思い出の欠片
鈴一は洗濯機の横に掛けてある雑巾を手に取った。それを人の姿にして、自分はそのまま布団に戻る。
現われたのは短髪で小太りの男だった。小さい目が眼鏡で余計に小さくなっている。白いワイシャツにベージュのチノパンで、茶色い革のベルトがお腹に食い込んでいるものの、清潔感があった。温和そうに見えるが割と神経質である。
その男、ゾウキンは棚の上に指を滑らせ、指についた埃を食い入るように見た。
「お早うございます、にはちょっと遅いですかねぇ」
鈴一が何も言わなくても彼にはするべきことが分かっている。週に一度の掃除タイムだ。
「さて、今日も始めますか」
ゾウキンはいつも効率的に掃除をする。まず片付けを行い、掃除しやすい状態にするところから始まる。と言っても鈴一は持ち物が少ないので大したことではない。鈴一が寝ている布団だけはそのままにする他ない。
ふとゾウキンはカーテンの陰に小さな段ボール箱を見つけた。開けてみると、色とりどりのマグカップが入っている。
「鈴一さん、このマグカップはなんですか」
「あー、忘れてた。今日……いや今度の休みに売りに行く」鈴一は見向きもせずに面倒くさそうに言った。
「そうですか。こんな適当にいれて、まったく。運んでいる途中で割れてしまいますよ」
「それならそれでもいい」
「新聞紙……とかないですもんね読まないですもんねぇ。まぁいいでしょ」
ゾウキンは静かに箱を閉じて玄関の方に持っていった。棚の埃取りに始まり、床、水回りとテキパキこなしていく。彼の手に掛かれば頑固な油汚れも水垢も問題ではなかった。どんな汚れでも落とすことができるというのがゾウキンの得意とするところだった。
ただ掃除が終わる頃には、ゾウキン自身が全身汚れまみれになっている。それはまるで、汚れを自分の方に移し取っているようだった。
「ディスプレイの埃くらい取ったらどうなんですか。毎日ゲームしてるんでしょ? あぁ、なんでコードをこんなにぐちゃぐちゃにしておくんですか」
「うるせぇな」
手を動かしつつ鈴一に一々小言を浴びせるゾウキン。鈴一は気怠げにあくびをし、綺麗になったテレビの電源を入れた。代わり映えのないニュースを聞き流す。
小一時間たって、掃除が終わる頃に漸く鈴一は起きて着替えた。
「次回は冷蔵庫の中をやりましょうかね。使った物はちゃんとしまってくださいよ」
「はいはい」
そのとき、呼び鈴が鳴った。覗き穴に目を当てた鈴一は鍵に手を当てて少し迷い、結局ドアを開けた。
「今度はなんだよ」
「お礼に来ました。塩風呂が効いたんです」と功太が深々と頭を下げた。
「あっそ。よかったね。別に良いよ礼とか」早々に閉めかけたドアを功太ががっちりと掴んだ。
「いえ、そういうわけには。これ、よかったらマグちゃんと食べてください」功太は菓子箱の入った紙袋を差し出した。
「……そういうことか」鈴一はあからさまにため息をついた。功太は少し焦ったように言い訳をする。
「お礼にと言うのは本当です。……正直な所、マグちゃんに会いに来た部分もありますけど……」
「お前、今後マグに会いにここに通うつもりじゃないだろうな」
「えぇ、ご迷惑でなければ」
「迷惑に決まってんだろ」
「じゃあ、週一くらいに減らします」
「それで減ったのか」鈴一は呆れた顔をした。
「実のところ……」と、功太は照れたように頭に手をやる。
「毎日来てます。たまにメガネさんが出てくれるんですけど……」
「嘘だろ」鈴一は顔を引きつらせた。功太は真面目な顔で「本当です」と言った。
「だって、マグちゃんに会うにはここに来るしかないじゃないですか」
「お前……」
「鈴一さん、込み入った話なら一度上がっていただいたらどうです」と鈴一の後ろからゾウキンが顔を出した。
「よかったら私がお茶を入れますよ」
「雑巾が入れた茶なんて飲めるか」鈴一が吐き捨てるように言った。
「ふふ、どうせ私には汚水が浸みてますよ」ゾウキンは自嘲的に笑いつつ、ヤカンに水を入れ始めた。功太は鈴一の部屋に上がることになった。
殺風景な部屋で座卓を挟み向かい合う鈴一と功太。
「できれば二度と来ないで欲しいんだけど」と鈴一は言った。
「そこをなんとか、マグちゃんと友達付き合いしたいんです」
「お前、あれを人間と同じように思ってんだろ」
「人の姿で、会話ができて、感情が顔に表れて、人間そのものじゃないですか」功太は思っていたことを言った。
「違う」鈴一がきっぱりと否定する。ゾウキンが二人にお茶を持ってきた。鈴一は湯気の立つ白いマグカップを手に取る。
「これはなんだ」
「マグカップです」
「そうだろ。ただのマグカップだ。生き物じゃない」
「やっぱ分かんないですよ。そんなこと言われても」功太は眉間に皺を寄せた。ゾウキンが、ふふと笑う。
「いいですねぇ。マグさんのような食器類は使うほど愛着が湧きますよね。どうせ私のような小汚い布きれは、指で端をつままれる存在ですから。愛着とは対極にいる存在ですから」
功太は彼の顔を見た。言っている内容は自虐的だが、表情には嫌なところがなかった。さっきちらりと雑巾という単語が聞こえたのは聞き間違えではなかったらしい。
「雑巾、なんですか」
「そうですよ。物の立場からしても、会わない方がいいと思いますよ。あなたの恋心は受け止められませんからね。ま、雑巾の言うことなんて聞く気にならないですよね済みません」
「こ、恋心とかないですよ別に」功太は焦ってちらりとマグカップを見た。聞かれていたらどうしようと思ったのだ。見透かしたようにゾウキンが笑った。
「大丈夫ですよ。彼女には聞こえていませんから」
鈴一はため息をついた。
「鈴一さん、いっそのことマグさんのことをもっとよく知って貰えばいいんじゃないですか。何回か顔を合わせたことがあるだけなんでしょ?」
「あぁ……」鈴一は少し考える素振りをした。
「お前、今週の土曜日空いてるか」
「え、はい」
「マグを貸してやる」
*
数日後の十一時半に功太がやってくると、鈴一は白いマグカップを手に出てきた。
「マグにはお前とデートだと言っておいた。三時間で元に戻る。ちゃんと返せよ」
功太は力強く頷いた。すると、目の前に女の子の姿をしたマグが現われた。心なしか、いつもと雰囲気が違って見える。
「功太君! わーい! お出かけだ!」
「これを持っていけ」
鈴一はそう言って、功太に折りたたまれたエコバッグを渡した。理由は分らなかったが、気にならなかった。功太は既にマグのことで頭が一杯だったのだ。
鈴一は「三時間だからな」と念押ししてドアを閉めた。功太とマグはアパートを出発した。
「行こっか」
「うん! どこに行くの?」
「おいしい物を食べに行こう」
「おいしい物! やったー!」
いろいろ考えてみたが、三時間しかないのでできることは限られる。移動時間も勿体ないので、近くてゆっくりできるレストランを急いで探して予約した。一緒にいられて、話ができればそれでよかった。
マグは当たり前のように腕に手を絡ませてきたので、功太はにやけそうになるのを耐えてクールを装った。マグカップとはかけ離れた柔らかい物が腕に当たっている。
「いっちー以外とこうして歩くなんて、いつぶりだろう。メガネ君ともめっきり会ってないしなぁ」
「そうなの? 何回か会ったけど、いい人だよね」
「うん。あ! ポ……メ、なんとか!」
「ポメラニアンだよ。犬好きなの?」
「うん、触りたいなぁ」
散歩しているのは中年の女性だった。声を掛けると快く犬に触らせてくれた。犬は雄で、名前はハンサム。マグは大喜びで撫でまくった。ハンサムは大人しくされるがままになっていた。
「はぁ、可愛かった。いいなぁ、犬、いいなぁ」
「ハンサムっていうよりは可愛い系だよね」
「いっちーも犬を飼えば良いのに。今度功太君からも説得してくれない?」
「あのアパートじゃ、難しいんじゃないかな」と功太は笑った。
店は駅のすぐ近くにあるこぢんまりとしたカフェレストランだった。二人掛けのテーブル席が十ほど並んでいる。店内には軽快な民族音楽が流れていた。
「私、レストランに入ったの初めて。緊張する」とマグは功太に声を潜めて言った。メニューを開いて、彼女に分かる範囲で料理の説明をした。功太も初めて来た店なので詳しくはない。
「飲み物は何となく分かるんじゃない? マグカップだし」
マグは困ったように笑って首を横に振った。
「わかんないよー。物でいるときのことは知らないんだもん。私は、私がいっちーのマグカップだってことは知ってるけど、マグカップのときの記憶はないんだ。他のみんなだってそうだよ」
功太は少しほっとしたような、残念なような気持ちになった。
「もしそうじゃなかったら、いっちーはみんなの視線が気になって落ち着かないだろうなぁ」とマグは笑った。彼女は結局ナポリタンを選んだ。
「いっちーと昔ね、一緒に食べたことがあるんだ。懐かしいなぁ。あの頃はちびっちゃかったのに」
マグは美味しそうにナポリタンを頬張った。功太はマグのことを知りたいと思っていたが、彼女の話は大体鈴一との思い出につながっていた。楽しそうに話すので、それが少し悔しかった。
「マグちゃんは、後藤さんのことが好き?」
「うん、だってずっと一緒にいるもん」
鈴一がいなければマグは人の姿でいられない。よく考えたら彼女の思い出に鈴一がいるのは必然だった。彼の一存でマグはこの世に存在している。
「もっと友達が欲しいとか、外に出たいと思ったりする?」
「えー? うーん、別にそんなことないかな。私はいっちーがいればいいし。でも功太君がいっちーと仲良くなったら嬉しいな」
「……そっかぁ。俺は、もっとマグちゃんと仲良くなれたら嬉しいんだけど」
「やだなぁ、私たちもう仲良しでしょ?」とマグはふふふと笑いながら、クリームソーダのアイスを掬った。功太は一緒に笑うしかなかった。
「やっぱり俺はお腹いっぱいだから、このケーキ、よかったら食べない?」
「いいの?」とマグは目を見開いた。功太は頷いた。時間はあっという間に過ぎていく。
帰り道、公園に寄った。真ん中に大きな木があり、ジャングルジムと滑り台があるが遊ぶ子供はいない。二人はベンチに座った。
「あと十五分くらいかな」と功太は腕時計を見る。
「そうだね」
本当にマグカップに戻ってしまうのか、まだ信じられない。鈴一が近くにいなければそんなことは起きないのではないか、という希望を持っていた。
「こうしてると、人間にしか見えないよ」
「うん、不思議だよね。マグカップなのにね」
「手、小さいね」功太がマグの手に触れた。
「そうかな。功太君は大きいね。いっちーと同じくらいかな。でも指の細さは私と同じくらいじゃない?」
マグは無邪気に功太の手の平に自分の手を重ねた。滑らかでひんやりとした感触に功太は鼓動が速くなるのを感じた。彼女は確かに存在している。しかもこんなにすぐ側に。これを、どうしてただのマグカップだなんて思えるだろう。
色々言いたいことがあるような気がしていたのに、何も出てこなくなってしまった。やがて、マグが功太の手を両手で握った。
「今日はありがとう。またね、功太君」
彼女はそう言って笑うと、消えた。功太の手にはマグカップが握られていた。何の変哲もない、どこにでも売っているような白いマグカップ。
功太はマグの柔らかな手の感触を探すように、しばらくじっとそれを見つめていた。マグカップは、ただのマグカップだった。しかし、彼女が今丸ごと手の内にあるのだと思うと手に汗が滲んだ。
深呼吸して、ふと異変に気付いた。さっきまでマグが座っていた所に、オレンジ色のマグカップが数個置いてあったのだ。内側も外側も同じ色だが、それぞれ形が少し違っている。まるで彼女がいた証しのように、足元にも赤いマグカップが二つあった。
功太は辺りを見回した。マグが消える前後で、近くを通りがかった人はいなかった。マグカップを置く音もしなかったし、マグが消えたことに関係する現象だとしか考えられなかった。
それで、鈴一からエコバッグを渡されたことを思い出した。功太は十個あまりの暖色系マグカップをエコバッグに丁寧に入れて、白いマグカップひとつは手に持って帰った。
功太はどうにかしてこのマグカップを自分の物にできないかと考え始めた。今のところ、彼女が人の姿で現われるには鈴一がいないといけないので、このまま持ち去る訳にはいかない。彼をどうにか説得できないだろうか。
「諦めはついたか」鈴一が玄関から顔を出すなり言った。
「そのことなんですけど、あ、その前にこれ……」と功太はエコバッグを差し出した。鈴一は頷いてそれを受け取る。
「物を食べさせると増えるんだよ」
「じゃ、それも全部マグちゃんなんですか……!?」
「そう思うのか」と鈴一は無表情に手を差し出した。功太は名残惜しそうに白いマグカップを渡す。
「マグちゃんが分裂した……? いや、でも食べて出したなら……」
鈴一は面倒そうにため息をついて、手にした白いマグカップを功太に見せる。
「何に見える?」
「マグカップです」
「そうだ、人間じゃない」
「でも……」
「でも、なんだ」
「やっぱり、俺にはそれだけには思えません! だから……」
譲ってもらえないか、と言おうとした瞬間だった。
鋭い音と共に、白いマグカップが玄関の床で砕け散った。
功太は突然のことに何が起きたのか、理解が数秒遅れてやってきた。
「あ、あぁ……! どうして……!」
功太は膝をついて、呆然とした。鈴一が鼻で笑う。
「他人が欲情したマグカップなんて二度と使えるか。馬鹿野郎」
鈴一は破片を拾って玄関の隅に寄せた。カシャリ、カシャリと音が鳴る度に、功太はマグの笑顔が遠のいていくように感じた。短くも輝く思い出が蘇り、「またね、功太君」という声が頭の中で響いた。功太は拳を握り、鈴一を睨んだ。
「ひ、人殺し……」
「誰が。俺は俺のマグカップを割っただけだ」鈴一は涼しい顔で言った。
「こんなことしなくても……」
「お前、これにキスとかしてそうだし」
「な……! そんなことしませんよ!」
功太は、なんで分かったと言いそうになり危うく飲み込んだ。急に変な汗が出てきた。ごまかすように言葉を絞り出す。
「割らなくても、俺にくれてもよかったじゃないですか」
「ねぇよ。何に使うかわかったもんじゃない。俺の日用品だぞ、気持ち悪い」
これで、うちに来る理由はなくなったな。思い出作りさせてやっただけありがたく思え。というようなことを言って、鈴一はドアを閉めた。
功太は足元に小さな白い破片が落ちているのを見つけて拾った。
死んでしまった。マグは、物でいるときの記憶はないと言っていたが、本当にそうなのだろうか。そうであって欲しい。
自分が彼女と近づきたいと思わなければ、マグは明日もここで笑っていたのだろうか。
功太は小さな破片を握りしめた。それは手の平を傷つけ血を滲ませたが、なんの慰めにもならなかった。