0-1 呼び声
――誰か、助けてください。
そんな声が聞こえた気がして、青年は作業の手を止めた。
何となく気にかかって顔だけを動かし、ゆっくりと辺りを見渡す。こじんまりとしたこの四畳半の部屋には、当然だが青年以外には誰もいない。聞き間違いのもとになりそうなテレビやラジオの類は電源が切れているし、もっと言ってしまえば、青年が借りているアパートのご近所さんは、殆どの人が日中は外出中だ。話し声はおろか、物音さえ殆ど立たない。
青年だって、大学が長期の休みに入ってなければ、この時間帯は留守にしている。今は春休み真っ只中だから、日中から家にいるのだ。
気のせいだと思い、青年は手元に目を移しては、作業を再開した。どこかに引っかけて少し破けてしまった服の袖を、丁寧に縫っていく。裁縫は子どもの頃に祖母から仕込まれていたため、大の得意だ。
どんなものもまだ使えそうならば、直してでもとことん使う。それが子どもの頃からずっと実践してきたことで、二十歳になった今もそれは変わらない。
いや、正しくは、実践させられたと言うべきだろうか。
――物には魂が宿る。だから、どんなものも大事にしなければいけないよ。
祖母が口が酸っぱくなるほどに言った言葉だ。それはもう耳にたこができるほど聞かされ、何だろうが粗末に扱えば拳骨制裁が飛んでくるくらいに厳しく仕込まれた。
そんな祖母の厳しい教えもあって、青年の物への思い入れはとても強い。できる限り端材のようなごみは出さないように努め、どんな道具も本当に使えなくなるまで使い込んだし、手入れは頻繁に行った。
青年がちゃんと物を大事にしていると、祖母はいつも眩しい笑顔を見せてくれた。その笑顔が、青年は何よりも大好きだった。
「……おばあちゃんか。懐かしいなぁ」
妙に感慨深くなって、手元の裁縫道具を見ながら青年は言った。
この裁縫道具は、子どもの頃に祖母からもらったものだ。おばあちゃんみたいに裁縫が上手になりたいと言ったら、嬉しそうな顔をして裁縫道具を一式くれたのである。それだけでなく、裁縫に関することはたくさん教えてくれた。
子ども相手でも、教え方に一切手加減なしのとても厳しい人だったが、それでも同じくらい優しい人だった。わからないことを聞けば丁寧に教えてくれたし、できなかったことはできるようになるまで根気よく付き合ってくれた。
その祖母も、亡くなってからもう二年が経つ。病気やケガとは一切無縁の人だったのに、ある日突然眠るように死んでしまった。
原因がわからない、謎の死だった。老衰でなければ、実はどこか病だったというわけでもない。まさしく健康そのものだったのに、それでもいなくなってしまった。
祖母との別れはとても悲しくて辛かったが、青年を立ち直らせてくれたのが、今では形見となった裁縫道具だ。この道具にはたくさんの思い出と、祖母の思いが詰まっている。そう思うと、次第に悲しみは薄らいでいった。
「……っと、いけないいけない。これじゃ、いつまで経っても終わらないな」
止まりっ放しの手を見て、青年は思わず苦笑いした。ちょっぴり寂しい気持ちを胸の奥底へと押し込め、再び手を動かそうとする。
その時だった。
「誰か、聞こえていませんかぁ? 聞こえていたら、返事をしてくださーい……!」
助けを求めるような、誰かの声が聞こえたのは。それも、すぐ後ろではっきりと。
「だ、誰かいるのか!?」
叫ぶように言いながら振り返り、辺りを見渡す。しかし、誰もいない。目に映る限りでは、誰も。
しかし、何か変な感じがした。さっきまでは過ごしやすかった部屋の中が、急にひんやりと冷たくなった。それだけじゃない。近くで、何かが音もなく動いている気がする。
その動きが、ピタリと止まった。目に見えてないのに、青年はその何かがこっちを見たような気がした。
「声、聞こえてるんですか!? 聞こえてるんですね! 良かった、やっと見つけましたぁー!」
誰かの声が聞こえたかと思ったら、いきなり体が後ろに吹っ飛ばされた。
いや、吹っ飛ばされたのとはちょっと違うかもしれない。何か強い力に引っ張られた。そんな感じだ。
体が宙に浮き、窓へと引っ張られる。いや、窓とはちょっと違うかもしれない。行き先は確かに窓なのだが、そこは空間が陽炎のように揺らいでいた。揺らいだ空間越しの窓の先には、見慣れた街並みの風景はなく、見たことがない場所が映っていた。
――何が起きているんだ!?
声に出そうとしたけれど、何故か言葉にはならなかった。訳がわからず、それでも何とかもがこうとしたが、凄まじい勢いで引っ張ってくるものだから、青年は何の抵抗もできない。
慌てふためく青年をよそに、謎の声は勝手な言葉を続ける。
「お願いします! あなたの適性を見込んで、どうか力を貸してください!」
その言葉が聞こえたのと同時に、引っ張る力がさらに強くなり、勢いが増した。揺らいだ空間が一気に近づいてきて、そして。
「う、うわぁぁぁッ!」
青年は空間の中へと、思い切り投げ飛ばされたように頭から突っ込んでいった。