始まりは雨の夜のミネラルウォーター
光を浴びれば虹を宿してキラキラ、甘い吐息を吹き込んだしゃぼん玉が浮かんで飛んで弾けて消える。細かな粒子が散ってシュワリと広がる大気の中に。
パッと弾けて消える。見えなくなる。シャボンの液体も吐息もその辺りに漂っている筈なのに。
風がさわわと吹く。混ざり合うモノを天へと連れて行く様に。
夜の雨、トトトト、ぱたぽた、トトトト。
闇夜のアスファルトに水が落ちる。災に見舞われ世を去った、佳人を惜しむ様に続く梅雨の長雨。
外灯の白い光に照られ、透明な筋を引いている。建物の正面玄関の大扉は、きっちりと閉められているにも関わらず、外にまで仄かに香る線香の香り。壁にもタイル張りの床にも、それが染み付いているからだろうか。
通夜式を終え夜を明かす伽の間で、灯され紫煙を上げているからだろうか。翌日の告別式も使われるからだろうか。
葬儀の日に雨が降ると涙雨という。故人を惜しんで、空も涙を流していると言われている、告別式でも良く使われるその言葉。
君影 桂は、親友の通夜並びに告別式に出る為、店を臨時休業にし、ハンドルを握り彼が暮らしていた街に来ていた。彼に近親者が居ない為、勤め先のオーナー夫婦が心ばかりの葬儀を取り計らってくれていた斎場に彼はいる。
伽の間では逝った友の夏樹が勤めていた、店のホールスタッフとオーナ夫婦、先輩シェフ達が彼の早すぎる死を惜しんで、思い出話で盛り上がっている。知り合ってから、客として通っていた君影だが彼らとは親しくはない。
部屋に用意されている飲み物に、好みの物が無かった事を幸いに、そろりと部屋を出た。時間潰しがてら、すぐ近くのコンビニへと買い出しに行くことにする。
外は雨が透明な筋を引き空から落ちている。パンッと傘を開いてふと気がついた。友の婚約者の彼女が、軒下のベンチに独り座っている事に。
谷川 夢は、軒下に置かれているベンチに座っていた。伽の間の線香の匂いに胸をつかれたからだ。白いハンカチを口に当て、こみ上げるモノを堪えている。
「どうぞ」
冷えたミネラルウォーターのペットボトルをズイっと、差し出された。驚き顔を上げると、そこには愛しい人の親友の姿。
取り敢えずありがとうございます、と受け取る夢。悪阻の為に、味があるもの香りがあるもの物が、苦手になっている彼女。わざわざ自分のために、水を?
立ちのままで同じ物で喉を潤す男に、気が利く人もいる。と思ったのだが。
「お茶かジュースの方が良かったですかね?僕はペットボトルは、ミネラルウォーターしか飲まないから」
さらりと答えると、キュッとキャップを締めた君影。はぁ、ありがとうございます。そうだった、この人変わった人だった、逝った彼が話していた事を思い出しつつ、ひと口含んだ夢。
冷えた無味無臭の天然水は、極々微かな甘みが広がり、彼女の喉にすとんと入る。食道を通り抜けながら冷たさが下りる。胸の詰まりが幾分和らぐ。
夜の雨、トトトト、ぱたぽた、トトトト。
闇夜のアスファルトに水が落ちる。
視線を彷徨わせながら、側に立つ君影に問うかのように呟いた。
「初恋は実らないと聞くけど、それは添い遂げられないのも入ってるのかしら」
「初恋、か。君はそうだったの?あいつの女癖が悪いのは、知っていたのか?それなのに?初恋?」
「……、ええ、初めて好きになったの。女遊びの事も知っていたわ、話してくれたもの。みんな話して、それでも僕を愛してくれる?と聞いてくれたの、私は今からだから、昔は関係ないって言ったの」
不躾な問返しに、その時を思い出す様に答えると、彼女は大切な物が宿っている、己の腹に両手を当てる。
「君は優しい人だね。それとも人を好きになるとそうなるのか?過ちを流す様に許せるのだろうか」
「そうね、何故か許せたわ、なぜだが、たくさんの問題を吹き飛ばす程、好きが大きかったのね、ずっと側に居て、彼を大切にしたいと願ったの、叶わなかったけど」
夜の雨、トトトト、ぱたぽた、トトトト。
闇夜のアスファルトに水が落ちる。
敷地の周りに植えられてる樹木の葉が下り、ポトポトと滴り落とす水。
ずっと側に居て大切にしたい。その言葉が君影の胸を打つ。どうしてだかわからない、なぜだが分からないが、気がつけばスルリと言葉が出た。小さく肩を震わせている夢に、今宵の時、今の場所に最も相応しくない言葉を贈っていた。
「結婚して下さい、夢さん」
「は?な、何を?」
突然の事に戸惑う彼女。
「君は夏樹の聖母様だから。僕に光と癒やしを与えてくれる、唯一無二の存在になる。それだけ」
淡々と喋る亡き婚約者の親友に、夢はあ然とした。それだけって、びっくりしたままに、夢はつけつけと君影に話す。
「馬鹿な事を言わないで。君影さんは彼の親友だけど、私達は見知らぬ他人なのよ、私達は籍を入れてなかったけど、お腹に赤ちゃんだっているの!」
ふざけないで、夢はそそけ立った青白い頬に、朱を上らせる。酷く傷付いた気がした。穢された気がした。
「知ってるよ。夏樹が報告に来てたもの。そして夢さんとは、今は知り合い。僕は本気だから、冗談ではない。無意味な事はしない主義。返事は全て終わってからでいい、明日聞く」
君影は、言いたい事を終えると、混乱をしている親友の婚約者をその場に残して、蛍光灯の灯りがともる建物の中へと戻って行った。
夜の雨、トトトト、ぱたぽた、トトトト。
闇夜のアスファルトに水が落ちる。
空は黒の重い綿布団の中身の綿様に、みっしり詰まっている黒。
風も吹かぬ雨の夜。夢は呆然とし座っている。側に置いたペットボトル、つぶつぶとした丸い水滴が浮いている。
トトトト、ぱたぽた、トトトト。
アスファルトに水たまり。浮かんでは消える波紋を、白いライトの光が照らす夜。
「かっちゃんはね、すこうし変わってるんだよ、でも良い人だよ」
夢の心に夏樹の声が聴こえた。