固執
目の前を馬が通り過ぎた。黒。馬の中では一番上の階級。それが私を見て礼をする。
「喜多方殿。般若である貴方に相談もなく鬼頭少年に課題を出した件、申し訳ありません」
私は煙草に火をつけた。般若の面が邪魔で吸えん!
「構わん。マスターには私から伝えておこう」
茶、白、灰、黒の順で馬は昇進する。馬は次に般若に。般若も茶、白、灰、黒と昇進。マスターにあえるのは黒の般若のみ。そして私は黒の般若だ。
が、それが何の誇りになるだろう。こんな人殺しを楽しんで。
「鬼頭少年については報告を聞く限りマスターの求める人物像に一致する。とりあえず君たちは持ち場に戻りなさい」
「は!」
私は少し面をずらして煙草をくわえた。
一、悪いのは弱者でない。憎むべきは強者より仕返しをしないで弱者に留まろうとする自身だ。
一、個々の反撃の刃は弱い。が力を合わせることは馴れ合うことと違う。互いを思いやり、しかし時に本懐のためならば友をも捨てる非情を併せ持て。
一、見果てぬ夢と諦めるな。理屈を追うな。信じたものを本気で追う強さをもて。結果も奇跡も自分で喰らい付いてとりに行け。
ため息がもれる。こうして反芻してみれば立派な目標ではないか。何かに成功してきた事業者のように。が。これが殺人のスローガンなら大義名分か。
いや。他の企業も警察組織も国も、それぞれの正義は正義か?
手元に渡された端末を見る。一日目から三日目までの「キトウコウジ」が映っている。カメラの配置ゆえか時々途切れているものの、おおよそ彼女の行動が記録されている。彼女なら、確かに自力で奇跡を起こして彼になれるとさえ思わせる。そうではなく。彼はもう彼なんだ。マスターが気に入るのは間違いないだろう。聞いた話、彼は自衛官になりたかったらしい。とすれば。他の人間と違うなどというくだらない理由で惜しい男を逃したものだ。
今、私に出来るのは彼が殺人犯にならないことを祈るだけだ。今朝からの様子はモニタールームに行けばわかるのだが、どうにも気が滅入る。
他にも。例えば私が急遽西野のかわりに迎えに行くことになった少年は無事だろうか。確か、南淵といったか。半そでだったが。凍えているだろう。もしくは、もう……。
私はもう一つため息をついた。
「あ、パイセン。ここ禁煙すっよ」
「ああ、西野。腹はもういいのか」
「ちょ、レディにそれ聞く? 別にアレの日じゃないから」
「そこまでは聞いていない」
西野は茶の般若。私が彼女の指導係り。私は西野に背を向けた。
「だから禁煙」
「そこの灰皿までだ。いいだろう」
西野は小さく舌打ちをしたようだった。私は煙草を潰す。
「アイコスに変えたらどうっすか」
「おれの勝手だ」
「パイセン、ウチと話すときだけおれって言いますよね。あ、そうそう。情報部から。なんか運営メールに返信してきたのがいたらしいっす」
「死ねとか殺すとかの類かね」
「それが。交渉したいからその気があれば返信をよこせと」
「わかった。鬼頭少年の件と共に伝えておく。誰からだ」
「南淵。南淵健二っす」
私は正直なところでは安堵した。無意識に煙草を出そうとしたら西野に足を踏まれた。
「西野。お前は何故、般若になった」
「別に。何でもいいっしょ。パイセンこそなんでっすか」
「知らん」
私は歩き始めた。私の連れてきたエサたちは命を冒涜したゲームに身を投じ、あるいはもう氷付けにされ我々のいる管理塔の地下に。
マスターのいる部屋。私はIDカードをかざした。鈍い音が私に承認を伝える。
殺風景すぎる部屋の中央に座す男。車椅子に乗り腹に管が入った身体をした。
彼……こいつがマスター。このいかれた遊戯の主催者ではある。そして児童虐待・育児放棄の被害者……。
マスターは私を見て、口許だけで笑った。私は身体を固くしたのを気取られぬよう静かに歩を進める。障害で動けないようでいて、なかなかどうして油断のならない男だ。
「喜多方、だね。なんか面白いことはあったかい」
私は手短に鬼頭少年と南淵少年のことを伝えた。
「ふうん。面白いね。特に鬼頭君? 気に入ったよ。歓迎しよう。南淵君は、そうだなあ。まだ情報が足りないって言うか。うん、ゲームが終わって生きてたら、生きてたら話を聞いてあげようか」
目の前のこいつが、娘を殺した。こいつのせいで……。私は拳を握り締めそうになるのを抑えた。固くなる頬を緩めようとした。まだ、黒般若になったばかり。この組織の細部がわかっているわけではない。
殺し損ねては意味がない。第二のマスターが生まれても意味がない。私が死んでもいいとは言えない。私には、せめて、唯一父親として仇を討ったことを娘の墓に報告する義務がある。
私は一礼し、踵を返した。油断のない視線が背にまとわりついている気がした。そこに
「報告します」
別の、黒般若。
「鬼頭少年が課題を達成しました」
「ん、いいねえ。迎えに行って」
「は。その前に一つ。鬼頭少年ですが。確かに課題は達成しました。しかし一方で彼は狩手から少女を一人助けました」
私は思わず振り返った。頭が冷えた。鬼頭少年は、耐えられなかった。待てなかった。私もまたせいでは事を……。
「へえ」
マスターの声が冷えた。まずい。
「彼さ、女の人恨んでたんじゃなかった? なに? 偽善を捨てられない? 覚悟もないって? 甘ったるいね? いい? 僕らみたいな『世間的弱者』には復讐する権利があるんだ。妥協しちゃだめだよねえ? あ、何も産まないなら妥協でさえないや。気が変わった」
まさか。
「彼、始末してきて。好きにしていいし」
黒般若は去った。私も、目をつけられる前に去った。
命を、何だと思ってるんだ。
娘もこんなふうにもみ消されたのか。
私は電話コーナーに向かった。ここだけが唯一外部との連絡が出来る場所。録音されている。私は消されるだろう。が。私には警察に知り合いがいる。可愛がっていた、後輩がいる。殺されるまでの間、大場に知りえること全てを伝えよう。それならば少なくともこの孤島から体の不自由なマスターは逃げられない。
が。結局私は受話器を置いた。拳を壁に叩きつけた。やはりマスターはこの手で殺さなければ腹の虫が治まらん。
――彼、始末してきて。
違う。私のせいではない。私はマスターを確実に殺す。そのためには彼らは仕方がない犠牲なのだ。