第九話:気分は歯医者に向かうような
グリーナの町での一件も収束し、俺達は帰りの馬車に揺られていた。
行きの馬車とは違い、お互いが極力触れない様にするという凍りついた空気はなく、馬車の中は行きとは比べ物にならない活気に包まれていた。
だが──決して、良い意味ばかりでもない。
エリナの剣呑な瞳は健在だ。ただし──その瞳は、俺ではない『人物』に向けられていた。
「それにしても……何なのよ、その姿。猫被ってるってワケ?」
「狼に猫を被るとは面白い表現を使うものだな小娘」
隠そうともしない敵意を向けられているのは、長い黒髪を肩の下辺りで結っている少女だった。結び目を起点にふわりと広がった髪型は、胸部を強調するブラウスとスカートと併せて清楚で柔らかい印象を与えるが──その顔に浮かんでいるのはドヤ顔寸前の不遜な笑顔。
冗談を交えながらするその表情は、とても間違いで殺しかけた相手に向けるものではなく──
ああもう面倒くさい。……端的に言うと、この黒髪の少女の名前は、クロという。
そういうことだ。俺はそう理解するしかなかった。
「まあマトモに説明するのならば、簡単な話。人間に恋した狼が人間と添い遂げるにはどうすればよいかを学んだ結果だ。どうも、獣と人間という組み合わせはマイノリティらしいからな。主人に奇異の視線を集めるのは忍びない──ならば人間の姿をしていれば問題あるまい? みよ、容姿端麗、文武両道、家事も完璧にこなせる究極の嫁と化したこの姿を」
並べられた語句は一つ一つが頭痛を引き起こす輪のようだった。まるで、孫悟空の頭を締め付ける緊箍児だ。
此方では何の役にも立たない無駄な知識を思い浮かべるのは、現実逃避に他ならない。
何処までクロの言葉を信じて良いかは分からなかったが、人間の社会を学んだというのは嘘ではないようだ。
エリナの傷が完治するまでの間、俺達は一日と少しをグリーナの町で過ごしたが、その間クロにおかしな所は見られなかった。
金銭、通行ルール、日常会話。会話においては自然に生きる者特有の価値観が飛び出すこともあるし、一緒に歩いていただけでエリナが殺されかけるなど、肝心の『人間の交際』についての知識はずさんそのものだが。
それに口調も、人間の女性には珍しい男勝りなところがあるが──姿の方は、本人がいうとおり絶世の美少女と表現しても差し支えはないだろう。
以上を考えて、人間社会で生活する上では本当に、概ね、問題はなかったのだ。
人間の社会を理解している、という言葉を強く示しているのこそが、今クロがしている『人間の少女』の姿といえる。彼女は伝説の魔物とさえ称される自分が、人里でどういう扱いを受けるか、どれほど恐れられるかを知っているのだ。
だからこそ、彼女は人目のある場所ではこうして人間の姿を取っている。
人間と添い遂げるために、人間のことを学ぶ。
天寵を得ているがゆえに彼女は賢く、それを実行するだけの力があった。
その熱意は感心するし、好意が自分に向けられているのは悪い気はしなかったが──
「性格が最悪じゃない、性格が」
さもありなん。
強くなければ喰らうことは出来ない、弱ければただ死ぬだけ。シビアな野生を生き抜いてきた感性で育まれた性格は、お世辞にも良い性格とはいえなかった。
「まああああだ根に持っておるのか小娘。貴様、それザバネヤでも同じことが言えるのか? むしろ自然という魔物のテリトリーで殺されなかっただけでも感謝しろ。ユーリがおらねばお前は死んでいたぞ」
「コイツがいなきゃそもそも殺されかけてないでしょうが!」
死んだら死んだ奴が弱かっただけ、といわんばかりにクロは口を尖らせる。
幾ら生き死ににシビアな黒曜庁の所属といえど、反省の態度がカケラも見られないその様子にはご立腹のようだ。当たり前である。
ちなみにザバネヤというのはチェムナータの端っこの方にある不毛の大地のことである。輪をかけて恵みが少ない大地では、歴代のヴェズダーに封じ込められた魔物たちが日々その身を食い合っている。クロはそこで修行している内に天寵を得たらしい。
……いかん。また思考がズレてきた。
眉間を抑えると少し頭痛が和らぐ気がするのはなんでだろう。
エリナとクロの相性は、まさに最悪といえた。
最悪の出会いに、ズレた価値観。無駄だとわかっていつつもエリナはそれに突っ込まずにはいられず、クロもまたその奔放さでエリナの意見を聞く耳を持たない。
まさに暖簾に腕押し。永遠に空回り続ける風車のごとく。
ぜいぜいと息を荒らげるエリナに、クロはしてやったりと愉快げに笑う。
ここ数日で、それは既に見慣れた光景とかしていた。
今までの人生が静か過ぎたせいだろうか。クロという規格外の存在の強烈さもあり、そんな様子を見ていると頭痛を覚える。
とはいえ、掛け値なしに、それは楽しかった。
「……なに笑ってるのよ」
「いや、こんなに騒がしいのは久しぶりだと思ったんだ」
「まあ……それは、そうね。誰かと無駄話をするのも、久しぶりかも」
それは、エリナも同じようだった。
クロを心底嫌っているようでは有ったが、それでもぎゃあぎゃあと騒ぐエリナは生き生きとしている。
普通なら、殺されかけた相手といて楽しいと感じることはないだろう。だが黒曜庁という、生死が日常と化している場所で過ごしていたというのもあるかもしれない。それでもエリナは、黒曜庁に居る時よりも明るかった。
「だろう、だろう。このムードメーカークロちゃんに感謝するがいい」
「あんたは……ッ! ……はあ、言うだけ無駄ね……そういうところは、飼い主に似てるわアンタ……」
「……いやまて、それは聞き捨てならないぞ」
まあ、どうあがいても相性は最悪のようだったが。
久々に、俺は誰かと話すことが楽しいと感じていた。
それは本当に、転生して以来のことかもしれないと思うのであった。
「でもさユーリ、貴方どうやってこの事をヴェズダーに報告するの? ……こんなの見ても、伝説の黒狼なんて信じられないと思うんだけど」
だが、そんな楽しげな空気の中でも決めておくことはある。
正直慣れればクロと居ることはさほど苦痛ではない──いや、むしろ結構楽しいのだが、気が重いのはそれをどうザウル=エリンに報告するかだ。
「黙らせておけば、まあなんとかなるだろう……狼の姿にも戻らせるしな」
「む、なんだ。なんの話をしている? 気分が悪そうなのと関係はあるのか?」
悩みのタネは『お嬢様』風の賢そうな容貌に似合わぬ仕草で首を傾げる。
肝心な所で知識が足りないのは、野性的というかなんというか。
……まあ、嫌でも理解することになるさ。なんで俺が、気分を悪そうにしているか。
「これから少し──怖い人と会ってもらうというだけさ」
馬車の行く先を見やり、ため息を吐き出す。
ヴェズダー=ザウル=エリンと会うことを拒む俺に対し、エリナは仕様が無いやつとでもいいたげに鼻息を鳴らす。そこに侮蔑や嫌悪といった感情がなくなったのは、数日前よりも関係が改善された事を表している。
この点だけは、この一週間あまりの旅路に感謝しても良いかもしれない。
だが一方で──未だ、クロは首を傾けていた。
左右へと交互に首を揺らすその様は年相応で、純粋さをも感じさせる。
それもこの後凍りつくことになるだろう。奔放すぎる彼女も、少しくらい恐ろしい思いをすればいいとは思ったが──自分が感じた恐ろしさを考えると、やっぱり気の毒な思いが先行するのであった。