1-3 能力発現
重い足音が、耳に届く。それが足を進めるたびに、大地が小刻みに揺れる。いくらか後ろの方では、獣のような唸り声が絶えず聞こえたままだ。ただ、獣にしては、その声はいくらかくぐもって聞こえる。
そこそこ離れているのに、獰猛な気配が向けられているのを感じる。緊張で、体が強張る。振り返ろうとしても金縛りにあったかのように動かず、瞬きするのさえも忘れたかのように、目は見開いたままだ。
極度の緊張のせいか、全身から冷や汗が噴き出してきた。
それでも、うまく動かなくなった体を気合を入れて無理やり動かし、ケイトは恐る恐る振り返り、そして目を疑った。
そこには、熊ほどもある大きさの何かがいた。姿かたちは、それこそ熊に近い。しかし、その体は普通ではなかった。全身は装甲を纏ったように鉄で覆われている。いや、よくよく見れば少し違う。体そのものも鉄、それも朽ち果てた屑鉄でできているようだ。ボロボロになって若干崩れた腹から覗き見えるものは、錆色をした鉄だ。生身の肉体はない。
機械なのか、と思ったが、それも違うように思える。この異形の怪物が荒々しく吐き出す息は、生きている獣のそれに等しい。放たれる気配も、野生の獣が獲物を狙う時のものに似ている。
「あれは一体、何なんだ……?」
無意識の内に、口から言葉が漏れた。
その声に反応したのか、鉄鬼がこちらへと目を向ける。朽ちながらも厚く覆われた顔の装甲の奥で、二つの小さな赤の双眸が怪しげな光を放った。
「グオオオッ!」
高々と吼え声を上げ、鉄鬼がケイトへと迫り来る。鉄を纏っているというのに、意外と俊敏だ。重い足音を間断なく立てながら、こちらとの距離を瞬く間に縮めていく。
「ケイトさま、早く逃げないと!」
唖然としながらそれを見ていたケイトは、その言葉で我に返った。ツクノに頷き返し、一目散に駆け出そうとする。
それを、誰かが手を引いて止めた。
ハッとして振り返ったが、そこには誰もいなかった。近くには、ケイトの前を飛ぶツクノしかいない。
なのに、この手はまだ何かに引かれている。まるで、「行くな、立ち向かえ」と言われているかのように、強く引き止めている。
ケイトは、そっと手に目をやる。右手の裁縫箱が、微かな光を放っていた。
この光が何なのか。漠然とながらも、ケイトはもう理解していた。
――僕に、戦えと言っているのか?
胸の内で問いかけると、裁縫箱が一度、微かに明滅した。それからまた、光を放つ。温かなものが、手を通して自分の中に流れ込んでくるのを感じた。
「何やってるんですか、ケイトさま! 急いで急いでー!」
ツクノの叫ぶような声に、ケイトはハッとした。視線を微かに上へとずらすと、もう間近にまで迫っている鉄鬼の姿が目に映った。
「グルアアアッ!」
獰猛な咆哮が轟く。
右腕を大きく振り上げ、鋭く尖れた五本の爪を威嚇するように大きく広げながら、鉄鬼が大地を強く蹴り、ケイト目掛けて跳んだ。その勢いは凄まじく、数瞬の内にケイトの体を捉えるだろう。
「ケイトさまッ!」
ツクノの叫び声。しかし、ケイトの耳にはその声はどこか遠く聞こえる。もっと言ってしまえば、鉄鬼の咆哮さえもうっすらとしか聞こえていない。
今、確かに聞こえるのは、この裁縫箱から感じる鼓動だけだ。ついさっきは微かに感じていたそれが、今でははっきりと聞こえる。力強い、生命の息遣い。この道具が、モノとして生きている証が。
その鼓動が、自分のそれと交わり合っていく。微かにずれて鳴っていた二つの音が徐々に重なっていき、やがて、完全に一つの音になった。
瞬間、裁縫箱が光を放ち、ケイトを包み込んだ。とても温かくて、力強い光だ。
その光が、自身の手に急速に集まる。集まった光はすぐさま形を形成し、やがてケイトの両の手には二振りの刀が現れた。
すぐに二本の刀を鉄鬼へと向け、ケイトは構えを取った。鉄鬼の体に、さっきまでは見えなかった何本かの薄い青色の光が走っているのが見える。それが何なのか、一体何が起きているのか。今は考えることも驚くことも、一切をやめた。
一連のことが起きても、鉄鬼に怯んだ様子はない。
「ガアアアッ!」
咆哮と共に、鉄鬼が五本の爪を勢いよく振り下ろす。風が、低い唸り声を上げた。
自分に、戦いの心得はない。しかし、体は無意識のうちに動いていた。迫り来る鉄鬼の一撃を横に跳んでかわし、地面に降り立ったと同時に前へと出ては、両の手の刀を振るう。
乾いた音が微かに鳴り響き、何かを断ち切る音が二度鳴った。
攻撃を終えた鉄鬼が、そのままの体勢で動きを止める。だが、それも束の間だ。振り抜いた右腕がゆっくりと肩から切り落とされ、胴から上がぐらりと傾いては、地面に仰向けになって音を立てて落ちた。不気味なほどに赤く光っていた双眸は、既に光を失っている。
近くでどよめきが起こり、次いで歓声が上がった。逃げていた人たちが喜びに沸いているのが、横目ながらも見えた。
「倒した……」
手に残る斬った感触と、思い出したかのように早鐘を打ち始めた心臓の鼓動を感じながら、ケイトは呟くように言った。
「……おっとと」
緊張の糸が切れたのか、腰から座り込んでしまう。立ち上がろうとしてもうまく力が入らない。
どうせ立てないのなら、とケイトは大の字に寝転んだ。澄んだ青色の空と、輝く陽の光が眩しい。
「うっそー……」
ふらふらと近づいて来たツクノが、満面を驚きに満たしながら続ける。
「まさか、こんなすぐに道具使いになるなんて……! いやいや、それよりも!」
首を大きく横に振ったツクノが、寝ころんだままのケイトにずいと顔を寄せた。
「鉄鬼を簡単に倒せるなんて、尋常じゃないですよ! どうなってるんですかぁ!?」
「いや、それを僕に聞かれても」
苦笑交じりに言っても、ツクノは聞き入れてはくれない。ちょっとうるさいほどに喚いて質問してくるばかりだ。
そもそも、どうして倒せたかなんて、自分にもわからない。無我夢中で刀を振り抜いた時、それほど抵抗もなく鉄鬼の体を斬れた。頑丈だと聞いていたのにそんな感じはなく、手に残った感触も、紙でも切ったかのようなものに過ぎない。
――何が何だか。
今起きたことに困惑するも、考えるのはすぐにやめた。今は、少し疲れた。考えても、何も浮かんではこない。
ただ、はっきりしていることがある。
「これが、道具使い。ユーザーとしての、僕たちの力」
両手の刀が、返事をしたかのように一度光る。
――もう、後戻りは本当にできない。
手に握った刀の感触と伝わる鼓動をしっかりと噛み締めながら、自分が本当にスタートラインに立ったことを、ケイトは実感した。