苺のケーキとブロッコリーのミモザのサラダ
夏樹の休みの日に藤棚の下で二人で食べるお弁当、霜月の終わりから数回。誰に見られたのか、あっという間に会社で噂になった夢。やっかみのヒソヒソ声が彼女に取り憑く。
彼を目当てにレストランに、通っていた同僚達が遠巻きにヒソヒソやっている。孤立無援の立場で凹ませようとしている様子なのだが、生憎彼女にその手は通じない。
家族と共に暮らしていた場所で、寂しさで破れそうになっていた幼い心を、パンパンに力を込めて保っていた彼女。大人になった今、愛する人を見つけた今、外野の声は刺さる事無い。
恋していた。好きだと言われた。取り巻く世界が甘くそしてキラキラと見える夢。毎日が楽しいと、遠い昔以来思って過ごしていた。そのうち……
「案外、普通のひとだったのね」
そういう声がちらほら聴こえ出したのは、クリスマスが近づいている頃。誰かの物になったイケメンより、手近なフツメンでも手が届く男に、彼女達の目が向かう季節が来たから。
仕事柄クリスマスイヴは忙しいから遅くなるけど、会えないかな?と聞かれた夢。
遅くなる。そういう展開になるのが、ちらりとみえていたけど、断る選択はできなかった。
鍵を渡された夢。嫌ならまだ早いとか、次の日仕事だからと、断る事は出来たのだけどしなかった彼女。ドキドキとしながらイブの夕刻、仕事を終えると一度家に帰り用意を整え、スーパーへと向かった。
夏樹に食べさせる物は毎回考え込んでしまう。レストランの厨房で働く彼。お料理アプリのパーティーメニューは作っても良いのかしら、それとも違う物?誰かの為に作る事にこれほど考えるのかと、少しだけ可笑しくなる。
スポンジケーキは家で焼いたのを潰れぬ様にして、鞄に入れてある。昔……イヴには母親が焼いていたソレ。好きだったソレ。キライになったソレ。
思い出す。幸せ色のクリスマスの食卓。お金が無かった母親、色々工夫して少しでも華やかになる様、食卓を整えてくれた遠い日の幸せ色した思い出。
ブロッコリーをモコモコとお皿に飾り、ティースプーンでマヨネーズを、一房づつ塗っていく。ゆで卵を白身と黄身に分け、細かくフォークで潰して味を整えマヨネーズの上に、白身、黄身のホロホロとしたそれを載せる。可愛かったな、どうしてかなと気持ちに気づく。
「……、サラダはソレを作ってみようかな、い、いいよね」
冷蔵庫の中、適当に使って。と言われている夢。卵ぐらいはあるだろうと思いながら、ブロッコリーを手に取った。
少しだけ贅沢をして、ホントは赤い苺を選びたい。でもそれは高いから、缶詰めのみかんとパインのケーキだった、母娘二人きりの聖夜。チキンを二人で分けた。遠い記憶に残る色と味とぬくもり。
「苺にしよう」
新しい父親と共に過ごした日々。クリスマスの食卓には苺のケーキ。妹が産まれたら、妹のクリスマスのケーキ。嫌いなソレ。潰した記憶。近い焼け付く鮮明なる記憶。
苺の前で軽く頭を振りイヤな記憶を、奥深く落とし込め封じる夢。
……思い出したくも無い。父親の一緒に食べないか、気を使う優しい声。慕ってくる妹。ひねくれた自分。優しい気持ちになる聖なる夜に、イヤなイヤな私。素直に従ってたら、母親はどういう顔をしたのだろう。
夢は心の中に『怖い』を埋め込んでいる。それは……
母親と似てるかもしれない。という怖い。
フィルムがふわりとかけられている、つやつやとした赤い苺のパック手に取る。大丈夫大丈夫、私は私。好きな人と今日過ごすのだから。きっと誰よりも優しい人間になれるの。だからサラダはあれにしたのよ。言い訳をする彼女。
シンデレラが靴を片方落とした時刻、遅くなったと風に頬を染めて帰ってきた夏樹。お帰りなさいと照れくさく彼を迎えた夢。
「明るい部屋に戻るの……、なんだろう。とても嬉しい」
仲良く過ごしたイブはほんの数分。
仲良く過ごすクリスマスはこれから。
翌朝、彼の家から職場に向かう私。
どうにでもなれと心を決め、夢は時に全てをまかせた。
目が覚めた?と聞く夏樹。こういう場合どう返事をしていいのか分からず、こくんとひとつ頷く夢。取り敢えず服を着たかったのだか、自分から布団の外に出るのも気恥ずかしく、目を閉じてじっとそのままでいると、共に過ごした彼が慣れた様子で出る。
まだ明けきらぬのか、部屋は薄暗い。朝と夜が混じり合うとろりとした時。
当然よね。素敵な人だもん。やっぱりねと、ため息と共に何処か寂しく思いつつ、そろりと辺りを伺い身なりを整える。
どうしてこうなったのかな。と男の部屋で着替えをしながら思う。こんな事、いいのかな。大丈夫なのかな。不安が頭をもたげる。
……、かわいい、好き、大好き。愛してると何度も言われた。
「嘘。夏樹は綺麗。とっても素敵、沢山、素敵な彼女がいたんでしょ、私なんか可愛く無いし、綺麗じゃないもん……」
「ほんとだよ。夢さんが好き。一番好き」
何処が?と聞けば、お弁当とご飯。一緒に食べて美味しい、そう思ったのは、友達のかっちゃん以外は、夢さんだけだったんだ。と真面目な顔をして応えた夏樹。
「なにそれ、ふざけてるの?」
綺麗な顔を間近にし、どぎまぎしながらやっぱり私とは遊びかな、と思った夢。ところが夏樹はその答えが不服だったのか、信じてよと強く言う。
「ふざけてない、うん、嘘は言わない。たくさん女の子知ってるよ、でもね、ホント。夏場は何かどうでも良くなってて……、休暇先でとんでもない事にやってた。かっちゃんにもヒドイ男だなとか言われちゃって、でもね、今は誰もいないよ。夢さんが好き、大好きだから、ね、信じてよ」
熱が籠もる視線で見つめられる。信じてよと言われれば、うん、と答えてしまう。夏樹にトロトロにされて、捕らえられてしまったのかしらと、深夜に抱きしめられながら、夢はそう思った。
「夢さん」
語尾が半音上がるイントネーションで呼ばれた。
「コーヒー入れたから飲もう、お仕事だもんねお互い。それと食べそこねたクリスマスケーキ、夢さんが作ってくれたやつ、苺のケーキ。美味しそうだよ。メリークリスマス」
優しい朝、仲良く言い合う言葉。
……、メリークリスマスなんて何時から言ってないのかしら。チリリと音立て思い出す暗い過去。
部屋に行きなさい。母親に事ある毎に言われていた彼女、薄ら寒い白くて広いマンションを思い出す。リビングにはクリスマスツリー。赤と緑と白いイルミネーションを、ペカペカさせていた。
ケーキを焼いた香りが甘くキッチンを満たしていた。年離れた妹はサンタさんいつ来るの?と甘える様に母親に絡みついていた。父親がソファーで座ってる。
そこに前夫の娘である、夢の居場所は無かった。父親はそうは思ってなかったが、前夫によく似ていた娘に対し、思うことがあるのか、過去の愛を打ち消したいのか、母親は何故か作ろうとはしなかった。
「夢さん」
夏樹が夢を呼ぶ。はっと過去から戻る。
うん、服を着替え終え、頬薄紅色に染めながら、ありがとうと答える夢は、何処にも無かった居場所を見つけた気がした。
信じてみようかな。クリスマスの優しい魔法にかかるのもいいかもしれない。それまで硬い殻にねじ込んでいた夢の持つ何かが、パチリと目を開いた朝の事。