秋の終わり
「功太、最近元気なくない? あんま喋らないし」
午後一番の講義が終わると、同じゼミの栗原依乃里が話しかけてきた。明るい茶色のショートボブで、目が大きい。彼女の声は細いが高く、特に笑い声は遠くにいてもすぐわかる。
功太は資料をしまいながら「そうかな」と笑った。
「いつも通りだよ」
「そう? それなら良いけど。このあと沙也加とカフェに行くんだけど、よかったら一緒に行く?」
「どこ? ここら辺?」
依乃里は首を横に振り、スマホの画面に指を滑らせた。「ずっと気になってたんだよねぇ。電車に乗らなきゃなんだけど……」
画面に表示された地図をよく見ると、カフェの最寄り駅が功太の使う駅と同じだった。
「なんだ、俺はちょうど帰り道だよ」
「やっぱり。前にこの辺りだって言ってたから、もしかしたら知ってるかと思って」
「この辺はあまり行かないけど、道ならわかる」
その後、沙也加と合流して三人で電車に乗った。午後の日差しは既にどこか寂しく、秋の深まりを感じさせた。
カフェに着くまで依乃里は喋りっぱなしだった。この前行ったレストランの話、最近はまっている音楽の話、ドラマの話、映画の話、よくもまぁ途切れずに続くものだと功太は感心した。
沙也加は物静かだが楽しげに依乃里の話を聞いていた。肩に掛かるストレートの黒髪に、化粧気のないナチュラル系だ。元気の塊のような依乃里とは対照的に見えるが、それが上手い具合にかみ合っているのかもしれない。
パステルカフェというその店は、駅から歩いて一五分ほどの所だった。どちらかというと功太の家とは方向が反対だった。全く歩いたことがないわけではなかったし、道はわかりやすかったので案内役をすることができた。
「近所だと逆に行かなかったりするよね」沙也加が言った。
「そうそう、地元の名産だけど食べたことない、みたいな」功太はそう言いながら、遠くで黒い影が道に浮いているのが見えた。しかし、目を凝らすとそれは消えた。
「私は日本人だけど富士山登ったことないなぁ。学生のうちに登りたいなぁ」
「なんで山登りなんかしたいの? 意味が分らない」
「沙也加はもうちょっと運動した方がいいよ」依乃里は笑った。
「だって疲れるんだもん」
「ご飯が美味しくなるのに」
二人の話を聞きながら功太は目と目の間辺りを指先で揉むように押した。確かに人の形をした半透明の黒い物体が見えたと思ったのだが、今はどこにもそれらしき物は見当たらない。
「俺はもう疲れてるかも。なんかたまに変なの見えるし」
「変って?」依乃里が功太の顔をのぞき込んだ。
「なんか、黒い人の影みたいなやつ」
「それって……ただの影じゃない?」
「いや、光でできた影じゃなくて、イメージは確かにこの影なんだけど、これが浮いてるというか、立って勝手に動いてるかんじ。黒い半透明の人っぽいやつ」
「何それ。目の調子悪いんじゃない? 病院行った方がいいよ」依乃里が心配そうに言った。
「幽霊かもよ?」と沙也加が笑った。
「やめてよ解至さん。俺そういうのマジ無理だから」
そんな話をしている間にカフェに着いた。オシャレで明るく、雰囲気のいい場所だった。
依乃里と沙也加が向かい合わせに座り、功太はその隣の二人掛けのテーブル席に座った。さらに隣のテーブルには、小学生の男の子と黒いパーカーの男が座っていた。ちらっとだが茶色の髪にはピンクのメッシュが入っているのが見えた。ピアスも沢山つけている。車高の低いスモークのかかった車を、音楽がんがんかけて乗り回していそうだ。
テーブルには男の子の宿題なのか、プリントとノートが広げられていた。兄弟ではなさそうだが仲が良いらしい。なんだか不思議な組み合わせだなと思ったが、功太はそれ以上気にしなかった。
それよりも、白いコーヒーカップに気を取られた。白いソーサーには小さなスプーンと角砂糖が一つとチョコレートが一かけ。落ち着く香りにほっとしつつ、功太はマグのことを思い出していた。
彼女は確かにマグカップだった。鈴一に叩き割られて以来、とっての付いた容器を見ると切なくなってしまう。
功太は女子二人と適当に話を合わせつつ、感傷に浸った。もしもマグが人間だったら、今日一緒にここでコーヒーを飲むこともできたのだろうか。彼女だったら、最近見える黒い影の話も真剣に聞いてくれるかもしれない。あれは多分病院でなんとかなるやつではない。
でも依乃里の言うことも一理ある。塩風呂で撃退したとは言え、幽霊らしき物につきまとわれていたせいで、これも幽霊関係だと思い込んでいる可能性がある。近いうちに眼科に行こうかな、いや脳神経外科かな、どこだろう。
雑談を交えつつ、各自レポートやゼミの準備などに取り組んだ。依乃里は明日提出の課題をやっていて、ちょくちょく功太に助けを求めた。
店を出る頃には外は薄暗くなっていた。
「功太君の隣に座ってた男の人、すごく綺麗な顔してたね。ハーフなのかな」沙也加が言った。
「うん。男の子に勉強教えてたみたいだよ」と功太が言った。
「兄弟っぽくはなかったよね。それにしてもカフェでお勉強とは優雅な小学生だねー。私は宿題をやらないからいつも怒られてた」依乃里はそう言って笑った。
「締め切りぎりぎりなのは昔からなんだね」功太がそう言うと、依乃里は彼の腕を叩いた。
カフェを出て少し歩き、点々と料理屋がある通りに入ったときだった。視界の先の店から白い服の男が出てきた。それを見た功太は目にゴミが入ったふりをして、目をこする素振りをした。
その男が後藤鈴一だったような気がして、思わず顔を隠したのだ。男は暖簾を出して提灯の明かりをつけると中に戻った。ぎりぎり顔を確認することができなかった。
「目、痒いの? やっぱり眼科行った方がいいよ」依乃里が言った。
「うん。大丈夫、ちょっとゴミが入ったみたい。取れたよ」
見えたのは一瞬だったし、服装も違ったが間違いない。いや、あの男がどこで働いていようが知ったことではない。マグにはもう会えないのだ。
*
店主の義仁は誰もいない店内を見渡し、時計に目をやると鈴一に声を掛けた。
「後藤君。今日はもう上がって良いよ。こんなだし」
「そうすか。わかりました」
「食べてく?」
「はい。山菜でお願いします」
日曜の夜は人が殆ど来ない。しかし、鈴一が帰り支度を終えて戻ると一組の若い男女がテーブル席にいた。女の方が楽しそうに喋っている。男の横顔がちらりと見えて、鈴一は顔を背けた。見ないようにしながらカウンターの隅に座る。
そういえばメガネが言っていた。功太がまた来た、と。若者はあまり来ない店なので、彼がここに来たのはあまり偶然とは思えなかった。鈴一は気付かれる前に帰ろうと、蕎麦をかき込んだ。しかし、汁を飲み干した所で見計らったように功太が普通に話しかけてきた。
「後藤さん、ですよね。ここで働いてたんですか。奇遇ですね」
彼は本当に偶然で驚いているというような表情をしていたが、どこか不自然に思えた。
「何か用かよ」
「やだな、偶然来たんですよ。後藤さんに会いに来たわけじゃないです」
「そうか。ならよかった。彼女は大事にしろよ」
鈴一が言うと、二人の様子を窺っていた女が笑顔になった。
「いや、彼女じゃないです。大学の友達です」
功太がきっぱりそう言うと女は笑ったまま小さくうんうんと頷いた。その笑顔は多少こわばっていた。
「お、後藤君のお友達?」義仁が二人の蕎麦を運んで来た。
鈴一の「いえ、違います」と功太の「そうです」という声が重なって、依乃里と義仁はきょとんとした。
「顔見知り程度ですよ」鈴一は功太を軽く睨んだ。功太は笑った。義仁はよくわからない感じの表情で頷いてカウンターの向こうに戻った。
「相変わらずですね。まぁいいや、蕎麦が伸びるから食べよっか、栗原さん」
「そうだね」
鈴一は嫌な寒気を感じつつ、二人を残して店を後にした。しばらく歩いた所で眼鏡を外した。隣にメガネが現われて、きょろきょろした。
「あれ、仕事帰り? どうしたの?」と、慌てて鈴一の隣を歩き始める。
「功太が店に来た。絶対偶然じゃない。あれは俺がいるの知ってた」
メガネは吹き出した。可笑しそうにしている彼に、鈴一は舌打ちした。
「何あれ。なんなのマジで」
「まぁ、家からそう遠くないし。徒歩通勤だし。つけられたら一発だよねー」
「引っ越そうかな」
「でも家も職場もバレてるんだから、逃げるならどっちも諦めないと」
「……そうだよな」
メガネは久々の夜の空気を楽しんだ。冬が近づいている。彼としては功太には頑張って欲しかった。ゲームのレベル上げに少し飽きてきた所だったから。