0-2 付喪神との出会い
漆黒の闇が、辺りに広がっている。
引っ張られた勢いのまま青年は飛ばされていて、あまりにも凄まじい風圧のせいで目を開けることができない。それでも、一切の明るさを感じなかった。今いる場所は、微かな光さえも存在していない。
加えて、どことなく寒い。飛んでいる勢いも相まって、肌が急激に冷たくなっていくのを感じる。
――ここは何なのだろうか。一体どこまで飛んでいくのだろうか。そもそも、僕はどこに向かっているのだろうか。
疑問ばかりが頭に過ぎるが、それを解決する術を持たない。わかることは、ただ一つ。普通じゃないことが起きているということだけだ。
夢を見ているという可能性は、すぐに捨てた。この顔に、体に感じる風圧は、夢にしてはあまりにもリアリティがある。起きていることはファンタジーも良いところではあるが、そこは気にしても仕方がない。
――あの声の主は、誰だったんだろう。
少し幼い感じの、少女の声だったような気がする。青年が返事をする前は、確か凄く心細そうな声で助けを求めていた。
助けを求められたのならば、応えるしかないとは思う。思うが、自分に何ができるのだろうか。
そういえば、その声の主は助けてほしい、力を貸してほしい以外に何かを言っていた。
――確か、あなたの適性を見込んで、だったかな。
適性とは、何だろうか。
そのことを考えようとした時、不意に視界に光が差した。
さっきまでの冷たさが嘘のように和らぎ、心地の良い暖かなものが辺りに広がる。
どこかに出たのだ。そう思って、風圧で開けづらい両の目を、青年は何とかこじ開けた。
だが、最初に目にしたのは、茶色の地面だった。
「ぶはっ……!?」
避ける間もなく大地にぶつかり、鈍い音を立ったのと、自分の悲鳴にもなっていない声が漏れたのは、ほぼ同時だった。
顔面から盛大に地面へと叩きつけられ、そこから一度、二度と跳ね上がってから、ようやく体の動きは止まった。
「いてて……」
ひりつく顔に手を当て、大の字に寝転がりながら、青年は空を見上げる。普段見ているそれよりも澄んだ青が、一面に広がっていた。
体を起こし、辺りを見回す。前後にはきちんと整備された街道があり、左右には広々とした草原がどこまでも続いている。
当然だが、こんなところは見たことがない。
「ここは、一体……?」
「おやおや、早速聞いちゃいます? 聞いちゃいます?」
「うわっ!?」
背後から少し弾んだような声が返ってきて、青年は思わず叫んだ。背筋がぞくりと寒くなり、驚きのあまり肩が一瞬跳ね上がる。
さっきの人の声だ。早鐘を打つ心臓を押さえながら、青年は恐る恐る振り返る。
瞬間、つぶらな黒の瞳と目が合う。青年の真後ろで、人の顔ほどしかない小さな少女が、顔に笑みを湛えながら浮いていた。
――小さくて、浮いている?
一度二度と瞬きし、さらには深く目を瞑ってから、もう一度開く。薄い茶色の着物を纏ったかむろ頭の小さな少女が、不思議そうな顔をしながらこちらを見ていた。
「……何だろう、これ」
「むぅ、これ呼ばわりはひどいですよぅ」
少女が、頬を膨らませながら不満げに言った。
これ呼ばわりは、確かにまずかったかもしれない。けれど、ここまでの不可解な出来事に、自身の理解は未だにまったく追いついていないのだ。いきなりよくわからない場所に飛ばされたかと思えば、小さ過ぎる少女に話しかけられたときた。率直な疑問が口に出ても仕方がないだろう。
こちらのそんな気持ちにも気づかず、少女はまだ不満そうだったが、急に膨れっぱなしの頬をへこませると、怪訝そうなものを顔に浮かべて小首を傾げた。
「あれ? どこかで、会ったことあります?」
いきなりの言葉に、青年は戸惑いながらも答える。
「い、いや、ないと思うけど」
「ですよねぇ」
言葉では納得したように言っているものの、少女の顔はまったくそうではなかった。青年の顔を不思議そうに見つめては、首を左右に何度も傾けている。
「気になりますけど、それはまあひとまず置いておきましょう」
コホンと一度咳払いしてから、少女が再度笑みを浮かべてきた。
「ようこそ、クロス・ワールドへ。声に答えてくれて、ありがとうございますー」
「クロス・ワールド?」
いきなりよくわからない言葉が出てきた。いやそれよりも、やはりここは自分がいた世界ではないのか。
そんな青年の疑問に答えるように、少女が勢いよく返事をしてから、大きく頷いた。
「この世に存在するありとあらゆるモノには魂が宿るんです。クロス・ワールドは、それらが具現化した世界なのです!」
「ええと、つまり……?」
「えーと、簡単に言うとですね、あなたさまの世界のモノが、人のように生きている世界ってことですねー。何もかもがって訳ではないですけど、ちょっとした道具や建物や、立派な大木とかたくさん落ちてる小石とか、とにかく色んなものが人みたいに生活しているんですよー」
「な、成程……?」
いまいちピンとはこないが、何とか頭の中でまとめる。
この世界は、確かに自分がいたところとは違う場所らしい。だが、どうやらまったくの異世界ではないようだ。青年がいる世界に存在するモノが、このクロス・ワールドでは人として存在している。それはつまり、自身の世界とこの場所が繋がっていることを意味する。
何と言うか、馬鹿げた話である。そんなことがあり得るとは思えないし、そもそも少女の話には何の信憑性もない。
信じられないことばかりが起きているが、それでもモノには魂が宿るという言葉だけは信じられる気がした。モノが魂を抱いているからこそ、姿を持って生きている。そう思えば、彼女の説明を納得できるかもしれない。
――いや、納得できないよ!
自分の意思を、瞬間的に否定する。
納得しようとしても、やはり起きていることが非現実的過ぎる。本当は夢なのではないかと、頭を抱えてしまいそうだ。
そんな青年の困惑などお構いなしに、少女がどんどん続ける。
「お話する前に、とりあえず近くの村に向かいながらにしませんかぁ? ここで立ち話ってのもなんですし」
「……村があるんだ。わかった、そうしよう」
頷くと、少女が先導するように前を飛び始めた。ただ、話の続きをするためか、大分ゆっくりだ。
青年はその後を着いて行こうとしたが、足元に裁縫箱があるのに気づいて、足を止めた。
屈みこみ、それを拾い上げる。間違いなく、青年の大事な裁縫箱だ。おそらく、一緒に飛んできてしまったのだろう。
「何をしてるんですかぁー? 早く行きましょー」
少し先に進んだ少女が振り返り、大きく手を振って呼んでくる。
裁縫箱を大事に抱えながら、青年は急いで彼女の後を追った。
「遅いですよぅ」
少女がふくれっ面で文句を言った。青年は一言、ごめんとだけ謝った。
「……そういえば、自己紹介がまだでしたねー。わたし、付喪神のツクノって言いまーす」
「付喪神……?」
「そうです!」
小首を傾げ、びしっと両の人差し指を自分に向けながら、ツクノと名乗った少女がにこりと笑みを浮かべた。
「わたしは、ある物に宿ってとっても長い年月を過ごした、付喪神なのです! ツクノツクモ? 的な感じで、どうぞよろしくお願いしますー」
「えっ、ああ、うん。よろしく……」
妙に高いテンションに圧倒されながら、青年は苦笑いしながら頷いた。
付喪神。確か、長年使われた道具に宿った妖怪だか精霊だかだっただろうか。いつだか、祖母に教えてもらったような気がする。
しかし、本当にそんなものがいるのだろうか。自分は本当は、やはり夢を見ているのではないのか。
「おやおやー? その顔は、どうやら信じてないみたいですねぇ」
こちらの気持ちを読み取ったかのように、ツクノが嘲りを含んだ声で言った。
「いいんですかぁ? わたしって、付喪神でありながら憑き物でもあるんですよ? わたしを甘く見ると、痛い目に遭いますよー? 例えば」
一度言葉を切ったツクノが、不敵な笑みを浮かべながら手を上に動かす。
「こんな風に」
一転して低くなった彼女の声が聞こえた瞬間、青年の右腕がゆっくりと動き始めた。動かそうともしていないのに、まっすぐ自分の首目掛けて手が伸びていく。
唐突のことに、青年は声を出すのも忘れて慌てた。左手で右腕を止めようとするも、左腕が言うことを聞かない。力を入れても、まるで何かに引っ張られているかのように動かないのだ。
――何なんだ、これは!?
なおも慌てる青年に、ツクノが冷たい笑みを浮かべて突き放すように言う。
「私は、モノに憑りつく憑き物。知ってます? 人だって、モノなんですよ。わたしほどの憑き物になれば、モノに憑りついて意のままに操ることだってできるし、命を止めることだってできちゃうんですよ?」
ツクノがさらに手を動かし、自身の手がさらに首へと迫る。逃げようにも、何故か足も動かない。恐怖が喉に張り付いたのか、声も出ない。
ゆっくりと迫る手を、青年は見開いた眼で見つめることしかできない。少しずつ、少しずつ距離が詰まり、やがて首へと手が届きそうになった。
その時。
「……ふふ、あはははっ! ごめんなさーい。冗談、冗談ですよー」
ツクノの高い笑い声が響き、青年の手に自由が戻った。
首に迫っていた右手を、急いで掴む。その手も、もう勝手に動こうとしていない。
一体、何があったのか。
こちらの疑問を読み取ったのか、ツクノが小さく笑いながら口を開いた。
「いくらわたしでも、人を操ることなんてできないですよー。わたしはただ、あなたの服に憑りついて、気づかれないように動かしただけ。お茶目ないたずらですよー」
ツクノがいたずらっぽく笑みながら言ったが、青年は苦笑を浮かべることさえできなかった。さっきの体験はそれだけ衝撃的なものだったし、彼女に対して少なからず恐怖を抱くには十分過ぎた。
ただ、理解はした。この少女が言っていることは、全て本当なのだと。
「ところで、あなたさまはなんて言いますの?」
唐突に尋ねられ、青年はハッとしながらも無意識のうちに名乗っていた。
「あっ、うん。僕は繋人、針生繋人って言うんだ。針と生きる、繋がる人って書くんだよ」
「繋人……。うーん、カタカナ表記の方がかっこよく感じますねぇ。この世界の名前はカタカナ表記ですし、丁度いいから現実でもそうしません、ケイトさま?」
「それだと、女性の名前っぽいんだけど……」
ケイトが困惑気味に言っても、ツクノは気にしない気にしない、と笑うばかりだ。
何を言っても聞いてくれなさそうである。ケイトは諦め、話題を変えることにした。
「……それで、何で助けを求めていたのか、聞かせてくれないかな?」
「はっ! そうでした!」
笑顔で緩んでいた顔を驚きで満たしたツクノが、次の瞬間には悲愴なものを満面に浮かべる。不謹慎だが、百面相でちょっと面白い。
「わたしがケイトさまをお呼びしたのは他でもありません。ケイトさまにはこの世界を、救ってほしいんです」
「クロス・ワールドを?」
「はい……。今、この世界は解放軍とかいう暴れ者に荒らされていて、すっごく困った状況にあるんです。今のまま放っておいたら、きっとクロス・ワールドはおしまいですよぅ」
大きな瞳にいっぱいの涙を湛えながら、ツクノが見つめてくる。女の子のそんな眼差しを向けられて少し恥ずかしくなり、ケイトは思わず目を逸らした。
「ど、どうしてその解放軍は、クロス・ワールドを荒らしているの?」
何とか言葉を返したが、照れてしまったからか、声は妙に上擦っていた。
「それはですね、あの人たち、事もあろうか世界の繋がりである魔法の撚糸を探して、断ち切ろうとしているんです。そのために、色々と手荒なことをしてるんです……」
「世界の繋がり? 魔法の撚糸?」
またよくわからない言葉が出てきた。この世界が繋がっているだろうことは何となく理解しているが、それに関係することなのだろうか。
ケイトの疑問を表情から読み取ったのか、泣きそうな顔をしていたツクノが表情を改めて一度咳払いした。
「魔法の撚糸はですね、このクロス・ワールドとケイトさまの世界を繋ぐものなんです。これによって、なんと互いの世界にあるモノが力を干渉し合えるんです。……まあ、干渉し過ぎないために、ほんの些細な程度に抑えられてますけどね」
「力を干渉し合うって、どういうこと?」
「んーとですね、わかりやすい例だと、使い慣れた道具が手に馴染むとかよく言いますよね? あれって、こちらの世界で道具の精霊がうまく力を伝えてくれているからなんですよ。長く使って親しんでくれた感謝を込めて、物が応えるんです。そして、人が使い続けてくれることで、こちらのモノは成長するんです」
「成程ね。じゃあ、糸が切れたら」
「繋がりが失われてしまって、人とモノが通じ合うこともなくなっちゃいます。そればかりか、こちらの世界が衰退して、なくなっちゃうかも……」
「なくなる?」
思いがけない言葉にやや驚き交じりに言うと、ツクノが力なく頷いた。
「クロス・ワールドは、モノの世界。大昔ならばともかく、今の世では、人の作り出した物によって多くが形成されているんです。それなのに、繋がりがなくなっちゃったら、これ以上何かが生み出されることはありません。遠くないうちに、この世界は荒廃しちゃいます。それに」
何かを言いかけたツクノが、少し考える素振りをしてから口を閉ざした。
束の間、沈黙が流れる。ツクノは、一向に口を開かない。
「どうしたの?」
気になって問いかけたが、彼女はそっぽを向いて「何でもありません。気にしないでください」としか答えてくれなかった。そう言われると逆に気になり、まじまじとツクノの顔を覗き込んだが、彼女は目を逸らして視線を合わせようとしない。
「とにかく!」
話を逸らすように、ツクノが大きな声で言った。
「ケイトさま、解放軍を打ち破って、世界を繋ぐ撚糸を守ってください! それが、この世界を救うことに繋がるんです!」
勢いよく頭を下げて言ったツクノを、ケイトはただ黙って見つめる。
頭の中では、今の状況が巡り廻る。
突然別の世界に飛ばされたと思ったら、その世界を救ってほしいときた。敵は軍みたいで、まず間違いなく痛い思いはするだろうし、大変な目には嫌というほど遭うかもしれない。
それでも。
「……拒否権は、ないんだろうなぁ」
苦笑交じりにケイトが言うと、ツクノが困ったような顔をしながら顔を上げてきた。
「え、ええと、はい……。憑りついたモノに対して、願いを叶えてくれるまでこの世界に縛り付けるというのが、わたしの憑き物としての能力なんです」
「あはは、随分とはた迷惑な能力だね」
少しおかしくて笑いながら言うと、ツクノがきょとんとしながらこちらを見つめてきた。
その視線を、ケイトはまっすぐ見返す。顔も心も、もう引き締めた。
「大丈夫、やるよ。任せて、とは言えないけど、選ばれたからには最善を尽くすから」
「あ、ありがとうございますぅ!」
一瞬で顔を喜びに満たして、ツクノが可愛らしい笑顔を見せる。
その笑顔に小さく笑みを返してから、ケイトは口を開く。
「それでさ、僕はどうすればいいのかな? もしかして、最初の時の適性っていうのが関係してる?」
「そ、そうでした!」
声を上げたツクノが、笑顔をすぐさま驚きに変えた。この子のころころ変わる表情は、やっぱり見ていて面白い。
「ケイトさまには、この世界で戦っていくための適性があるんです。……あっ」
言いかけたツクノが、遠くに目をやりながら気になるところで言葉を切った。
「村が見えてきましたよ!」
ツクノの視線の先を追うと、確かに村があった。遠目ながらも、人々が往来しているのが見える。
「続きは、村で落ち着いてからにしましょー」
「うわっ!?」
ツクノがこちらの袖を引っ張りながら勢いよく飛んでいく。
あまりの勢いに足がもつれそうになるも、ケイトは懸命に走りながら彼女に着いていった。