第六話:天寵
「こっ、の……ちょこまかとぉ……!」
唐突に膨れ上がった魔力を追って来た俺が目的の場所にたどり着いて、最初に見たものは予想通りで──あってはいけないはずの光景だった。
天に手を掲げて、魔力を集中するエリナの頭上には、膨大な魔力が込められた氷の剣が生成されていた。
アイスブレード。剣の形に氷の魔力を凝縮した、攻撃魔術だ。甚大な冷気を込められて放つそれは、鋭利で強靭な刃であるだけでなく、何かに突き刺されば与えられた魔力を開放して全てを凍りつかす裁きの杖でもある。
エリナが生成したそれは、解き放たれればこの山ごとを凍りつかせる程の魔力が込められていた。一度地表に突き刺さればこの山の植物は全滅し、生態系に絶望的な被害を与えるだろう。後先を考えない兵器の様に身勝手な魔術だ。
黒曜庁の魔術師──その中でも特に優れた彼女の凄まじさを語るような、絶技。
氷魔術の使い手でいえば、国で見ても五指に入るだろう。それがエリナだった。
──しかし、この場にあっていけないものは、それではない。
その魔術は、ある意味では在って当然なものだ。彼女がその気になれば、これくらいは出来るという証明でもある。
あっていけないのは、それを構えるエリナの姿だった。
彼方此方が切り裂かれ、血を流すその姿はまさに満身創痍。それだけの力を持つ魔術師が、俺が駆けつけるまでの数分でこうまでなっていることこそが、有り得ない事だった。
「死、ね……っ!」
対峙する魔物へと憎悪を込め、エリナは超魔術を解き放つ。
絶対零度の塊とも言える殺意は、当たらずとも地に刺されば対象ごとこの山を死の世界に導くだろう。
だが──
「ウォオオオオウッ!」
対峙する魔物が一際強く吠え、力強く尻尾を振るうと、そこから黒い三日月のような衝撃波が放たれた。闇の魔術だ。野生が使うそれに名前は無いだろうが、原理は闇の魔術の『穢月─グリーフムーン─』と同じだった。
刃の形に魔力を圧縮して放つのは、それなりの難易度を持つ。自然界でそれを扱えるような魔物は、いないはずだ。
放たれた闇の刃に驚くが、驚愕はそれだけにとどまらない。
軽く放たれた闇の刃が、氷の剣を砕いたのだ。
それだけでは勢いは死なず、闇の刃は回転しながらエリナへと向かう。
「ぐっ……!」
打ち砕かれるはずのない魔術が打ち砕かれるも、エリナは冷静だった。
瞬時に避けようと飛ぶも、僅かに反応が遅れたため闇の刃は少女の肩を掠めていく。
その勢いに体勢を崩すと、エリナは地に倒れたまま出血する肩を抑えた。
……俺がたどり着いた時には、既にこの状況だった。
僅かに目を見開くも、動きは止めずに二刀を抜き放つ。
「……!」
黒い影が、倒れるエリナに追撃を加えるのが見えたからだ。
飛びかかると同時、爪を振り上げる黒い影。
俺は、そこへと割って入る。
二刀を交差させ、爪を防ぐ。……生中な魔物であれば、逆に脚を切り飛ばしていたところだろうが──魔力と魔力がぶつかる時の、金属音のような高い音が響く。小柄な獣に受ける衝撃だというのに、それはまるで山がのしかかったような衝撃だった。脚を埋められると不味いと、魔力で地面を保護する。
すると、魔物の影は追撃を加えずに後方へと飛び退いた。これだけの力を持っているにも関わらず、油断の無さが伺える。
賢いな。
「あ、あなた……」
魔物から隠すようにしたエリナが、背から弱々しい声を発する。
その声には明らかな困惑が見て取れる。……黒曜庁において、傷ついた仲間を助けるというのは、悪徳の一つとされているからだ。
今の場合は、エリナに追撃を加える魔物を、横合いから斬りつけるのが『流儀』である。
まして、普段から衝突している相手だ。助けるメリットは無いはず。
黒曜庁の長たるヴェズダーの教えを、最も色濃く継いでいるであろうエリナには、同じく──いや、それ以上にその考えに染まっていなければならない俺の行動が、理解できずにいるようだ。
「喋るな、傷が深い」
背からの声に振り返ること無く、戒める。
案じている様子は伝わったのか、エリナは声をつまらせながらも、疑問を呑み込むことにした様だ。
正直、ありがたい。どうも、問答している場合ではないようだから。
「さて──」
僅かに衝撃が残り、痺れる腕を振るう。すぐに感覚は戻ってきた。この程度ならばまだ問題は無い。
ここで、ようやく俺は『敵』の姿を確認した。
敵の姿は、果たして──狼であった。その体毛は美しい漆黒、この国ではめったに見ることがない夜空のよう。鋭い爪は一本ごとが名工の作品を思わせる機能美に満ちていた。
……予想はしていたが、まさか本当に、彼の者だとは思わなかった。
「ディルグロイク、か」
その姿を確認し、俺は呟く。
黒狼ディルグロイク。かつて山で見た『伝説の魔物』の、より成長した姿。
恐らくはまだ完全に成長しきってはいないのだろうが──対峙する黒狼の放つ魔力は、成体のディルグロイクのそれを遥かに上回っていた。
「気をつけなさい……ただの、ディルグロイクじゃない……」
喋るなと言いつけていたにも関わらず、エリナは息も絶え絶えに警告を発する。
見れば判る、とは返さなかった。通常のディルグロイク程度ならば彼女にとって問題にならないことは知っていたからだ。
……天寵。そんな言葉を思い出す。
魔物の中には、時折『天に選ばれたかのように』強力な力を持つ個体が生まれることがある。それは、そんな現象の名前だ。
天寵を得た個体は、同じ種類の魔物とは姿形を同じくしながら、全く別物の存在となる。
そのディルグロイクは、まさにそれだったのだろう。知識としては知っていたが、実在するのも知らなかったほどだ。素直に、驚いていた。
発する魔力は、規格に当てはめることこそが愚かだろう。
極稀に姿が確認される『ディルグロイク』とは明らかに違う『伝説の魔物』が、今俺の前に立ちふさがっていた。
……しかし、それ故にだろうか。
ディルグロイクは、牙をむき出しにし、低い唸り声を上げている。
その表情には余裕がなく──憎悪? 嫉妬? まるで人間のような負の感情が見て取れた。
一つだけ確かなのは、ディルグロイクが憤っているということだ。噴火する直前の火山を思わせる、強大な力を静かに滾らせている。
「ヴォウッ!」
どけ、と言わんばかりにディルグロイクが吠える。
状況から判断すれば、獲物にとどめを刺す瞬間俺が邪魔をしたことで怒っているのだろうか。……前に岩山でディルグロイクを見たときとは逆の立場だと思った。巨熊ではなく、ディルグロイクを前に、俺は二刀を構える。
戦意を感じ取ったのだろう、ディルグロイクは姿勢を低くし、さらなる殺意を見せた。
しかし膨れ上がる殺意に反して、ディルグロイクは慎重だった。
横歩きをしながら機を伺うその姿に、油断はない。天寵を得た凄まじい魔力を持っているにも関わらず、だ。
ディルグロイクは賢いとされるが、その態度は異常に見えた。
エリナを下す程の力を持っていれば、まず敵はいまい。烈火の如き怒りを浮かべつつ、同時に臆病な程の慎重さを見せる様は、まるで俺を知っているかのように、最大級の脅威として扱っているように見えた。
野生の魔物には見られぬ様子に訝しんだのも一瞬。俺は意識を戦闘へと引き戻した。
俺に退く意思が無いことを確認してか、黒狼は一度小さく吠えてから、宙返りをするように身体を回転させる。
振り回された尻尾から、黒い魔力の球が生成される。
勢いに導かれるまま、魔力球は俺へと向かってきた。
無造作に放たれたはずのそれに込められた魔力は、凄まじい。
恐らくは範囲を絞っているが、指向性を持たせねば街一つ消し飛ばすのは容易いといったところだろう。
「(中々の魔力だ、だが──)」
だが、その思惑は牽制程度。それは受ける側の俺も変わらない。
魔力を纏った剣の腹で暗黒球を叩くと、いつだかオディウムルスがしたように、容易く弾くことが出来た。
だとするならば。この暗黒球と同調して攻撃を仕掛けてくるのは明白だ。だからこそ、あえて弾き飛ばすという選択肢を取っていた。あの程度の力しか込められていないのならば、魔力の波動を放てばかき消すことが出来るのだが、出方が見たかったのだ。
……右か、左か。ディルグロイクが得意としているであろう遠距離魔法との同時攻撃。その狙いは──
暗黒球の死角に隠れていたディルグロイクは、姿を表すや、俺が暗黒球を弾き飛ばした右の方向へと向かって地を蹴った。
使ったばかりの右ならば、すぐさま二度目の防御行動はとれないと思ったのだろうか?
……いや、違う。
「何……?」
ディルグロイクの狙いは、俺ではなかった。
俺から見て右の方向へとその身を踊らせたディルグロイクは、もう一度、前へと地を蹴り加速した。
そこにいたのは、なんとか立ち上がり、木に体重を預けていたエリナだ。
「……っ!?」
それはエリナにとっても予想外の行動だったのだろう、目は驚愕に見開かれ、言葉が詰まった息が出る。
この状況でさえ、飽くまでエリナを狙う意味が、俺にはわからなかった。
完全に裏をかかれた形になる。
間に合わない。ディルグロイクの速度は、俺でも驚くものがあった。
闇の魔力を纏い、『力』の弾丸となったディルグロイクがエリナに迫る。移動と攻撃を兼ねたそれは、最速の攻撃を狙ってのものだろう。
世界が遅く感じる中、エリナが残り少ない魔力で防壁を張ったのが分かった。
しかし強大な魔力の前にそれは残り滓のようなもの。文字通り薄氷の防御はいとも容易く突き破られる。
「──か、は……っ!」
防壁を突き破られた衝撃が、エリナの身体を突き抜ける。
それでも即死は防いだのだろう、苦悶の息が少女から漏れ出した。
……なんとか、生きている。しかし、事態は未だ最悪を続けている。
折れた木くずと共に、エリナの身体は宙を舞う。
勢いに導かれていく先は、谷の底だ。
「……!」
思わず息を詰まらせる。
最後の防御で、エリナの魔力は残されていないだろう。ただの少女が谷底に落ちたら、何が起きるかは想像に難くない。
気がつけば、走り出していた。
『敵』に対しての警戒さえ忘れ、エリナに向かって走り出す。
途中ディルグロイクとすれ違うことになるも、その隣を駆け抜けた俺はエリナへと辿り着く。
そのまま崖の向こうへ飛ぶなどと、気の利いたことは出来ない。それよりも、今は落下の勢いを利用してでも敵を引き離すことが重要だ。
エリナを抱きかかえ、俺は谷底へと落ちていく。
ディルグロイクは、此方を見下ろしていた。その顔は、より深い憎悪に染まっている──