たぬき蕎麦
玄関に置かれた段ボールには色とりどりのマグカップが山になっていた。そして、今は『割れ物』と書かれた小さな紙袋がその上に乗っている。メガネはそれを見て、ゾウキンは相変わらず字が綺麗だなと思った。
「目の前で叩き割るなんて酷いね」とメガネは笑った。そんなことは微塵も思っていなさそうである。
鈴一は新しいゲームのパッケージを開けた。和風ホラーゲームだ。
「通い詰められる俺の身になってみろよ。大体、なんで相手をしたんだ。俺がいない間、宅配便以外出るなっつってんだろ」鈴一はメガネを冷ややかな目で見て言った。ゲームのオープニングが始まる。画面が暗くてよく見えない。
「最初はマグが連れてきたって聞いて、どんな人か気になっちゃってね。その後は、まさか毎日来てるなんて知らなかったし」
あの日、メガネは一人でゲームのレベル上げをしていた。呼び鈴が鳴ったら様子を見には行くものの、出ることはほぼない。荷物が届くときは鈴一がそう言い残すが、たまに実家から急に荷物が届いたりもするので念のため見に行く。
数日前に背中におぞましい物をしょっていた若者が立っていたのを見たら、つい開けてしまった。その後の話を聞きたくなったのだ。
「功太君。元気?」
「あ、メガネさん。この前はどうも」スッキリしたような顔の功太の後ろには、何も見えなかった。
「いなくなったね。幽霊」
「やっぱりなんか憑いてたんですね。でも塩風呂で浄化に成功したみたいなんです。後藤さんに教えて貰ったんですけど」
「へぇ、よかったね。あ、鈴一なら出かけてるよ。帰りは夜かな」
「そうですか。お礼にと思ってきたんですけど……」功太の手には紙袋があった。
「渡しておこうか? あ、でもそれじゃマグに会えないもんね」
「そ、そういうわけじゃ……」
「いいよいいよ。ちょっと待ってて」とメガネは部屋に戻った。鈴一のシフト表を探したが、ちょうど新しいのだけが見つからなかった。
「ごめんね。朝は確実にいると思うけど、絶対起きないだろうし」
「いえ、また来てみます。ありがとうございました」
用があれば書き置きなどをして鈴一に伝えることはできたが、それ程重要とも思えなかったので放っておいた。
次にメガネがレベル上げのために人の姿で留守番をしていた日、また功太がやって来た。なんだか最近よく会うなぁ。と思いつつ、今度はたまたま次の休みを聞いていたのでちょうどよかった。
「功太君。今日も俺でごめんね」
「メガネさん。中々休みに当たりませんね。ていうか後藤さん休みないんですか? 毎日来てるんですけど」
「えぇ? 毎日? あーそうなのかー」偶然メガネがいるときに来ているのではなく、毎日来ているだけだった。
「俺、避けられてるんでしょうか」
「いや……多分それはないと思う。鈴一は君が来ていることにすら気付いてないと思うよ。あ、そうだ、次の休みがわかったから教えてあげるよ」
さすがに鈴一に言っておいた方がいいような気がしたが、彼が功太を避ける可能性もあったのでやめた。それに、当日色々知る方がびっくりするだろうと思った。立ち合えるか分らないが、鈴一が驚くのを想像してメガネは一人でにやけた。
結局その場にいることはなかったが、思ってもみない方向に事態は進んでいた。ことの次第を鈴一から聞いて、メガネは思わず笑った。
「可哀想な功太君」
「ま、仕方ないよな」
「マグカップがまた増えたね。売りに行くの?」
「郵送で買ってくれるやつにした。近所で売るとあいつが買いそうな気がするから。出かけるのも面倒だし」
「なるほど」
二日後にはマグカップを詰めた段ボールは発送され、割れたマグカップはゴミに出された。
*
そば処たまよしは、初老の夫婦が営む小さな蕎麦屋だ。入口には鉢植えが雑然と置かれ、好き放題に伸びている。
土曜日、昼時を過ぎて客がいなくなると店主の義仁は「そろそろ休もうか」と言った。
テーブルを拭いていた鈴一は時計を見やり、「そうですね」と答えた。そして入口脇にある戸棚からTシャツを出した。床付近にある棚なので、カウンターの内側にいる義仁からは見えていない。鈴一は外に出ると色あせた藍色の暖簾を下ろし、準備中の札を戸に掛けた。
義仁は、鈴一が小さな女の子と一緒に戻ってきたのを見て、「あれ、フクちゃん」と微笑んだ。その子はたまに一人でやってくる。近所に住んでいて、親が留守にすることが多いということくらいしか知らない。
髪を三つ編みにして、デニム生地のワンピースを着ている。
来るときはいつも中休みの頃で、昼食には少し遅いが鈴一のまかない蕎麦を一緒に食べるのが定番になっていた。
「美味しい笹かま貰ったんだ。焼いてやろう」と義仁は奥に箱を取りに行った。鈴一はカウンターの中に入って器を用意した。
「何にする?」
フクはカウンターの真ん中の席に座って、小さなお品書きの冊子を開いた。足をぶらぶらさせ、あーだこーだ言いながら見ていく。彼女はひらがなしか読めないし、どれがなんの蕎麦なのかもよく分っていない。ただ、他の人達のように、料理を選んでいるふりをするのが楽しいのだ。
「えっと、あのね、ふわふわしてるの」
「……ふわふわ? 山かけか。白くてとろっとしてるやつだな」鈴一は冷蔵庫を開けた。しかし、フクは少しむすっとして首を横に振った。
「違うの。とろろいもじゃなくてね、黄色いの」
「黄色……? でふわふわ? だし巻きか。蕎麦はいらないのか」
「違うのー。おそばで、黄色くて、小さい丸いのがね、この前たまきおばちゃんが入れてくれたの」
鈴一は納得したように頷いた。
「天かすか。それはな、たぬき蕎麦って言うんだよ」
「たぬきが入ってるの?」
「入ってねぇよ。天ぷらのタネヌキを縮めてタヌキって呼ぶようになったらしい」
フクは「ふーん」と興味なさそうに言って、た、た、たーぬーきーのしっぽの毛ーと歌い始めた。鈴一は湯気の立つ大盛りのどんぶりを持ってフクの隣に座った。小さなお椀に蕎麦とふやけた天かすを入れてフクの前に置くと、フクは「ネギも!」と言って嬉しそうな顔をした。言われた通り、ネギを入れてやる。
「関西の方ではきつね蕎麦のことをタヌキ蕎麦と言うそうだ」義仁が笹かまを焼きながら言った。フクは子供用のスプーンでふやけた天かすを掬った。
「へぇ、それは知りませんでした。じゃ、天かす乗せたやつはなんて?」と鈴一。
「揚げ玉は基本乗せ放題だから、特別な呼び名はないとか」
そのとき、店の奥から義仁の妻の環が現われた。肩までの茶色い髪は綺麗にパーマが掛かっている。
「あらあらあら、フクちゃんまた一人で来たの? 野菜もちゃんと食べないとだめよ。あ、きんぴらごぼう食べる? 私も笹かま食べたいわぁ」
環はよく通る声で色々言いつつ、きんぴらごぼうの入った器をを持ってきてフクの隣に座った。義仁はこんがり焼けた笹かまをカウンター越しに出した。フクの分は小さめに切ってある。
「そのままでもいいし、わさび醤油もおすすめだ」
厚みがあって枝豆入りの笹かまだった。フクは何もつけずに一切れ食べて「あち、あち」と言ったが満足そうだ。
「今日もお父さんお母さんはお仕事なの?」環はフクに尋ねた。フクは頷い、その拍子に笹かまが口の直前で箸から落ちた。彼女は環の方を見上げる。
「夕方に帰ってくるの。またここにいてもいい?」
「もちろん。後でお煎餅持ってきてあげる」
「やった!」
環は、とっとと食べ終えた鈴一の方を見た。
「ね、後藤君。フクちゃんのご両親は相変わらず忙しいのかしらね」
「さぁ、俺も一度しか会ったことがないので」鈴一はあくびを噛み殺して言った。
「挨拶くらいしておいた方がいいと思うんだけどねぇ。なんだか孫を預かってるみたいで私は楽しいけど、心配じゃないのかしらねぇ」
義仁と環には子供が二人いる。一人目の娘は結婚して遠方におり、子供もいるが会えるのは盆暮れ正月くらいだ。二人目の息子は就職してこれまた遠方にいる。連絡無精で、こっちからメールを送っても返信がないことも多い。
フクは彼らの孫と同じ年頃だった。
「大丈夫ですよ。遅くなりそうだったら俺が送ってくし、この辺りは治安もいいし」
「そうじゃなくって、顔くらい知っておいてもいいかなと思って」
「そうですねぇ……」鈴一は少し考えた。「俺が顔見知りなんでとりあえずいいんじゃないですか。人のよさそうなご両親でしたよ」
「そう? 大丈夫ならいいんだけど……」
「でも今度会ったら、一度店に来いって言っておきますよ」
「いや、それはちょっと。なんだか……恩着せがましいでしょ?」
「そうですか?」
「向こうがそれでいいなら、まぁいいわね。毎日来ている訳じゃないんだし」
「きっとその内来ますよ。ちゃんと客として」
義仁が店を開ける準備をし、環が電話に出ている間にフクは帰った。鈴一は暖簾を出して準備中の札を外した。すると近くで声がした。
「あれ、フクちゃんが来てるのかと思ったよ」中年のがっしりした体型の男が立っていた。男は鈴一の持っている黒いTシャツを指差した。
「それが女の子に見えてね」
鈴一は苦笑した。
「針生さんって、ロリコンだったんですか。これが女の子に見えるって、相当ですよ。正直な所、ちょっと引きました」
「よしてくれよ。僕はロリコンじゃないよ。成人女性の方が断然好きだよ。子供は何考えてるか分んないし」
「成人女性の考えてることだって、何も分ってないじゃないですか」
「ぐさっときた。今の」
針生は精力的に婚活をしているが、全く上手くいかないのが悩みだった。失敗しては、店に愚痴りにやってくるのだ。
「おう、針生さんいらっしゃい。調子はどうだい」中に入ると義仁が言った。
「まただめだった。上手い酒と天ぷら蕎麦で俺を慰めておくれよ」
「おう、任せときな。お代はきっちり貰いますがね」と義仁は笑った。
店の奥で環が顔を出して、きょろきょろしている。
「フクちゃんもう帰っちゃった?」
「えぇ、ついさっき」と鈴一が答えた。白い帽子をかぶり直し、手を洗った。
「もらい物の海苔をお裾分けしようと思ったのに忘れてた。だめね、用意しておかないと」環はビニール袋を見せた。
「また今度ですねぇ」
その棚には掃除用具が少し入っているだけで、普段はあまり使っていない。仕事が終わると、鈴一は帰り際にこっそりそこから黒無地のTシャツを取り出した。午前中は一枚しかなかったはずが、三枚になっていた。いつもは二枚になっているところだが、確か今日は煎餅に加えてジュースまで飲んでいた。
Tシャツはどっちかといえば消耗品だから構わないか。と鈴一は思った。
*
話を聞いたメガネは暗いディスプレイを見たまま言った。鈴一はホラーゲームを進めている。幽霊の作画がまぁまぁ気持ち悪い。
「そりゃぁ、何かあったときのためにじゃないの? 言いがかりをつけられても困るし」
「そうだよな」
「俺が親の役をやろうか」
「そんなの絶対ややこしいことになるに決まってる。いいんだよ。このままで」
「そっか。残念。でも年齢的にはちょうど良いと思わない? 人当たりもいいし」
「考えただけで面倒くさい」
「自分で撒いた種じゃん」
「だから、これ以上育たないように気を配ってるんだろうが」
「ところで、また功太君が来たよ」
鈴一は操作をミスした。黒い画面が赤い手形で一杯になり、スタート画面に戻った。鈴一は苛ついたようにコントローラーを放った。
「それで、出たのか」
「出なかった。鈴一怒ると思って。まだ通ってたりして」
「やめろよ。気持ち悪い」
「でもあんなことして恨まれてるかもしれないよ?」
「鬱陶しいな」