第三話:始まりの悪夢
「のうユーリ。あの二匹の戦いをどう見る」
風荒ぶ冬の山にて。俺は、ザウル=エリンと共に『課外授業』へとやってきていた。
言葉に導かれ、視線を下ろした先には、二頭の獣が対峙していた。
片方は、巨躯を持つ銀毛の熊だ。その体を覆う毛は一本ごとが針金のようであり、天然の鎧のようだ。名前は、オディウムルスという。
それに立ち向かうは、漆黒の毛をなびかせるディルグロイクという名の狼だった。その美しい夜空の如き体毛は、チェムナータではしばしば神聖視される。
どちらも、発見されるだけで軍隊が動くほど強力な魔物だ。ギルドで討伐依頼を扱うのならば、危険度Sランクといったところだろう。
しかし──同じ等級でも、今回の場合はオディウムルスが圧倒的な有利を持っていた。
なぜならば──
「ディルグロイクはまだ若い仔の様子。恐らくは、オディウムルスに軍配が上がりましょう」
伝説の黒い狼は、まだ若い個体だったからだ。
ザウル=エリンの問いに対し、俺は見たままを答える。
問い掛け、というよりもそれはただの確認だ。そんな当たり前のことはザウル=エリンとてわかっているだろう。
それを証明するように、眼下で戦いが始まる。
最初に動いたのは、オディウムルスの方だった。丸太のような腕を振り上げ、力任せに振り下ろす。ディルグロイクまでの距離は長く、単純な物理攻撃ならば届かなかったろう。
しかしその凄まじい怪力に魔力が乗せられることで、岩場に叩きつけられた爪は亀裂とともに地を走る衝撃波を生み出した。
衝撃波の奔るスピードは凄まじい物がある。が、動き自体は直線的だ。
ディルグロイクは衝撃波を躱すべく斜め前へと飛び上がり、同時に回転すると闇の魔力が込められた弾を生み出した。
タクトを振るうように尻尾を薙ぎ払うと、漆黒の魔力球は意志を与えられたかのように巨熊へと向かう。
オディウムルスは鬱陶しそうにそれを払った。……弾かれた魔力球は十メートル近くある岩山を跡形もなく吹き飛ばす。
それほどの威力がある弾を意に介さず振り払ったオディウムルスだが、ディルグロイクにとってもその程度は牽制にすぎなかった。魔力球と同時に飛びかかっていたディルグロイクの爪が、オディウムルスの肩口を捉える。
上から振り下ろされる爪をまともに食らったその衝撃に、オディウムルスの脚が岩場にめり込んだ。
それさえも、オディウムルスの防御力の前には無意味だった。力任せに腕を振るうと、ディルグロイクが弾かれ、飛んでいく。
真っ白な岩場に、赤い雫がこぼれ落ちた。
やはり、予想通りだ。これ以上見ていても、天秤が傾くことはないだろう。
本来魔物としての格はディルグロイクのほうが圧倒的に上だが、あの黒狼はまだ赤子に近い子供。
圧倒的な攻撃力、防御力の差は残酷だ。オディウムルスに無い知恵を駆使して、ようやく食い下がれると言う程度だった。
「なるほど、なるほど。それは惜しいのう。あの漆黒の毛を見てみよ。美しいものではないか」
眼前で神話の戦いが行われるも、ザウル=エリンの様子は変わらない。
いかに伝説の狼といえども、悪鬼羅刹を体現する巨熊といえども、ザウル=エリンの前ではそこらの犬ころと変わらない。ただ単に、あの狼の毛が美しいと。彼が感じるのはそれだけだ。
それでも、その美しい毛が失われるのは本当に惜しいと思っているようだった。
闇の国とも称されるチェムナータにおいて、黒や闇といったものは特別な価値観を持っている。その国の実質的な指導者といえる彼もまた、美しい黒には思うところがあるのだろう。
「のうユーリ、あの黒狼が勝つにはどうしたら良いと思う?」
「さて。未熟な私には考えつきません。かの狼が天に選ばれし者ならば、奇跡でも起きるかもしれませんが」
けたけたと笑いながら、ザウル=エリンは試すように問い掛けを続ける。
何度聞かれても、黒狼の勝ち目は万に一つもない。
自然界において、仔であるか成体であるかは、これほどまでに大きな差となる。
それこそ──天に選ばれた者でもない限りは、勝ち目は、ない。
「ですが」
勝たせる方法ならば知っている。
少し散歩にでもいってくる、とでも言わんばかりに、俺は気安く前へと一歩を踏み出した。
続く足場は無い。ふわりと、身体が自由落下を始める──眼下で行われる、熾烈な戦いの元へ。
俺は音もなく、狼と熊の間に着地した。
重い怪我で脚を震えさせる狼から困惑が、獲物に止めをさそうとした瞬間を邪魔された熊から怒りが伝わってくる。
くぐもった吐息としてその激怒を吐き出し、オディウムルスが走り出す。
俺が剣を抜くのは、それを確認してからだった。
肉薄するオディウムルスが、鋼の毛に覆われた筋肉の塊を振り上げる。
すると振り上げた勢いのままに、オディウムルスの左腕が飛んでいった。
熊の腕が振り上がるよりも早く、俺の剣が豪腕の付け根からを切り飛ばしたのだ。
予想さえしていなかったのか、オディウムルスの動きが一瞬だけ停止する。その一瞬は、生態系の頂点に立つオディウムルスには有り得ないはずのものだった。
停止するオディウムルスの腹に、開いた左手を添える。
「『ダークボム─闇爆─』」
唱えるのは、闇の基礎魔術。先程ディルグロイクが放った暗黒球と同じ魔術だ。
ただしその威力は全くの別物だが。
生成された魔力球が直にオディウムルスの腹に触れると、亡者の喉に開いた穴から漏れる叫びのような音を立て、オディウムルスの腹部が消し飛んだ。
軽くなった身体がその勢いを殺しきれず、紙くずのように吹き飛んでいく。
仰向けに倒れ伏したオディウムルスは胴体の大部分を失い、わずかに痙攣してからすぐ屍となった。
万に一つも勝ち目がない強敵が、闖入者に数秒で屠りさられた。
ディルグロイクは賢い。その事実で力関係を理解したのだろう、恐怖に震えながら、油断なく俺を見つめている。
だが俺は本来ならば圧倒的な強者であるはずの黒狼が隙を伺うのも意に介せず、ザウル=エリンへと向き直った。
自分でも気付かず笑顔を浮かべていた辺り──俺も、染まってきてしまったのだろうか。
「ですが」
先程言いかけた言葉を、やり直す。
天に選ばれた者ならば、奇跡でも起きるかもしれない?
それは、僅かに正しくない。
「それを選ぶ星(天)こそが、ヴェズダーでございます」
俺の答えに、ザウル=エリンは表情を愉悦に歪めた。
支配者としての『自覚』に満ち溢れたその言葉は、ザウル=エリンが期待する通りのものだったのだろう。
「素晴らしい!」
師の賞賛を前に、俺は口角を吊り上げる。
『闇の寵児』の心は氷点下の風に晒されてなお、喜悦に火照っていた──
◆
「……嫌な夢見たなあ」
温かで柔らかなベッドの上で目を覚ました俺は、寝ぼけてくぐもった声を漏らした。
夢に見ていたのは、三年くらい前にザウル=エリンと出かけた山での出来事だ。
ザウル=エリンの前だと比較的ノリノリなユーリ=ロマノフに恥ずかしいやら空恐ろしいやらが混じった複雑な思いを抱きながら、上体を起こす。
「思えばあの頃からすごい勢いで染まり始めたよなー……マジでヴェズダーとかになっちまったらどうするよ……ゲームだったら絶対ラスボスだぞラスボス……」
悪の帝国を裏から操る事実上の支配者。そんなものになってしまった自分を思い浮かべて、俺は身震いした。
流されるままに生きて、流された先で頑張る。そんな人生哲学が間違ってるとは思いたくないが、このままだと本当に取り返しがつかなくなる気がする。
かといって、ザウル=エリンと離れる機会のないこんな場所では、やれることもないのだが。
絶対者の機嫌を損ねないようにと、気に入られようとするとどうしても『鋼太郎』を『ユーリ』に傾けなければならない。
いっそ逃げれば楽になるかもしれないが──なまじ理想の弟子を演じていたせいか、ここ数年でザウル=エリンの方も俺に対する執着心みたいなのが出てきてる気もするし……これはもうダメかもわからんね。
頭をかきながら、時計を確認する。嫌な夢を見たせいか、寝る前と比べても針は然程進んでいない。
晩飯まではまだ時間がある。
本など読んで暇を潰すか、寝てスキップしてしまうか。そんな選択肢を浮かべたのは一瞬のこと。
もう一寝入りするか。一番の娯楽を即決すると、俺はまたベッドに倒れ込む。
「ユーリ=ロマノフ、在室しているか」
……が、部屋の外から俺の名を呼ぶ声に、ベッドから弾かれた様に上体の角度が戻っていく。
せっかく人が寝なおそうとしていたものを。
これが候補生の声ならば気づかぬふりで目を閉じただろうが、その声が指導官のものならば仕方がない。
候補生期間を耐え抜き、正式に黒曜庁に認められたエリート。そんな彼らが候補生という下の身分を呼びつけるのではなく、わざわざ呼びに来るという事は、それが誰から命じられたかを語っているようなものだ。
正装のローブを纏い、天井を見上げる。
……よし。
意識を切り替え、ドアを開いた。
「ございます」
「よろしい。ヴェズダー=ザウル=エリンがお前を及びだ。至急星皇の間まで向かうように」
やはり、予想通りだ。
それだけを伝えて去っていく姿を見送ると、ため息を吐き出した。
黒曜庁の正式な魔術師は、死と隣り合わせの日々を競争志向で生き抜いたエリート中のエリートだ。そんな彼らが使い走りのような事をするなんてのは、ヴェズダーに命じられた時以外に有り得ない。
……嫌な予感はしたんだよなあ。今朝から妙に機嫌が良さそうなザウル=エリンを見て、ろくでもないことが起きる気はしていた。
直々に呼び出されたということは、また面倒な任務でも押し付けられるのだろう。
再び意識を切り替え、ドアの外へと出る。
一歩踏み出せばそこは怨嗟渦巻く血塗れの廊下。
ここを歩くのは、『ユーリ』であったほうが何かと都合がいい。
……のだが。
「げ」
「む」
全く同じタイミングで出てきた『同期』を確認すると、揃って俺たちは嫌悪感から来る声を上げた。
……隣の部屋から出てきたのは、エリナ=リトヴァクだった。
危うく、素が出るところだ。
このタイミングで、同期である彼女が出て来るとなると──うっかり肩を落としそうになるのを堪え、無表情で歩きだす。
恐らくは彼女もまた、ザウル=エリンに呼ばれたのだろう。となると、今回の『用事』は二人で行う可能性が高く──
面倒くさいという感情を隠さずにため息を吐くと、またもそれは重なるのであった。