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陶器な白肌

後藤鈴一の部屋は、単身者向けのワンルームだ。外観は古いアパートだが、リフォーム済みで内装は綺麗割と綺麗である。

布団の中でごろごろとしていた鈴一は、寝たまま座卓の上にあるマグカップを手に取った。飾り気のない白いマグカップだ。すると彼が持っていたはずのマグカップは消え、その手は枕元に現われた若い女の膝に乗っていた。鈴一は、自分の物を人の姿に変えられる力を持っていた。


「おはよ!」


マグカップが姿を変えた女は、長い黒髪を垂らし、くりっとした目で嬉しそうに鈴一を見ていた。鈴一はだるそうに「マグ、ゴミ出し」と言った。


「あ、今日金曜日だもんね。わかったー」


彼女は白いワンピースの裾を翻し、玄関にまとめられていたゴミ袋二つを持って、軽やかに部屋を出て行った。ゴミ捨て場はすぐ目の前なので、一分もしない内に帰ってきた。再び鈴一の枕元に座り、顔をのぞき込む。


「起きないの? いっちー。仕事は?」


「休み」


「へぇ、それなら朝ご飯を作ってあげよっか!」マグは最高の考えが閃いたというような表情で言った。


「やめろ。食い物には触るな、絶対に」鈴一は目をつぶったまま言った。途端にマグはつまらなそうな顔をした。


「何よ。ケチ。あ、そうだ、郵便受けにチラシが入ってたの。新しいお菓子屋さんがね、オープンだって。今日から。オープン記念の特別なマカロンを売ってるって! 私、食べたい!」


「うるせぇ」


「もう九時になるよ。休みなんでしょ? ゲームばっかしてないでさぁ、出かけようよー。いっちー、ねーねー」


マグカップは鈴一を揺すった。薄目を開けた彼の目に、白いワンピースの胸元にできた見事な谷間が映った。


鈴一が寝床から抜け出したのは結局昼過ぎになってからだった。空腹に冷蔵庫を開けると、殆ど空だった。しなびたエノキが一掴みあるだけ。そういえば、昨日はすっかり疲れて買い物を後回しにしていた。



鈴一はあくびをかみ殺しながら、サンダルを引きずって歩いた。マグは彼の腕に手を引っかけて、うきうきしながらすれ違う人々を見た。鈴一がこうして外に連れ出してくれるのは珍しいので嬉しかった。


「ねぇ、今度は私がお使いに行ってあげる。いっちーは忙しいから、食材は私が買っておいてあげるよ」


「お前はだめだ。勝手に食うから」


「ケチー。ちょっとくらい良いじゃん」マグカップは不満そうに頬を膨らませた。


「我慢するから、とか言えないのか。メガネは勝手に食べたりしない」


「おいしそうなんだもん。我慢なんてできないよ。メガネっちだって絶対こっそり食べてるよ」マグはぶつくさと言って、鈴一の掛けている黒縁眼鏡を睨み付けた。


「外に出られただけありがたく思うんだな」


「ケチー! あ、犬だ! かわいー! いっちー、あれって何の犬?」マグの興味は向こうから来た老人の連れた犬に変わった。茶色い毛のふさふさしたやつだ。


「あぁ……ポメラニアン」


「いいなぁ。ポメラニアン。犬、飼ったら? 私が散歩してあげるから」


「アパートで帰るわけねーだろ面倒くせぇ。犬はお前らで十分だ」


「そうじゃなくってぇ、全身毛むくじゃらの生き物と触れ合いたい!」


「はいはい」


「もー。せめてあのポメラニアンと触れ合ってくる!」


鈴一は犬の元へ走り出しそうになったマグの手を掴んだ。


「寄り道はしない。腹減ってんだよ」


「あーん、ケチ―」


マグは、目に焼き付けるように茶色の犬に熱い視線を送った。


徒歩十分ほどのスーパーにて食材を買い、帰り道でマグが駄々をこねた。


「お菓子屋さんに行きたい」とチラシ片手に鈴一の腕を引っ張る。いい加減面倒になった鈴一は、それを乱暴に振りほどいた。


「俺は疲れてる。行きたいなら勝手に行け」


「酷い! いっちーの馬鹿! もう知らないんだからね!」


と言って走り出すマグ。帰る鈴一。



菅原功太は実家から大学に通っていた。その日は講義が午後に一つあるだけだった。駅までの道に新しい洋菓子店ができるのは知っていた。甘い物が特別好きなわけでもなかったので、それ程興味があるわけでもなかった。


塗り壁に、ステンドグラスの嵌められた木製の扉があり、その隣に木枠の小さな窓がある。ぱっと見では何の店か分からない。ただ、オシャレな雰囲気が漂っていることは間違いなかった。


きっと高いんだろうな、と思って視線を店から戻したとき、女の子とすれ違った。白いワンピースに黒髪を揺らし微笑む子。功太の目は釘付けになり彼女の動きを追って振り帰った。


女の子は店の前に立つと、手に持った紙と店の看板を見比べていた。そして、小さな窓から中を恐る恐る覗いた。年の頃は二十歳前後だろうか、胸が強調されるような形の服装の割に、飾り気はあまりない。


「入らないの?」そんな風に見知らぬ人に声を掛けたのは初めてだった。功太は自分でも驚いていた。思う前に言葉が出ていったのだ。


マグは少し驚いた顔で功太の方を見た。


「だって、どうせ食べられないし。私、お金持ってないから」


「よかったら、ご馳走しようか? イートインがあるみたいだし」


「え? 良いの?」彼女の顔がぱっと明るくなった。


「うん、おやつにはまだ早いかもしれないけど……」功太は店の扉に手を掛けた。『open』の札が揺れ、小さな鈴が鳴った。


「で、でも……」


「とりあえず、もうちょっと近くで見てみれば?」そう言うと、納得したように彼女は功太に続いて店内に入った。


明るい店内には入ってすぐにケーキの並んだショーケースがあり、右側の棚には焼き菓子、左手には小さなテーブルと椅子が置いてあった。生憎席は埋まっていたが、並んでいる客はいなかったので、ゆっくりケーキを眺めることができた。


値段は学生には少しお高いが、バイト代が入ったばかりなので問題ない。女の子は目を輝かせてケーキを見ている。功太はケーキを見るふりをしつつ、彼女を見ていた。


陶器のような白く滑らかな肌に、まっすぐな黒髪。


「食べてみたいのはあった?」


「うーん、フルーツタルトかなぁ。カラフルで綺麗」


功太はフルーツタルトとチーズスフレを注文した。ちょうどテーブルが一つ空いたので、食べていくことにする。


「ほ、本当にいいの!?」


「うん。飲み物はどうする? コーヒーか紅茶だって」


「わかんない。あなたと同じやつにする」


「そ、そう」紅茶を二つ頼んだ。


大きめのケーキ皿と飲み物を置くと、小さなテーブルはそれだけで一杯になった。女の子は嬉しそうにイチゴの欠片を口に運んだ。


「おいしい! こんなにおいしいの食べたことない」


「よかったね。俺も一人じゃ入りづらかったから、ちょうどよかったよ」


「そうなんだ。甘い物が好きなの?」


「うん、まぁ」


「ねぇ、名前なんていうの?」


「菅原功太、大学生。君は?」


「私はマグ。マグちゃんて呼んでいいよ。だから私は功太君て呼ぶね」


「珍しい名前だね」


「うん。気に入ってるの」とマグは笑った。


「マグちゃんは、学生?」


「ううん」と彼女は首を横に振る。「お世話係」


「お世話係? 何の?」


「いっちーの。手の掛かる男の子でね、休みの日はゲームばっかりしてるから、ちょっと心配なんだ。功太君は、学校がない日は何してるの? 出かけたりする?」


「うん。写真を撮るのが好きで、たまに出かける。ちゃんとした機材を持ってる訳じゃないんだけどね」


功太はスマホに入っている画像をいくつか見せた。植物が好きなので花の写真が大半を占めている。


「わぁ、綺麗。いっちーもこういう趣味があればよかったのに。そうしたら、功太君みたいな友達ができたかもしれないのにね」


「でも俺もゲーム三昧の生活をしていた時期があったよ。やめるときって、以外とあっさりやめるから、そんなに心配しなくても大丈夫だと思うよ」


「そうかなぁ」


「今日はお世話係はお休み?」


「うん。ちょっと喧嘩しちゃったから」


帰り際、功太は連絡先を聞いたが、マグはスマホなど連絡が取れるものを持っていなかった。その代わり、マグは住所を教えた。よかったら遊びに来て欲しいというのだ。


今時スマホも持っていないというのも珍しい。しかし、教えたくないだけなら住所だって普通は教えない。


不安を感じるくらい願ったり叶ったりの展開に、功太は浮き足だった。午後の講義には間に合ったが、内容が全く頭に入らなかった。



功太がそのアパートを訪れたのは、マグと出会った次の週だった。スマホにメモしておいた住所には確かに彼女が言った通り、古ぼけた二階建てのアパートがあった。手前の階段を上ったすぐそこに、目的の部屋がある。二〇一号室の表示の下に、『後藤』と印字された白いテープが貼ってあった。


マグというのは名字かと思っていたが下の名前らしい。一体どういう字を書くのだろう、と話すのを楽しみにしつつ、呼び鈴を鳴らす。ドアの向こうで声が聞こえて、解錠の音がした。


「功太君! 来てくれたんだ」この前と同じ、白いワンピースを着たマグが顔を出した。


「うん、連絡もなしにごめんね。でも方法がなかったからさ」


「いいのいいの」ふふふ、とマグは嬉しそうに笑った。功太も照れたように笑う。とそのとき、部屋の奥から「おい」と声がした。男の声だった。


「誰だよ」マグの後ろに男が現われた。丸い黒縁眼鏡を掛けていて、不機嫌そうな表情をしている。功太は少し焦った。


「えっ……?」


「この前ね、知り合ったの。功太君だよ」


「なんで部屋を教えんだよ。馬鹿か」


「ひどい! 功太君はすごくいい人なんだからね! 功太君、いっちーだよ」


「え……!?」思ってたのと違う。小学生くらいを想像していた。


「……お二人は、付き合っているんですか?」いまいち状況がよくわからない功太は恐る恐る尋ねた。


鈴一は面倒くさそうにため息をついた。マグが首を横に振る。


「違うよ。私はいっちーのマグカップだよ。言ったでしょ? お世話係だって」


「いや、お世話係って何!?」


「ゴミ出ししたり、洗い物したり、とか?」


どういう事情があるのか知らないが、この二人は一緒に生活しているらしい。


「この女のことは忘れろ。これは俺のだ。帰ってくれ」


「え、あ、いや、その俺はただマグちゃんとまた話がしたかっただけで……」


功太は閉まりかけたドアを掴む。咄嗟のことに体が勝手に動いていた。鈴一が彼を睨んだ。マグが鈴一をドアから離そうとする。


「いっちーったら休みの日はゲームばっかりでつまんないんだもん。遊ぶ友達ができれば私も楽しいと思ったの。功太君いい人だよ」


「余計なお世話なんだよ。俺は毎日充実してる。放っておけ」


「功太君、お茶でも飲んでけば?」


と功太に微笑みかけた次の瞬間に、マグの姿が消えた。まるで始めからそこにいなかったように、瞬きの間にいなくなってしまった。


「あ、あれ?」


「マグなんてやつは存在しない。これで用はなくなっただろ」


功太は呆然と鈴一を見た。そして、その手に白いマグカップがあることに気付いた。


「マグカップ……。え? どういうこと?」


「はい。さようなら」鈴一は今度こそドアを閉めた。マグがよく分からないいなくなり方をして、夢でも見ていたような気になってしまった功太は力なく腕を下ろした。なんだったんだ。



「あーあ、折角かわいいマグちゃんが連れてきたのにー」と、マグは頬を膨らましてぶつくさ言った。鈴一は大げさにため息をついた。


「いつ誰が頼んだ? 個人情報を勝手に人に教えるんじゃねぇ。世の中はお前が思ってるより物騒なんだぞ」


「ぶー」


「またやったら二度と外に連れて行かないからな」


「ワカリマシター」


「……」


「もう、分かったってば」



功太は悶々としていた。


「私はいっちーのマグカップだよ」という彼女の言葉が頭の中をぐるぐると回っている。だからマグなんて名乗ったのだろうか。いっちーと呼ばれていたあの男。果たして彼は最初からあのマグカップを持っていたか。思い出せないけど持っていなかった気がする。


何か、手の込んだマジックだったんだろうか。それとも、美人局にあうところだった? でも二人は付き合っていないと言うし、結局追い返されたし。


大体、付き合ってもいないのに未成年の女の子と暮らしてるってどういうこと? 兄妹にしては顔が全然似ていない。いや、兄妹なのか?


もしかしたら弱みを握られた上に洗脳されて逃げられないのかもしれない。だから自分のことをマグカップだなんて言ったんだ。あんなに可愛いのに。


目の前から彼女が消えたように見えたのも、功太自身が男の洗脳に少しかかっていたと考えれば納得がいく。危なかった。


それが一番筋が通っているような気がして、功太は一度深呼吸した。今までごく平和に暮らしてきた彼にとって、それは現実離れした恐ろしい事件だった。


警察に通報する前に、もう一度確認することにした。怖じ気づいてアパートの前を通り過ぎること数日、漸く決心が付いた。


この前来たときは完全に浮かれていたが、今回は重々しい緊張感に包まれていた。階段を上がる自分の足音も妙に響く。


呼び鈴を一度鳴らすが、応答はなかった。もう一度押してしばらく待つ。ドアの向こうに人の気配は感じられない。のぞき穴を覗く勇気はない。もしかしたら、この小さなレンズの向こうから、あの男がじっと様子を窺っているかもしれない。


だめだ。いないのかもしれない、帰ろう。


と残念な気持ちと小さな安堵の混じるため息をついたところで、ドアが開いた。しかし、そこにいたのはマグでもあの男でもなかった。


「こんにちは。もしかして、功太君?」


「……そうです。が、あなたは……」


「俺はメガネ。鈴一なら仕事に行ってるから、マグには会えないよ」


功太は後退った。被害者は一人じゃなかった。


「……珍しい名字ですね」


「名字とかじゃないんだけどね。俺が眼鏡だから、鈴一はメガネって呼ぶんだ。それにしてもマグも懲りないなぁ。前にもこんなことがあってさ。でもまた来てくれるなんて、君も物好きだね」


彼は茶髪で鼻が高く、目もぱっちりしていた。メガネと言う割に眼鏡は掛けていない。


「あの、大丈夫ですか?」功太は言った。


「え? 何が?」


「あなたは眼鏡じゃなくて人間ですよ。あの男にヤバい薬でも飲まされたんですか?」功太は声を潜め、冷や汗をかきながら階段の方を見た。こんなことを本人に聞かれてただで済むわけがない。


メガネは功太の様子を不思議そうに見ていたが、合点がいったのか急に笑い出した。


「違うよ。違う違う。あはは、鈴一はそんな犯罪者じゃないよ」


ちょっと待ってて、と言うとメガネはマグカップを取ってきた。あの白いマグカップだ。


「鈴一はね、物を擬人化できるんだ。俺は確かに人間の姿をしているけど、本当は彼の眼鏡なんだよ。それで功太君が会ったマグは、この白いマグカップなんだ」


「いや、そんなの信じろって言うんですか」


「事実だからね。それ以外に説明しようがないし。そうだ、明後日は仕事が休みだから、よかったらもう一度来てみて。鈴一に実際見せて貰った方が話が早い。きっとマグにも会えるよ」とメガネは優しく微笑んだ。


「今、眼鏡の姿に戻れないんですか」功太はどうしても信じられず、食い下がる。


「自分じゃ戻れないんだ。でも三時間が限度でね、もうすぐ時間だ。見せてあげたいところだけど、眼鏡に戻ったら部屋の鍵を掛けられない。鈴一に怒られるからさ、今日はこれで勘弁してね」


明後日の昼だよ、と言ってメガネはドアを閉めた。鍵の掛かる音がした。功太はネームプレートを見上げた。二〇一号室、後藤。間違ってはいない。


「後藤、鈴一……」


これ以上首を突っ込んではいけない気がした。しかし、本当のところは一体なんなのか、興味が膨らんでいるのも事実だった。

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