴェルデロサ家は立派な歴史のある家柄だ。ただ、残念ながら現代ではあまりぱっとしない。先祖の代から受け継いだのが名声だけならよかったが、借金という余計なものまでついてきたせいだ。

 代々続くのは無計画な浪費だったり無慈悲な災害だったりと、とにもかくにも財政に打撃を受けることばかり。歴史が長ければ長いほど、負債が積み重なって子孫の首を絞めていく。管理に手間と大金がかかる土地も屋敷もいつかの代で手放した。いつの間にかヴェルデロサ侯爵家はすっかり落ちぶれ、かろうじて残した貴族院の議席のおかげで支払われる報酬だけでなんとか生活を成り立たせているという体たらくだ。


 表向きは歴史ある名家として敬われつつ、陰では名ばかり侯爵と蔑まれる。

 貧乏なのは事実でしかないし、何よりきらびやかな貴族の世界というものを知らない幼い娘達がその嘲笑を知ることはなかった。


 だが、現当主である父と現当主夫人の母は違う。

 父は、斜陽の実家を自分の代で蘇らせるという夢に取りつかれていた。寝物語でしか聞かされていない栄光の時代を、自分も味わってみたかったのだ。

 元娼婦の母は、一番条件がいいと選んだはずの情夫おとこがハリボテだったことを見抜けなかった己を呪いながらも、愛した男を見捨てられないでいた。もちろん、彼との間に授かった我が子達のこともだ。

 ゆえに侯爵夫妻は手を取り合い、同じ目標を目指していく。なんとかして自分達の代で返り咲いてみせるという強い意志が、二人にはあったのだ。惜しむらくは、その野望を叶えるための元手も運も才能もなかったことだが。


 どれほど滑稽でも上流階級にしがみつこうとする二人は、せめて幼い娘達だけは苦労することのないように、幸せになれるようにと見様見真似で淑女教育を施し、つぎはぎ合わせて取り繕った。

 小さな令嬢達を連れ回して他家を訪問するみすぼらしい侯爵夫妻の姿は痛々しいの一言に尽きたが、何よりも姉妹の心を傷つけた。同世代の恵まれた子供達との差を突きつけられ、自分や両親を馬鹿にするような遠慮ない物言いに貫かれ、少女達は残酷な現実を知る羽目になったのだ。


 実際のところ、幼い姉妹の髪色とヴェルデロサ家の家紋になぞらえて、青薔薇の姉姫と赤薔薇の妹姫と称賛を浴びせる者もいた。荒れ地でも野薔薇は咲くものだ、と。

 だが、たとえ少数だろうと悪意は好意をたやすく塗り潰す。優しい姉妹にとって、自分達への遠回しかつ皮肉交じりな賛美より、愛する両親を馬鹿にする眼差しのほうが深く心に刻まれた。


 姉のエイレナは他人に恐れをなして引っ込み思案に、妹のフェリシアは他人の悪意をはねのけようと負けず嫌いに育っていく。

 正反対の二人だが、共通するところがふたつあった。ひとつはどちらも可愛らしかったこと、そしてもうひとつは相手を強く愛していたことだ。


 両親なりに自分達の将来を考えてくれているのはわかっていたが、まだ無垢でいたかった少女達にとって両親の生々しい決意と努力は手放しで喜べるものではない。求めていたものとは異なる愛の形を理解できることと、それを受け入れられることは別の話だ。

 だから、小さな妹を守れるのは自分だけだとエイレナは自分に言い聞かせ、か弱い姉の代わりに戦えるのは自分しかいないとフェリシアは息巻く。想いこそすれ違っていたが、その噛み合わなさすらも愛おしく、いじらしく思えた。


 そんなこんなで月日は巡り、運命の日がやってくる。エイレナと同い年の公爵令息、バールトン家の嫡男クラウスの十歳の誕生日パーティーだ。


 正式に社交界にデビューする前から覚えをよくしておけば、婚約者候補として優位に立てるかもしれない。エイレナもフェリシアもクラウスに興味なんてちっともなかったが、両親がこのチャンスを逃すはずがなかった。そして侯爵夫妻は、二人の娘を連れて意気揚々とバールトン家のガーデンパーティーにやってきた。


 派手に着飾った者ばかりのパーティーで、貧相な見た目をした侯爵令嬢が珍しいのか、今日の主役であるクラウスはエイレナをじろじろと見た。


「よくお前のような者がパーティーに来たな。名前はなんだ? 親はどこにいる? おい、何を黙っているんだ。もっと近くに来い。私を祝いに来たんだろう」


 ……初対面の男の子に高圧的な物言いで睨まれて、エイレナが委縮しないはずがない。機転を利かせてぐずるふりをしたフェリシアの助けを借りて、なんとか撤退することでその場をしのいだ。


 悲劇が起きたのは、歓談する大人に交ざれない小さな子供達が集まって隠れ鬼に興じていたときのことだった。


 クラウスから隠れるため、フェリシアの付き添いという名目でエイレナもその他愛もない遊戯に参加していた。


 庭園の死角。余興で使う道具が置かれていた小屋。神のいたずらか、あるいは誰かの作為だったのか。姉妹が何気なく選んだ隠れ場所は、突然燃え上がった。

 火元は、小屋の中に保管されていた花火だ。クラウスの誕生日を祝って空に放たれるはずの祝砲は、前触れなく爆発した。


 小屋の中で自分達以外の人影を見たような気もするし、揺れる炎が見せた幻覚だったような気もする。どちらにせよ、妹を庇いながら夢中で小屋の外に転がり出たエイレナに、自分達以外の誰かの行方を追う余裕などありはしなかった。


 小さな女の子であるエイレナとフェリシアの視点では、目の前の火事は世界を揺るがす大爆発と言っても過言ではなかったが、少し引いたところから見ればただのボヤ騒ぎに過ぎない。

 エイレナが守ったこともあり、フェリシアはほとんど無傷で生還した──その代わり、エイレナが全身に火傷を負った。


 偶然の事故か、姉妹がそうと知らずに何かしてしまったのか、あるいは公爵家に恨みを持つ者の仕業か。真相は闇に包まれたまま、責任の所在だけが宙に浮く。

 他に人的被害はなかったし、庭園の片隅にある物置小屋が少し燃えたぐらいで公爵家は痛くも痒くもないが、嫡男の誕生日パーティーに泥は塗られた。しかしホストとして、どんな形であろうとゲストに怪我を負わせたのなら監督不行き届きと責められても文句は言えない。


 大人が始末に迷った一瞬の隙を突き、クラウスはこう宣言した──「エイレナ・ヴェルデロサと婚約することで責任を取り、ヴェルデロサ家への追及も不問にする」と。


 バールトン公爵家としてはうまみのない提案だ。何故クラウスがそんなことを言い出したのか、大人になった今でもエイレナはわかっていない。きっとただの気まぐれだったのだろう。


 裕福な家との良縁を虎視眈々と狙っていたはずのヴェルデロサ侯爵夫妻も、さすがにこれはどうなのかと顔を見合わせた。

 野心があることと、品性がないことは別の話だ。これ幸いにと強引に縁談をねじ込まないだけの良心が二人にはあった。


 こんな形で愛娘の結婚相手を決めたかったわけではない。とはいえ娘が傷物にされたのは事実だ。これを逃せば、エイレナを結婚させるのは厳しいだろう。

 悩む侯爵夫妻をよそに、突拍子もないことを言い張る息子の姿に何を思ったのか、公爵夫妻は笑い出した。そしてあろうことか、クラウスの世迷い言を快諾してしまったのだ。


 ヴェルデロサ家が辞退する間も与えられずに、バールトン家は沙汰を下した。もう、否と言っていられる場合ではない。


 かくしてエイレナとクラウスの婚約が結ばれる。

 これが、十年続く針のむしろの始まりだった。


*


 公爵家に嫁ぐにあたり、エイレナのもとにはバールトン家から家庭教師が派遣され……るのかと思ったのだが、ヴェルデロサ家の環境があまりにも悪かったからなのか、エイレナがバールトン家で暮らすことになった。


 毎日が礼儀作法のテストだ。四六時中バールトン公爵夫妻やクラウスに監視されて、気の休まる暇もない。

 公爵夫妻の言葉のすべてが嫌味に感じられたし、クラウスはクラウスで睨みつけてくる。そうかと思えば残忍な笑みを浮かべて火傷の跡を触ろうとしてくるので、怖くて怖くて仕方がなかった。


「こんな醜い傷痕があれば、お前はどこにも行けないな」


 エイレナの顔と両腕、それから背中。幸運にも、命に別状のあるものではない。だが、一部だけ波打つ皮膚は異様に赤く、白い肌においては嫌でも目を引いた。整っていた顔立ちも、顔の半分が引きれていたら台無しだ。

 だからエイレナは季節を問わずヴェールで顔を隠しているのだが、クラウスはためらいもせずにヴェールを持ち上げて袖をめくる。エイレナのことを所有物とでも言いたげなほどぞんざいに、無遠慮に。


 隠しておきたい傷痕ひみつを暴くクラウスのことが、エイレナはずっと嫌いだった。そんなクラウスを咎めるでもなく、ニヤニヤと見ているだけの公爵夫妻のことも大嫌いだ。邪魔な居候、お情けの婚約者の分際で、そんな本音などとても口には出せないが。


 うっかりバールトン家の面々の機嫌を損ねてあの誕生日パーティーの賠償金でも請求されようものなら、ヴェルデロサ家は吹き飛びかねない。両親はもちろん、可愛いフェリシアにも多大な迷惑がかかることだろう。だからエイレナは、幼いながらに耐えることを選んだ。


「これが私の気持ちだ。……意味はわかるな?」


 そんなことを言われながら、目の前でヴェルデロサ家の家紋である薔薇の花をくしゃりと握りつぶされれば、なおのこと反抗の意思などたやすく折れる。はらはらと散っていく花びらを見せられた聡明な少女に、がくがくと頷く以外の行動ができただろうか。


 実家から届くエイレナ宛の手紙が、エイレナの手に渡る前にすでに封が切られていることも気持ち悪かった。誰かが検分しているのだ。

 妙に返事が届かないことがあるのは、エイレナの目に入らないよう抜き取られているから。エイレナが送ったはずの手紙すら、届いていないことがあるらしい。それが発覚したのは、初めて実家に帰してもらえた日のことだ。その日はエイレナの誕生日の一週間前だった。

 そんな捕虜同然の扱いに憤ったフェリシアをなだめるために、エイレナは両親と一緒に暗号文を考案した。そのおかげでなんとか検閲をすり抜けることに成功したが、家族とのやりとりというプライベートな内容の手紙を他人に読まれるというのは年頃の少女には耐え難い屈辱だ。そんなひどい拷問を受けた結果、エイレナはますます内向的になってしまった。


 年に一度、エイレナの誕生日が近くなると、一日だけ実家に帰してもらえる。だが、誕生日当日に祝われるのはあくまでも公爵邸だ。

 クラウスから憎まれ口とともにプレゼントをもらっても嬉しくないし、パーティーに招かれた家族は公爵家の面々に威圧されているせいで、どうしても他人行儀になってしまう。家族の絆が引き裂かれたようで悲しかった。

 「次期公爵夫人への態度を忘れないように」と公爵家の使用人にすら言われるほど、ヴェルデロサ家は侮られているのだ。バールトン公爵夫妻の手前、両親も妹も引き下がるしかなかった。



 そういうわけでエイレナは、望まぬままにクラウスの婚約者ひとじちになり──気づけば十年経っていた。


 この国の貴族女性の結婚適齢期は、十五歳から十八歳とされている。貴族男性であれば二十二、三歳までともう少し猶予があるが、十九歳を過ぎてもなお未婚の女性は肩身が狭い。

 両性の結婚可能年齢、すなわち十五歳デビュタントから始まる貴重な年三回の社交期は、婚約者の決まっていない令嬢がいる家、そして令嬢本人にとっては一秒たりとも無駄にできない勝負の時だ。


 エイレナとクラウスのように、デビュタント以前から婚約が決まっている例はまれだが、ないこともない。よほど両家の結びつきが強かったり、結婚相手を時勢によって決める必要がないような間柄だったりする場合だ。

 だからそういう長年の婚約者達は、お互いが十五歳になれば即座に結婚するのが通例だった。いつまでも婚約でとどめておく必要がないのだから当然だろう。


 それなのに、エイレナ達はいつまで経っても結婚できない。今年で二十歳になるというのに、ずるずると婚約者のままでい続けている。

 男性側クラウスはまだ結婚できなくても余裕だろうが、問題なのは年齢だけではない。これでは、何らかの事情があって婚約を解消できないが、婚約そのものには不満があると公言しているも同然なのだから。


(きっとクラウス様も、あの日の気まぐれを後悔していらっしゃるでしょう。それならそれで、早く婚約を解消してくださればいいのに……)


 自分達は、間違っても愛し合う恋人達などではない。エイレナはクラウスに幾度となく婚約の解消を打診してきたが、そのたびにクラウスは薔薇の花をちらつかせる。無言で差し出された赤い薔薇の花束は、フェリシアのローズレッドの髪を想起させた。


 優しくて素敵な恋人を見つけたフェリシアは、十六歳の時に幸せな結婚をした。

 今は婿のトレミーと一緒に、ヴェルデロサ家を盛り立てようと頑張ってくれている。その足を引っ張ることなどできるわけがない。


 妹を想って薔薇の花束を抱きしめるエイレナに、クラウスは満足げにほくそ笑む。「何度言えばわかる。婚約の解消はしない。絶対にだ」──その絶望の宣告により、二人の婚約が『エイレナの苦しむ顔を見るために、わざとエイレナを傍に置いている』、『何の愛も情もなく、ただの嫌がらせでありクラウスの悪趣味さの発露でしかない』という意味だと理解してから、エイレナはクラウスから解消の言葉を引き出すのを諦めた。


 だからと言って、自由まで諦めたわけではない。

 エイレナとクラウスの婚約において、優位に立っているのはどう考えてもバールトン家だ。エイレナを傷物にした責任を取るために、義務で婚約を結んだだけだというのは目に見えていた。

 バールトン家としてはそれで義理を果たしたつもりで、実際に婚約やくそくの履行までする気はないのだろう。もっとクラウスにふさわしい結婚相手が見つかれば、今結んでいる婚約は自然と解消されるはずだ。


 身体に残る火傷はもちろん、年齢のせいで新しい結婚相手はもう見込めないだろう。それでもせめて、バールトン領とは遠く離れた場所でおひとりさまを満喫したい……そう望むのは、贅沢なことなのだろうか?

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