ゾボルザックの夕暮れと冷たい風の行方
夜明けを告げるキイロオナガドリが鳴く頃、獣人たちはみんな駐屯地に戻って来ていた。
イヌエンジュは小型種の獣人たちに『先行部隊と合流して闇の森を抜けて』と言って戻ったらしいけど、獣人たちが勝手に帰って来たようだ。頼りない探索隊長と、ラフリクスと二人で残ったあたしのことが心配だったらしい。
先行部隊の大型種が駐屯地の異変に気づいたのは、師令官が放った闇属性の魔力溜まりを感知したから。グレンがラフリクスの奇襲計画を大人たちに打ち明け、すぐ引き返すことに決まったようだ。
「みんな疲れてるだろうが広場に集まってくれ」
砂漠の上に太陽が半分顔を出した頃、師令官が声をかけて回った。
昨日の朝と違うのはみんながあくびを連発してること、テントがひとつ黒焦げになっていること、爬虫類種のテント脇に大きな穴が掘られていること。
ラフリクスが不意打ちで攻撃を仕掛けてくると踏んで、鳥人のテントは裏側の布を外すことですぐ飛び立てるようにし、爬虫類種のテント裏には塹壕を掘ったらしい。実際にはあたしを盾に堂々と駐屯地に戻って来たわけだけど、火球の攻撃から全員無事に逃げられたのは予め対策を立てていたおかげだ。
――初弾さえしのげば二発目は撃たせない。
師令官は駐屯地に残った獣人にそう宣言していたらしく、言葉通り闇属性の魔力によってラフリクスのニ発目は不発に終わった。
「寝ころんでもいいから楽に聞いてくれ」
ぞろぞろと集まった獣人たちは総勢九十人。師令官を囲むように車座になって座った。
グレンは駐屯地に戻って来てからずっとあたしにくっついている。瞼は半開きで、あたしの肩に頭を預けて今にも眠ってしまいそうだ。イヌエンジュがチラチラとこっちを見ているその横で、「まずは」と師令官が話し始めた。
「昨夜の第二十五次探索はなかったことにする。まあ、実際のところ誰も闇の森に入っていないしな」
「第一、第二隊長のことはどうするんっスか?」
あたしのすぐ目の前でレニーが右手をあげた。あぐらをかいて左手で頬杖をつき、栗色のポニーテールを揺らしている。
「昨夜のことは功を焦った第一、第二隊長の仕業ということにする。二人は闇の森制圧計画が打ち切られると知り、数人の獣人を引き連れてれて自ら闇の源を探すことにした。わたしと第三探索隊長がそれに気づき阻止しようとしたが魔術で反撃され、テントが燃えた。結局彼らは闇の森に入り帰還することはなかった――という筋書きだ」
「二人が連れてった獣人ってのはどうするんスか? 獣人は全員無事ですよね?」
ああ、と師令官がうなずく。
「みんなが無事だったのは幸いだが、今回わたしが魔力を使ったせいで駐屯地に残っていた獣人の奴隷紋は効果を失った。本隊の伝令係は魔術師だから、魔力のない奴隷紋が見つかれば問い詰められるだろう。なので、鳥人と爬虫類種は先にアルヘンソ領に行くか、補給隊が来たときは隠れるようにしてくれ」
顔を見合わせているのは鳥人と爬虫類種。ヒルダはここに残ると決めているからか迷いのない顔をしている。
「じゃあ、残りの獣人は補給隊が帰ったあと第二十五次探索で闇の森を抜けるってことッスか?」
「そうだ。それまでは今まで通り過ごしてくれ」
グレンが「今までより快適に過ごせるよ」とあたしの耳元で囁く。
魔術師が二人いなくなり、残った魔術師はゾボルザック駐屯地の治癒師だけ。誰に気を遣う必要もなく、警戒するのは密林の魔獣だけでいい。
「じゃあそろそろ」
お開きかと思ったらレニーがまた手をあげた。
「師令官の魔力で奴隷紋から解放されるなら、わざわざ闇の森に行かなくても良くないッスか?」
「空を飛べればな」と師令官。
「アルヘンソ辺境伯は密林内にも結界を張っている。アルヘンソ領に行くには結界構築できない場所、つまり闇の森を抜けるしかないんだ。無理やり結界を壊してアルヘンソ辺境伯の機嫌を損ねるわけにもいかない」
「リスやトカゲくらいなら鳥人が運べますよね」
どうやらレニーはルーを心配しているらしい。魔獣を怖がっていたし、空から行けるならその方が安全だ。
「わかった。そこらへんは調整してみよう。みんな疲れてるだろうからとりあえずここまでにして、今日はゆっくり休んでくれ。昼の見張り番はわたしとイヌエンジュがする」
師令官が「解散」と言うと、みんなのろのろと自分のテントに戻っていった。グレンはいつの間にかあたしの隣で寝息を立て、レニーがおぶってテントまで連れて行った。
あたしも寝るつもりでテントに戻ったけど、監視小屋のお父さんとイヌエンジュがどんな話をしているのか気になり、猫のままテントを出た。太陽のまぶしさにあくびが漏れる。
モンキーポッドの木陰で監視小屋を見上げると、気配を感知したのかイヌエンジュが囲いから身を乗り出して手を振ってきた。あたしが梯子を駆けのぼって床穴から顔を出すと、ヒョイと脇を掴んで持ち上げられる。
「ニャア」
「盗み聞きしに来たんだろ、エリ」
「ウニャニャニャア」
「男同士の内緒話を邪魔するのかい?」
「ニャニャニャーニャ」
「猫語が分かるんですか?」
イヌエンジュが真面目な顔で師令官に聞いた。
「エリの言いそうなことが分かるだけだよ。君にはまだ分からないだろうな」
「ニャニャーニャア」
「師令官と二人になりたいのかな?」
「ニャーニャ」
「おれ、周辺の見回り行ってきますね」
イヌエンジュは梯子を使うことなく、監視小屋の囲いに手をついてヒラリと乗り越えた。
「魔術っていうのは便利だな」
お父さんは風魔法でゆっくり下降するイヌエンジュを羨ましそうに見ている。地面に降り立ったイヌエンジュが「行ってきます」と片手をあげた。
「エリも一緒に行っておいで」
指先で額をなで、お父さんは床にあたしを降ろす。
「ニャア」
梯子を駆け下りてイヌエンジュのそばまで行くと、彼は「行こうか」と歩き出した。
獣人のほとんどが眠っているようだけど、ちらほらと人や獣の姿がある。イヌエンジュはテント内まで魔力感知しながら歩いているらしく、ずいぶんのんびりした歩き方だった。
「エリの魔力のこと聞いたよ。爪でひっかかれないようにしないとね」
密林へと向かう途中、ようやくイヌエンジュが話しかけてきた。
「ニャニャニャーニャ」
「エリ、今日は人化する気分じゃないの?」
「ウニャニャニャーニャ」
「師令官はおれにエリのこと任せるって言ってくれたけど、エリはそれでいいの? おれ、ラフリクス隊長を斬ったときのことを思い出すとまだ手が震えるんだ」
イヌエンジュが足を止めて自分の両手を見た。
バンラード大公が従弟のイヌエンジュを嫌ったのはこんな性格だからだろうか。だとしたら、イヌエンジュは絶対バンラード王国から離れた方がいい。
バサッと音がして密林に目をやると、鮮やかな赤、青、緑の羽根に彩られた鳥が降り立っていた。長い尾羽根をワサワサと揺らし、首を前後しながら歩くヒスタインコ。
「おれ、本当は魔獣を殺すのも好きじゃない」
「ニャア」
食糧として狩られた魔獣に憐れみの眼差しを向けるおかしな魔術師。バンラード王国魔術師団の基本任務は魔獣討伐だというのに。
「おれ、生き物を殺すのは苦手だけど、せめてエリが怪我したり病気したりしたら治せるようになりたい。他の獣人たちには治癒魔法が効くのにどうしてエリには効きが悪いんだろうってずっと考えてたんだけど、エリの魔力が闇属性に偏ってたからなんだ」
「ニャニャア」
ニャアばかりしか言わないのが不満なのか、イヌエンジュはあたしを抱き上げて目を合わせた。
「さっき師令官に頼んだんだ。おれ、死霊術師に闇属性の魔力のことを教えてもらってくる。そしたらエリに効く治癒術も構築できるかもしれない。だから、エリは先にアルヘンソで待ってて」
「やだ」
人の姿に戻って抱きつくと、バランスを失ったイヌエンジュはあたしを支えきれず尻もちをついた。
「あたしも一緒に死霊術師に会いに行く」
「師令官が許してくれないと思うよ。闇属性の魔力に耐性があっても魔力量が少ないのは他の獣人と同じなんだから。あれだけ濃いマナの中に何日もいたらマナ滞留症状を起こす。それに、エリが行くって言ったらグレンまでついて来ちゃうよ」
「だったらゾボルザックで待ってる」
「そうできればいいけど、闇属性の魔力のことを知った魔術師はバンラード王国側には帰してもらえないって。だから迎えに行けない」
死霊術師の祖先シス族はもともとバンラード王国の部族だったはずなのに、今はバンラード王国から隠れ、帝国側のアルヘンソ辺境伯と通じているなんて変な話だ。
「エリはアルヘンソ家で暮らせるらしいよ。先にアルヘンソ領に行った獣人のほとんど国境警備兵をしてるって師令官が言ってた」
「イヌエンジュは?」
「おれはアルヘンソ辺境伯家の治癒師だって。だから、闇属性の魔力による怪我も治せるようにならないと」
普段は優柔不断なくせに、闇の森行きを考え直す気はまったくなさそうだった。
「闇属性の魔力は魔術師殺しなんだからね。死霊術師を怒らせるようなことしちゃダメだよ」
「わかった。死霊術で操られた獣にやられたら魔術が使えなくなるって言われたし、気をつけるよ」
「ニャー」
あたしは爪を立てるマネをする。イヌエンジュはクスッと笑い、地面に座り込んだままあたしの爪に口づけた。
「グレンにエリを奪われないように、なるべく早くアルヘンソに行くよ」
「知ってる? グレンはイヌエンジュと違って積極的なんだよ」
「おれだって本当はこのままテントに連れ去りたい」
「連れ去らないの?」
「師令官に見張りをさせてるのにそんなことできないよ。そろそろ戻らなきゃ」
「やだ」
頬を膨らませるとイヌエンジュはあたしの額にキスをし、そのあと彼の唇は左右の瞼、鼻、唇へと移動した。目を閉じたら眠気が一気に襲ってきて、あたしの意識はプツリと途切れた。
夢を見ていた。
あたしは真っ暗な師令官テントのベッドで丸くなっている。蒸し暑い夜だけど、すっぽりと布団をかぶって吹き出る汗を我慢していた。お父さんはついさっき出ていったばかり。
第六次探索で密林に入ったお母さんの奴隷紋の魔力が消えたらしかった。
闇の森にはたどり着いてなかったから魔獣の仕業だろうとラフリクスが言っていた。今回探索に入った獣人は二十一人。お母さん以外は闇の森に入ったみたいだった。
なんでお母さんが?
これまで何度も闇の森近くまで行っているのに。お母さんの魔力感知能力があれば魔獣を避けて移動するなんて簡単なはずなのに。
テントの外から聞こえるヒソヒソ声はあたしを不安にさせるものばかりだった。足音が遠ざかって束の間静寂が訪れると、急に寒気がしてくる。
ト、ト、トン……トン、ト、ト、トン……
お母さんの揺らぎ方だ。
布団から顔を出すと、ベッドの脇にお母さんが立っていた。
『お母さん!』
半泣きで抱きつこうとしたら、お母さんはスーッと消えた。夢かと思って目を擦るとまた現れ、その体はマナ石ランプもないのにぼんやりと光に包まれている。
『お父さんはお母さんを探しに行ったよ』
『そうね、お父さんはお母さんと一緒にいるわ』
『どこにもいないよ』
『エリ、あたしのかわいいエリ。お父さんのことお願いね』
お母さんを包む光が揺らいでいる。
ト、ト、トン……トン、ト、ト、トン……
その光は水たまりにできる雨の波紋のように広がり、次第に夜の闇に溶けていった。
「お母さん!」
目を覚ましたのは師令官テントのベッドだった。
あの夜と違うのはお父さんがあたしのそばでベッドに腰かけていること、テントの隙間から茜色の光が漏れ入っていること、スープのいい匂いが漂ってくること。
「お父さん、いつからいたの?」
「ちょうど今見張りを交替して戻って来たところだよ」
体を起こして抱きつくと、お父さんはあたしの頭を優しくなでた。
「エリ、お母さんの夢を見てたのか?」
「うん。お母さんが死んだ時の夢。あの日の夜、お母さんがテントに現れたの。影とは違ってお母さんの体がうっすら光ってた。お父さんのことお願いって言って消えちゃった」
「エリにも死者が見えたんだな。お母さんもたまに死者の姿を見ていたようだ」
初めて聞かされる話なのに、「やっぱり」と素直に腑に落ちる。
「それって、幽霊?」
「ああ。死者の魔力を魔術で留める影と違って、幽霊はほとんどの人に見えない。だけど、猫獣人には見える人が多いらしいんだ。猫獣人の間では、人は死んだら幽霊になって世界を旅するって言い伝えがあるらしい。エリがアルヘンソ領に言ったらお母さんも一緒に行くかもしれないね」
――師令官、とイヌエンジュの声がした。
「食事ができたようですけど、どうします? 二人分テントに持って来ましょうか?」
「いや、いい。そっちに行く」
お父さんが入り口の布をめくると、イヌエンジュの横にグレンの姿があった。似たような髪色をしているせいか二人並ぶと兄弟みたいだ。
「師令官」
年のわりに生意気なグレンは、実は師令官と話すのがちょっと苦手だ。そんなグレンが意を決した顔で何を言うのかと思ったら、
「エリアーナが貴族のお屋敷に行くって本当ですか? 本物のお姫様になるんですか?」
お父さんは面食らった顔をし、その後ククッと笑った。
「エリはお姫様になりたいか?」
「全然。あたし、剣士になりたい」
「それは良かった。エリはアルヘンソ兵団の団員見習いとしてアルヘンソ辺境伯邸で訓練を受けることになってるんだ。お姫様になるどころか、アルヘンソ家のお姫様を守る側だよ」
エッ、と声をもらしたのはあたしを含めグレンとイヌエンジュの三人。
「そんなの聞いてない」
「教えようが教えまいがいずれ分かることだ。嫌か?」
「嫌じゃないけど」
イヌエンジュは唖然とした顔であたしとお父さんを見比べている。グレンはあたしが姫になろうが兵士になろうがアルヘンソ家に行くのが不満のようだった。
「グレン」
師令官が慰めるように肩を叩く。
「グレンはエリと別のところで訓練を受けることになると思う。でも、剣が扱えるようになったらエリと同じところに行けるかもしれない」
「そうなんスか?」
隣のテントからヒョコッとレニーが顔を出した。
「おれ、王都で剣闘士やってたんで見よう見まねだけど剣使えるんスよ。グレンより先に姫のところに行けるかも」
「そんなのズルいよ」
「ズルくない。これは実力だ」
レニーはグレンをからかいながら調理場の方へと足を向けた。いつの間に雨が降ったのか地面がしっとり濡れている。
篝火が焚かれ、モンキーポッドの上に一番目の青白い月が見えた。振り返ると密林は夜闇に染まりつつある。
ここはあたしが生まれた場所。あたしの十五年間が詰まった場所。闇の森に住む顔も見たことのない隣人たちに想いを馳せた。
お父さんの両親はあの森で今も生きてるのだろうか、兄弟はいないのだろうか。闇の森を守るたった一人の魔剣士はどこであの剣を手に入れ、誰に剣術を習ったのだろうか。
「お父さん」
「なんだ?」
獣人たちの話し声と笑い声に混じって、密林からキツネモドキの遠吠えが聞こえた。
「やっぱりなんでもない。次にここに帰って来たときに聞く」
「騎士になれたら帰っておいで。お父さんと勝負しよう」
「わかった」
騎士が何なのかよく分からなかったけれど、ゾボルザックを離れたあとの目標ができた。
ちなみに、あたしがアルヘンソ領へ行った後にグブリア帝国皇太子直属の紫蘭騎士団で見習い騎士となり、魔塔の魔術師となったイヌエンジュと再び闇の森を抜けてアルヘンソ辺境伯領を目指すのはまだ先の話。
「エリ、剣士って本気?」
イヌエンジュは心配そうに顔をのぞき込んでくる。
「うん。頼りないワンコはあたしが守ってあげるから怪我したら治して」
「わかった」
イヌエンジュは半ば諦めたような顔でうなずいた。
探索後のことを考えて胸が踊るのは初めてだ。アルヘンソ家での生活も、アルヘンソ兵団での訓練も、不安はあるけどそれだけじゃない。ゾボルザックを出た獣人たちが国境警備をしてるならすぐ会えるかもしれない。それに、アルヘンソ側の国境といえば――。
「あったかい鉱泉、入ってみたいなぁ」
「温泉か」と言ったお父さんはどこか懐かしそうな顔をしていた。
「アルヘンソ領には何箇所か温泉があるから温泉巡りもいいぞ」
「お父さん、もしかしてアルヘンソ領に行ったことあるの?」
「さあな。お母さんもエリと同じように温泉に行きたがってたけど連れて行ってあげられなかった。アルヘンソ領に抜けたらエリスティカの温泉に行ってみるといい。イヌエンジュにのぞかれないようにな」
顔を赤くしたイヌエンジュを見てあたしとお父さんは声をあげて笑う。
不意にヒヤリと冷たい風が頬をなでた。
ト、ト、トン……トン、ト、ト、トン……
かすかに見えた光がお父さんの肩をかすめて空へと飛んでいく。あれはエリスティカの方向。
どうやらお母さんはひとあし先に温泉に向かったようだった。
【黒猫姫エリアーナとゾボルザックの闇の森】
――完――
この物語は『巻き添えで召喚された直後に死亡したので幽霊として生きて(?)いきます』に収録の番外編です