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家庭教師

柊也は社会が嫌いだった。


生きていくのが辛いとか、人間関係がしんどいとかそういう話ではない。政治の仕組みとか、地理とか歴史とか年号とか産業とかの勉強が嫌いなのだ。面白くないから。野菜の産地に興味はない。


今日返されたテストは五点。周りでは今回のテストは簡単だったと言い合っており、柊也は何食わぬ顔で机に答案用紙をしまい込んだ。


中学受験のために塾に通っている生徒も少なくない。今回はそうでない子達も楽勝だったような雰囲気を醸し出していて、柊也の帰る足取りは重かった。


テストの点が悪いからといって、怒られたりはしない。でも情けないので親には見せたくない。


コンビニの前を通りかかると、柊也はランドセルの奥底からテストの紙を引っ張り出した。乱暴に入れたせいで皺が寄っている。丸が一つと三角が一つ。あとは沢山ペケがついており、赤で小さく五点と右上に書いてある。


ゴミ箱に捨ててしまおうと思ったが、それはもの凄く悪いことをしているようでやっぱりできなかった。柊也はため息をついてテストをランドセルにしまった。


コンビニを後にして少し行くと「ちょっと」と肩を叩かれた。振り返った柊也はぎょっとした。白い買い物袋を持った見知らぬ若い男が立っていた。


彼は襟足長めの明るい茶髪で、ピンクのメッシュを入れていた。耳には銀のピアスが沢山ついている。ハーフなのか、アジアっぽくないはっきりとした顔立ちをしていた。


「これ、落としたよ」男はしわくちゃの紙を差し出した。それは間違いなく柊也の悲惨なテスト用紙だった。男の指には、銀のごつい指輪が嵌められていた。


柊也はお礼を言いつつ少し残念そうに紙を受け取った。落としたなら、そのままどこかに飛んでいってしまえばよかったのに。


「先生優しいねー。俺だったらこれ漢字間違ってるから三角にするわ。え? トクの字だよ。それじゃキクガワだっつの。うける」と男は笑った。


「え、違うの?」


「耳じゃなくて、ぎょうにんべん。『行く』の左側。惜しかったな」男は近くにあった一方通行の道路標識を指差した。


「そっか。でもわからなくて適当に書いたやつだから別にいいんだ。家光にするか迷ってさ」


「歴史はマジ漢字ばっかだからなー。だりーよな」


「歴史っていうか、社会がだめなんだ。算数とか理科とかはけっこう百点とれるんだよ」


「へぇ、すげぇじゃん。俺計算とか苦手なんだよね。暗記系は得意なんだけどさぁ」


「二桁のかけ算もできるんだよ!」柊也は得意そうに言った。男は心底感心したような顔をした。


「マジかよ。パねぇな。あれか、そろばんやってるのか」


「……そろばんって何?」柊也はぽかんとした。


「え、知らないの? 江戸時代に中国から入ってきた電卓。いや、電気使ってないから電卓はちげぇな」


「それって便利だったの?」


「そうだよ。地図作ったり家建てたり、カレンダー作ったり、細かい計算もぱぱっとできる。パソコンとか電卓がない時代には超便利で大活躍だったらしい」


「じゃ、そろばんがない頃はどうしてたの? 地面に書いてたの?」


「いや算木っていう木の棒」


「何それ。数字が書いてあるの?」


「いや、並べ方で変わるんだ。位が書いてある算盤ってやつの上に乗せて、移動させて計算する」


「なんか、面倒くさそうだね」


「そう。だからそろばんの発明はヤバかった。すぐ広まった。それこそ、徳川幕府の時代だな。農地整備も金勘定もはかどったんじゃね?」


「へぇ、みんな計算してたんだ」


柊也は、時代劇に出てくる人達が、あれこれ計算しているのを想像して少し楽しくなった。算木のイメージが全く分らなかったが、昔の人はかけ算も一苦労だったのかもと思い、柊也は二桁のかけ算ができる自分をより誇りに思った。


そして、電卓をうちながら家計簿をつける母の姿を思い出した。その作業をしているときのお母さんは話しかけづらくて怖い。必ずため息をついて家計簿を閉じる。柊也は気にしないふりをしている。


「お兄さんは物知りだね。俺も塾に行ったらもっと社会の勉強できるようになるかなぁ」


「結婚すれば幸せになれるとは限らないのと一緒で、塾に行けば頭がよくなるとは限らなくね? 行動してる分、可能性は高まるかもだけどー」


「みんな塾行ってるんだもん。でもうちお金ないからさ。せめて、お兄さんみたいな頭良い兄ちゃんがいたらよかったのに」


「物知りと賢さはイコールじゃないぞ、少年」男はそう言いつつ嬉しそうに笑った。


「でもそのテストの復習を一緒にやろうか。間違えることより、それを踏まえて次どうするか考えることが重要なんだぜ」


それから近くの公園のベンチで話をした。男はショモツと名乗った。


「珍しい名字だね、どう書くの?」


「そのまんま。書く物だよ。イケてるっしょ」


自信満々の物言いによく分らないが格好いい、と柊也は思った。



季節の変わり目には必ず風邪を引く。どんなに気をつけていても寝込む羽目になる。鈴一は寝返りをうって壁の時計を見た。十六時半。ぼんやりした頭では眠ったのかどうかもわからなかったが、前に見たときは確か十四時前だった気がする。


そのとき、鍵が開く音がして「ただいまー」という声が聞こえた。


「おーい、ずっさん。生きてるー? ポカリ買ってきたよ。水色の方」


「遅かったな。ギリじゃねぇか」と鈴一は不機嫌な様子で言った。


「ちょっとねー。ヤバ良いことがあったんだよ」とショモツはにやにやしながらペットボトルを枕元に置いて、他の食料や飲み物を冷蔵庫にしまった。そして米をとぎ始めた。鈴一はぼんやりした顔で起きてポカリを飲んだ。ついでに寝汗でべったりしたシャツを着替えた。


「炊飯器って本当超便利ー。おかゆ炊いておくから後で食べなよ。梅干し買ったし。あと飲むゼリー系も三つ買ったぜ。食べる?」


「いらない」


「んで豚バラが激安だったから買ったわ。大丈夫、冷凍しとくから。しかも小分け。ヤバくない? 俺超優しい」


豚バラを買ったのは、柊也と別れた後だった。わざわざ買い足しにスーパーまで戻ったのだ。ショモツは鈴一の脱ぎ捨てたシャツを洗濯機に入れると、神妙な顔で正座をした。


「ずっさん。具合悪いとこ申し訳ないんだけど、お願いが……」


「却下」鈴一は言葉を被せるように言い捨てて、再び布団に潜った。


「マジ頼むよ! 約束しちゃったんだ、来週も勉強教えてあげるって」


「うっせぇな。燃やすぞクソ紙媒体」


「柊也っていうんだ。六年生で、社会が苦手でさぁ」


「手始めに大人はすぐに裏切るという社会の厳しさを教えてやれ。もっと苦手になるだろう。たく、守れない約束しやがって」


「俺みたいなお兄ちゃんが欲しかったって言ってくれたんだ。嬉しくなっちゃって、つい」


それっきりショモツは何も言わなかった。彼の姿は既になく、代わりに国語辞典があるだけだった。鈴一はそれを見ると、再び目を閉じた。寝込んで丸二日たっていたが、次に目が覚めたときには大分ましになっていた。


夜中だったが急に空腹を感じたのでショモツが炊いたお粥を食べることにした。日中に何か頼まれたような気がしたがよく覚えていない。碌でもないことに決まっている。


お粥を食べながら、国語辞典に触れた。体育座りしたショモツが現われた。


「考えてくれた?」


「なんだっけ」


「来週の木曜日、勉強を教えてあげる約束をしたってやつ。小学生の男の子と」


「ポカリ買いに行って、なんでそうなるんだよ馬鹿かよ」


「柊也が落としたテストを俺が拾ったの。あいつ、母親と二人暮らしなんだけど、木曜日だけちょっと帰りが遅いらしい。言っても六時くらいだけど。それで建物の一階にある喫茶店で待ってるんだと。場所的には今んとこそこがベスト。どう?」


「どう、じゃねぇよ。ざら紙野郎」


「ざら紙を馬鹿にするやつは、ざら紙に泣くんだぜ。んでもって辞書に使われる紙は大体超良い紙だからマジで」


「待て、まさか毎週木曜日って意味か」


「あ……うん。えへへ」とショモツは照れたように笑った。


「ずっさんの都合が良いときだけでいいからさー。いいじゃん、家庭教師のボランティアだと思ってー」


「善意がいつでも人のためになると思うなよ」


「でもためになるときがあるのは確かっしょ? パステルカフェっていう店なんだけどー」


「……たまよしのすぐ近くじゃねぇか」


「そうなの? マジ運命感じるわ。そうだ、心配なら一緒に来れば良くね? それか、仕事の休憩にちょっと見に来るとか」


「ねぇよ。なんで俺の休憩をそんなことのために使わなきゃなんねーんだ」



パステルカフェは、三年前にオープンした喫茶店で白木を多く使った明るい雰囲気の店だ。店長は三十代の筋トレが趣味の樋口という男だった。


平日はそれ程混まない。午後のお茶の時間が過ぎればもう営業終了しても良いくらいだ。今日は二人パソコンを開いている客が残っている。そこへ、小さな馴染みのお客がやって来た。


「樋口さん、こんにちはー」


「柊也君、そうか今日は木曜日だったか。何飲む?」


「今日はココアがいいな。あったかいの」柊也は店内を見回してから、二人掛けのテーブル席に座った。


「お、そっちに座るの珍しいね。気分転換?」


「うん、あのね、友達が来るんだ」柊也は少し興奮したように言った。そわそわした様子で外を見る。


「へぇ、そりゃいいな」樋口はココアに生クリームを浮かべながら言った。時間帯を考えると、近所の子かもしれない。


「うん、勉強を教えてもらうんだ」と柊也は嬉しそうに言った。


「その友達は年上なの?」


「うん、すごく物知りなんだ。格好良いし」


中学生とか、高校生だろうか。世話好きなのかもしれない。


店内でしか柊也と会うことはなかったので、樋口は彼がどんな生活をしているのかよく知らない。ただ、微笑ましいなぁと思った。


そんな想像をしていたので、茶髪にピンクのメッシュが入った、シルバーアクセサリー多めの若者が親しげに柊也と挨拶を交わしたのには少し驚いた。


ショモツは柊也の向かいに座ってきょろきょろした。


「やっべ、超オサレカフェじゃん。柊也お前すげぇな」


「去年雑誌に載ったりしたんだよ」


「マジか。あ、ラテをお願いします」


やる気があることを示すために、柊也は社会の教科書とノートを出した。ショモツは教科書をぱらぱらと見ていった。


「おぉ、なるほどねぇ。やっぱり変わるよねぇ」


「何が?」


「歴史がさぁ。知ってる? 歴史って変わるんだよ」


「何言ってんの。過去は変えられないよ」


「うんうん。そうなんだけど、情報が間違ってることはけっこうある。本当のことがわかって、歴史が修正されるってわけ」


「じゃ、この教科書も間違ってるかもしれないの?」


「まぁね」


「それじゃ、覚えてもしょうがないじゃん」


「大丈夫、どうせ忘れるんだし。勉強の練習と思えばいいよ。それに大筋が変わることはあんまりないし」


そこへ、ラテがやって来た。ショモツはラテアートに興奮し、感激した。それはよくある葉っぱ模様だったが、間近で本物を見たのは初めてだったのだ。しかも自分のための物である。こんな機会は滅多にない。


樋口は二人の様子を興味津々で窺っていた。ショモツは柊也に今日勉強した内容を聞きながら、関連する蘊蓄を挟んだりして柊也の興味を引いていた。


一七時半頃になってショモツは先に帰り、店に残っているのは柊也だけになった。あと三十分もしない内に、母親が迎えに来るだろう。


「あのお兄さんとはどこで知り合ったの?」


「近くの道で。落とし物を拾ってくれたんだ」


「へぇ、そうなんだ」


ショモツは暗くなりつつある道を全力疾走していた。限界の三時間まであと数分というのは感覚で分る。途中で、アパートに帰るより鈴一の職場に行った方が早かったなと思った。でも場所を聞いてなかったので仕方ない。


物でいるときは意識がないので道端に放置されるのは構わないが、ラテ代のおつりは鈴一に返したい。


ショモツは真面目で記憶力も良いが、とことん計算が苦手だ。それを自分でもよく分っているくせに、寄り道なんかをする。立ち読みが好きなのだ。


鈴一は帰り道の暗がりに落ちている雑誌を見つけた。上にはレシートと小銭が四百二十円乗っていた。もしその雑誌が先日鈴一が買ったのと同じ歴史系雑誌でなければ、気に留めず通り過ぎただろう。


時刻は夜十時を回っていた。雑誌は道路脇の暗い所にあったし、他の誰かが見つけたとしても、上に小銭が乗っているというのも少し怪しげで拾うに至らなかったのかもしれない。


鈴一はそれらを拾い上げ、レシートを見た。一番上にはパステルカフェとあり、カフェラテ五百八十円と印字されていた。


一冊だったはずの雑誌は三冊になっていた。

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