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ちょーだい

功太は自室でコーヒーを飲んでいた。それを見つめながら、鈴一の部屋で会ったメガネやマグの言葉を思い出す。


いっちーのマグカップ


物を擬人化できるんだ


それなら、今使っているこのマグカップも人の姿にできるのか? と、功太がそう思ったとき、手にしていた青いマグカップだけが消えた。つまり飲みかけで半分残っていたコーヒーは重力に任せて落下し、袖と机に飛び散ったのだ。


そんなことは些細なものだった。功太はぱっと振り返る。すると後ろには、白いワンピースを着たマグが、はにかみながらこっちを見ていた。


階段の方から音がする。誰かが二階に上がってきている。兄に違いないと思った功太は訳もなく焦った。マグのことをなんと説明しようか考えている内に、彼女が手を握ってきて胸が苦しくなった。


階段を上る音はどんどん近づいてくる。それに伴って息が浅くなり苦しさが増した。不意に、彼女の手が妙に冷たいことに気が付いて顔を上げた。



荒い呼吸と共に功太は目を覚ました。全力疾走したかのように鼓動が速い。そして、寝汗が酷い。なにか、嫌な夢を見ていた気がするがよく思い出せない。ただ、マグが出てきたような気がする。スマホを見ると、午前二時過ぎ。


ここ数日、毎日夜中に目が覚める。もしかしたらマグのことが、自分で思っているより気になっているのだろうか。下心がないと言ったら嘘になるが、今はどうこうなりたいというより、彼女の安全が心配だった。



鈴一の部屋には32インチのテレビが置いてあったが、それは専らゲームに使われており、ニュースやドラマなどのテレビ番組を映すことは滅多になかった。鈴一は暇があればゲームをして過ごし、たまにその横でメガネが様子を見ていた。


それは、隠し通路の場所や取り過ごしたアイテムの場所を見つけさせるためだった。メガネはめざといのだ。視力がよくて、観察力もある。


「あ、今のとこなんかあったよ。三つ花が並んでる所。そう、そこ」


「うわ、ここか」


「このゲームももうすぐコンプリートだね。次は何やるの?」


「そうだなぁ。けっこう溜まってるけど、何があったかな」


「たまには外に出かけたら?」


「マグみたいなこと言うなよ。でも久々にどっか行ってこようかな」


「そうだよ。車のバッテリーが上がってなきゃいいけど」


鈴一が答える前に、メガネは眼鏡に戻っていた。それで、もう三時間たったのだと気付き、肩を回し腕を伸ばした。


呼び鈴が鳴った。のぞき穴の向こうに功太の顔を見て鈴一はため息をついた。


「何しに来たんだ」


ドアを開けるなり冷たく言われて、功太は少しひるんだ。


「この前また来たんですけど、メガネさんに聞きました。物を人の姿にできるって」


鈴一はまたため息をついた。


「で?」


「信じられなくて、でもまたマグちゃんにどうしても会いたくて、来ました」


「ただのマグカップだって言ってんだろ」


「変えるところを見せてもらえませんか?」


功太はここに来るまで脳内で何度か練習した台詞を力強く言った。


「そうしなきゃ、俺警察に通報しますよ」


鈴一は失笑した。


「通報って。俺が何をしたって言うんだよ」


「未成年の女の子を連れ込んで洗脳してるって。被害者は一人じゃないみたいだし」


「でも被害者なんてどこにもいないぞ。お前がいたずら扱いされてお説教されてお終いだ。馬鹿じゃねぇの」


「彼女があなたに洗脳されて監禁されてると思ったらなんか落ち着かないんですよ」


「なら、マグカップだと納得できたら帰れよ?」


「分かりました」


玄関から入ってすぐにキッチンがある。鈴一は、食器の乾燥カゴから白いマグカップを手に取った。


「よく見てろ」


功太は頷き、鈴一の右手にあるマグカップを凝視した。しかし、そこにはいつの間にか黒髪に白いワンピースの女の子が立っていた。


「あ、功太君だ! いっちーとお友達になってくれたの!?」彼女は目を輝かせた。すると次の瞬間、最初からいなかったように姿を消し、鈴一の右手には白いマグカップがあった。鈴一はそれを何度か繰り返した。マグは現われる度に「ちょっと何」「いっちーやめてよ」「怒るよ!」とか言っていた。


功太は目を丸くしていた。生まれて初めて、見ているものが信じられなくて目をこすった。


「どうだ。マグはただのマグカップだったろ」鈴一はなんでもないように言った。隣でマグが微笑んでいる。


「そう、私はマグカップなの。功太君、いっちーはちょっとひねくれてる所もあるけど根は優しい子だから」


「お前は親戚のババァか」


鈴一はマグをマグカップに戻した。


「す、すごい。なんでも変えられるんですか」


「なんでもってわけじゃない。それより、わかったんならもう心配事はないだろ。洗脳されてる女なんていないからな」


「いえ、メガネさんはどうなんですか。あの人も本当にメガネなんですか?」


「そうだよ」と鈴一は掛けていた黒縁眼鏡を外した。すると、彼の隣に今度はメガネが現われた。この前会った、茶髪の優しげな青年だ。彼は鈴一と功太を交互に見た。


「功太君、来てくれると思ってたよ」


「余計なことを話しやがって」


「通報されるよりましだろ? 彼は鈴一のことを犯罪者だと思ってたんだから」


「本当に、物を人に変えられるんだ……」


功太は信じられない出来事のせいか、背筋に悪寒を感じ鳥肌が立った。ふと、鈴一とメガネが自分から視線をそらしていることに気付いた。なんとなく、見ないようにしているように見える。


「どうか、しましたか?」


「功太君、すごいのついてるね」メガネが少し笑いを堪えながら言った。


「馬鹿、余計なことを言うな」冷ややかな表情の鈴一が、間髪入れず彼を眼鏡に戻した。しかし功太は、メガネが消え際に「ゆうれ」と言ったのを聞き逃さなかった。


「え、幽霊?」


「そんなものは存在しない。疲れやストレスで起きる脳の錯覚に過ぎない」


「俺、そういうの無理なんでやめてくださいよ」功太は恐る恐る振り返るがとくに何もない。


「……ごめん」


「あ、でも、最近夜中のぴったり同じ時間に目が覚めるあれって……」


「違う。それは不眠症の一種だ。中途覚醒っていうやつだ。慢性的になりやすから連日症状が出ても不思議じゃない。体内時計舐めんな。運動して飯食って寝ろ。俺もう出るから、帰ってくれる?」


と言いながら鈴一は功太を押し出して玄関ドアを半ば無理矢理閉じた。そして鍵を掛けると塩瓶を持ってきてさっと玄関に撒いた。



功太の部屋は二階にあり、階段を上がるとすぐに扉が続いている。両親の寝室は一階で、共働きの彼らが帰宅後、二階へ来ることは殆どない。


幽霊話は信じていないが苦手だった。厳密に言うと信じたくない、の方が正しいかもしれない。最近夜中に目が覚めるのも、鈴一の言うとおりストレスとか疲れとか、寝る前のネットサーフィンとか、そういうのが原因だろうと思う。


しかし、物が人になるという意味不明な現象を目の当たりにしてしまうと、幽霊も存在しているのかもしれない気がしてくる。


「ないないない」


功太は部屋で課題と予習をやりながら呟いた。ラジオからは軽快な音楽が流れている。


今まで心霊現象には一度も遭遇したことがなかった。親戚友人にも霊感のある人は一人もいたことがない。


残業から帰ってきた母と少し話をし、翌日の一コマに向けて早めに就寝することにした。父も残業らしい。


幽霊なんかいないと思いつつ、夜が更けるごとに妙な緊張を感じたので、きつめの筋トレをした。体を動かすと頭の中のごちゃごちゃが整理されていく。やっぱり幽霊はいないと思った。


とりあえず、寝る前のブルーライトはよくないのでスマホはベッドから手の届かない机の上に置いておく。体を動かしてほどよい疲労感があるので、今日はきっとよく眠れるだろう。功太は明かりを消して横になった。今日のことを思い出す。


あんな風に追い返されてしまったが、またマグに会いに行っても大丈夫だろうか。一度見ただけじゃ、彼女がマグカップだなんて信じられそうにない。マグカップになってしまう呪いをかけられた女の子である可能性はどれくらいあるだろうか。


もしそうだとして、その呪いを解く方法はあるのだろうか。


「そうなの。あの人に触られるとマグカップになっちゃう呪いをかけられてて、いっちーから逃げられないの……」


マグは目を潤ませて功太の手を握った。震えた声は切実に訴えかける。


「頼れるのは功太君だけなんだ。お願い、助けて」


「わかった、どうすればいいの? 呪いを解く方法は!?」


功太はマグの柔らかな手を握り返した。この子のためなら何でもできそうだ。


「ありがとう。呪いを解くにはね……」


マグが顔を寄せてきて、功太は息が詰まった。彼女は囁く。


「ちょーだい」


「え?」


「命、ちょーだい」時間の進みが遅くなったように、彼女の言葉が絡みつく。マグの声はこんなに低かっただろうか。彼女の顔はこんなに青白かっただろうか。いや待て誰だこれ。


「イノチ、チョーダイ」


荒い呼吸と共に功太は目を覚ました。ぎりぎりまで水中に潜っていたかのようだ。また夜中に目が覚めてしまった。いつもと違ったのは、呼吸が落ち着いてきた頃に、夢の内容を思い出したということだ。


目が覚める直前に見ていたのは、知らない女の化け物じみた顔だった。ばさばさの髪に、青白い顔、目と口は黒い穴だったような気がする。


思い出したら一気に恐怖がわき上がった。薄明るいと感じるくらいには目が暗闇に慣れている。さっき無意識に見ていた分には何も変な所はなかった。


スマホは机の上だが、体を起こす気になれなかった。動いたら何かが起きそうな気がしたからだ。目覚めた直後は暑くて仕方なかったのに、夢の内容を思い出したら今は手足が嘘のように冷えていった。汗が冷えて薄ら寒さを感じる。


ふと、階下で小さな物音がした。今日は父の帰りが遅いという話を思い出して、功太の体から力が抜けた。


やっぱり気にしすぎなんだ。あぁ、馬鹿みたいだな。思い込みってすごい。


明日、この話を友達に話そう。と思いながら気を取り直してあくびをする。また小さな物音がした。功太は体をこわばらせ、耳を澄ました。


また、小さな物音がした。


それが、ゆっくり階段を上る音だと気付いたとき、功太は急いで布団にくるまり丸くなった。目をつぶり、耳をふさぐ。


二階には功太の部屋と、今は他県にいる兄の部屋しかない。数回しか聞かなかったが、階段を上る音は妙にゆっくりだった。これが、両親のどちらかだったとしてもそれはそれで怖い。意味が分からないから。


泥棒だったらそれもヤバい。幽霊でもヤバい。なんにしろヤバい。


階段はそう長くない。あの速さならそろそろ上がり切っているだろうか。やっぱり部屋に鍵をつけて貰えばよかった。ちゃんと閉めてたっけ?


心臓が信じられないくらいどくどくしている。


何も起こらない。時間が過ぎているのかどうかもよく分からない。


功太は耳を押さえる手を緩めた。


その手に冷たい何かが触れ、耳元で声がした。


「チョーダイ」



それから功太は毎日同じような夢を見た。最初はいろいろだが、最後は女の化け物が現われる。そして目が覚めると物音と、耳元で声がする。覚悟していても怖い物は怖い。


寝た気がせず、講義も居眠りしがちだった。友人に話せる内容でもない気がして、体調を崩していることにした。寝不足のせいか、実際具合があまりよくなかった。


鈴一に話を聞こうと連日アパートを訪れたが、居留守なのか留守なのか誰も顔を出さなかった。一週間後、漸く顔を出した鈴一は、功太のげっそりした生気のない様子に目を細めた。


「……なんだよ」


「毎晩同じ夢を見て目が覚めるんですよ。耳元で『チョーダイ』って言うんです」


「気にしすぎ。夢はただの夢だ。目が覚めたのも夢、チョーダイ言われたのも夢、金縛りも夢」


「あれが憑いてるんですよねどうにかできないんですか。知り合いに詳しい人いなくて……。助けてください……」


功太は鈴一に詰め寄った。鈴一は考える素振りをし、息を吐いた。


「ごめん。俺は、見えるだけなんだ。払い方とかは知らない。塩風呂にでも入れば?」淡々と言う。


「塩風呂?」


「浄化効果があるらしい」


「もう帰りたくないんですけど」功太は泣きそうになりながら言った。


「お前に憑いてるんだから、場所は関係ないと思う」


「……どんな感じなんですか。俺の後ろにいるんですか」


「今は見えないけど、いるんだろうな。この前は背中にくっついてた」


「……そうですか」


「塩風呂に入れ。塩は一袋入れろ。但し放置するとバスタブ悪くなるから上がったらすぐお湯抜けよ。塩化ナトリウムは偉大だ。信じろ。それでもだめなら寺に行け」


功太はスーパーで食塩一キロを買って帰った。それを全部溶かして湯船に浸かった。いつもの三倍は汗をかいたような気がする。そして肌がすべすべになったような気がする。心なしか体がスッキリしたように感じた。


そして、その日は夢も見ずに朝までぐっすり眠ったのだった。

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