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家路

 


 ーーーーその日は夕方に通り雨があった為、小さな水溜まりが数か所見られた。


 男は先の尖った茶色いリーガル靴を濡らさぬように、水溜まりを避けて歩く。街頭に照らされた水溜まりは、きらきらと静かに光っていた。





 男は別に急いでいた訳でもないが、周りがそうさせるのか、帰路に就く労働者と共に(せわ)しなくやや小走り交じりに最寄りの駅へと向かっていた。帰宅ラッシュの波に流され電車へ飛び乗ると、既に車内は満員のようで、扉付近へ押し潰された。そこでも鞄や靴、背広を守りつつ、痴漢に間違われないように空いている右手は手すりの上の方を掴んだ。







 自宅の最寄り駅で下車すると、さすがに急ぐ労働者は存在せず、ゆったりとした闇夜が漂っていた。特別、間を気にするような予定や家に待つ家族が居るわけでもない男だったが、袖をずらしてクロノグラフのついたシルバーの時計を見ると、時計は21時を目前としていた。








 男は、そういえば夕飯はまだだったな、なんて分かり切ったことを思い出す。近くのファミレスで済ませるのも無粋だし、コンビニで何か適当に買って自宅で食べるのもどこか切ない。どうしようかなんて考え事をしながら一人家路を歩いていると、道端に黒板調の立て看板がポツンと置いてあり、黄色のチョークで「おひとりでもどうぞ」と書かれていた。店の名前だろう、ピンクのチョークで「Boatーボートー」と一番大きな文字で書かれていた。一番下には、「季節の変わり目ですね。体調には気を付けて下さい。」と店とは関係のない言葉が白のチョークで書かれていた。その優しい言葉たちに誘われて、重い木製の扉を開くのであった。








 男は扉を開けた時、ハッとした。自分は腹を空かせている。ここはBARかもしれない。ちょっとしたおつまみ程度しかなかったらどうするのか。こんな空きっ腹で酒なんて飲んだら、悪酔い確定だ。席に座って、ごはん系がないと知り、すいませんでしたと(きびす)を返すのは(いささ)か気が引ける。我に返りすぐに閉めようとしたが、チャリリーンと鈴の音が鳴ってしまい、若い女の声で「あっ!いらっしゃいらっしゃませ!」と元気よく出迎えられたので、そっと中へ入るしかなかった。








 男はカウンターの中央に通されてしまった。男としては初めての店なので、端の方が良かったのだが、女が「初めてですよね。どうぞ、真ん中へ。その方が喋り易いですし、注文も頼み易いでしょうから。」と気を遣ってくれたので、断り切れなかった。





 ーーーー出迎えてくれた若い女は、「はい、メニューです。私が手書きしてるので、読めなかったら、気軽に質問して下さい。あと、メニューになくても、できる限り作りますよ。まぁ、リキュールや食材があればですけどねー。」と意気揚々と喋りながら男へ温かいおしぼりを広げながら渡した。




 男は「はぁ、ありがとうございます。」と畏まった。メニューを開いた瞬間、常連客であろう、カウンターの奥に座っていた白髪交じりの60代くらいの男が「ここは何でも作ってくれるよ。元々、芽衣(めい)ちゃんは、BARや居酒屋、小料理屋、回らない寿司屋で働いてたからね。」と自慢げに話しかけてきた。




 芽衣ちゃんと呼ばれた若い女は「といっても、寿司は修行してないですよー、山本さん。着物着て、料理は運んだりする接客業ですよ。」と、白髪交じりの60代くらいの男山本へ苦笑して見せた。



 山本は芽衣へ「でも、料理を取りに行く時に手さばきやら見てたんだろ。それに、寿司屋で(まかな)い担当する女中は居ねえよ。」と(おだ)てた。しかし、芽衣は笑いながら「はい、はい。」と山本をあしらうのであった。





 男はちゃんとごはんものがあることに安堵(あんど)していた。再びメニューに目を落とすと、芽衣が「さてさて、まずはお飲み物を聞きましょうか」と間髪入れずに注文を聞いてきた。慌てた男はメニューも読まずに「とりあえずビールで」と定番のフレーズを口にした。すると芽衣が、「うちは癖の強いお客様が多いからビールも種類が普通の店よりある方なんです。注文をお聞きするのは、早すぎましたね。私、せっかちなもので、すいません。ゆっくりでいいですから。」と申し訳なさそうに苦笑した。男は芽衣に待たせないと、飲み物メニューのビール欄を速読し、九州宮崎のクラフトビールを選んだ。





 男は更にメニューに目を通していた。酒も料理も種類が豊富で、<めいオリジナル>なんていうメニューも何点かあった。小さい声で「失礼します」と芽衣の声が聞こえ、男の前へ箸置きと箸、コルクのコースターと中グラスに入ったクラフトビールを丁寧に置いた。ビールの泡の量は丁度良い感じで飲む前から喉ごしが約束されているように感じられた。お通しには塩茹でピーナッツ、小松菜とお揚げの和風炒め物、南瓜の煮物の三種盛りを手作り感のある皿に出してきて、「アレルギーとかなったですよね?」と静かに聞いて来たので、男も静かに「ありませんよ。」と優しく答えた。加えて、男は「だし巻き卵とムール貝の白ワイン蒸し頂けますか。」と食事を注文するのだった。






 男は酒とお通しを楽しみながら、店内を見渡した。入ってきた扉はぬくもりを感じる木製の分厚い扉で開ける時はとても重みを感じたが、それすら愛おしく感じる程に年季が入っていそうだった。取っ手は金色で皆が握るところは塗装が剥がれており、小粋だ。天井はそこまで高さがないが、塗装が白いおかげか本来よりも少し高く見える。照明は、カバーがシルバーメッキの輪にガラスやビーズが(くく)られている球体で、ライトは橙色の電球なので、夕焼けのような温かさの中にキラキラと光るガラスやビーズが特徴的だ。







 男はダウンブラウン色のコの字型木製カウンターを見渡した。席は16席程か、両端に4席ずつ、中央に8席あった。テーブル席はなく、カウンターのみのようだが、店の片隅に折り畳み式のテーブルと椅子が立て掛けてあった。席には出入り口から一番遠い奥に座る山本と呼ばれている白髪交じりの60代くらいの男、その山本の横を一つ席を飛ばして座る30代くらいのサラリーマンとOL。中央には奥から順に20代の学生らしき二人組、一つ席を飛ばして男、席を二つ飛ばして40から50代くらいの酔ったおじさん二人組。入り口手前のカウンターには20代の若い女三人組が座っていた。よく見れば、小さな店なのに繁盛しているではないか。各々に話し、酒や料理を楽しんでいる。一人で来ているのは、山本さんと呼ばれる男と私くらいではないかと男はハッとした。しかし、何故か寂しさや切なさはそこには無かった。







 「どうぞ。」と目の前にだし巻き卵とムール貝の白ワイン蒸しが出てきたのは、男が三種盛りを食べ終わろうとした時だった。芽衣は男へ「そういえば、お名前聞いてなかったですね。私、ここを切り盛りしてる芽衣って言います。宜しくお願いします。」と笑顔で元気よく挨拶した。「宜しくお願いします、石田と言います。」と少し戸惑いながらも、男も挨拶した。「あっ!敬語とか丁寧語とかいらないですよ。ありのままで結構です。だって私、石田さんからすれば小娘ですし、年下に敬語使うの疲れませんか?働いている人達はただでさえ、仕事中に敬語使うんですから、仕事終わった時くらい素でいましょうよ。だって、疲れるじゃないですか。私はこの店を家のように(くつろ)げる場所にしたいんです!なのでここでは、敬語御法度ですよ。」と芽衣は熱く語った。男はただ頷くしかなかった。















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