マバルの葉
そろそろ、か。
「そこまで!」
沈みゆく夕陽を見つめて、ぱんと手を叩き、後ろのほうにも聞こえるように声を張り上げた。
「基本の型はこれで全てです。明日またやりますので、復習しておいてください」
僕の言葉にロゼッタ兵たちは、剣先を下ろしながら一人また一人と地面に座り込む。
ぐでんぐでんの姿はもはや、酔っ払いのようにも見えた。
屋外の広い訓練場で平然とした顔で立っていたのは全て、指導をしていたノースランドの兵たちだけ。
「あ、明日もこれをやるっていうのか……?」
「これって、飛ばし過ぎじゃないですか」
ロゼッタ兵たちはげっそりとした顔で息を荒げ、滝のような汗を流しながら、ノースランド流の剣術指南に初日からへこたれている。
そんな様子に呆れてしまい、彼らを見下ろして深くため息をついた。
陛下の読みは正しかった、かな。
こりゃ、フランツ氏が来ていたら半分くらい脱走していたよ。
ロゼッタ兵に合わせて優しくしてあげてもいいのだけれど、そんなのでは訓練の意味がない。
そもそも何のために、自分たち兵士がいるのかを自覚してもらわないと。
「まったく情けない。そんな状態で、国と民を守るつもりだなんて、笑わせてくれます」
座り込む兵士たちに手を差し伸べないまま踵を返し、あえて厳しい言葉を浴びせた。
――・――・――・――・――・――・――
「さすがに、あれはないな……」
ロゼッタ兵の予想以上の平和ボケぶりに、僕の意欲は一気に削がれ、頭を抱えた。
『僕に、どうしろというのか』と、困惑しながら部屋への道を進んでいく。
美しい庭に彩られたこの道の行く先が、真っ暗な闇に見えてくる。
なんというか、ロゼッタの中佐があれではまずいだろう。
ジェームズ氏はともかくとして、ゴードン氏は頭も剣術も全てがマズイ。
『気に食わないから』と僕の実力も測れずに決闘を申し込んできたあげく、何の策もないまま突っ込んできてあっさり負けるとか。
あの人は本当に何がしたかったのだろう。
いざ戦になって、愚策で死ぬのは部下であり、民であり、国だ。
一つの判断ミスが致命的な結果を生みかねない。
そんなこと階級が三つも下の僕ですら分かっているのに……あの人はそこんところをわかっているのだろうか。
ああ、まずい。僕まで平和に染まりそうだ。
ガシガシと頭をかいて、踵を返し、裏庭へと向かうことにした。
明日の指南方法を考える会議の前に、精神統一を兼ねて剣を振るいたいと思ったのだ。
人気のないところを探して、広い庭をゆらゆらとさまよう。
そして、裏庭の奥まった場所で一番会いたくない人を発見してしまい、うろついたことをすぐに後悔することとなった。
その人は一人の様子で、うつむきながら立っている。
城壁の陰に隠れているつもりなのかもしれないが、深紅の派手なドレスのせいで変に目立っていた。
ストレートの長い金の髪に、透き通るような白い肌、細い腰と華奢な割に豊かな胸を持つ彼女は遠目から見ても、間違えようがない。
あそこにいるのは、ロザリア王女だ。
面倒事はごめんだと思い、見つかる前に去ろうとしたその瞬間、この目は思わぬ光景をとらえていく。
城壁に背をつけてうつむいた彼女が、何かを取り出してそれを口にくわえたのだ。
くわえられた『それ』に僕の身体はびくりと跳ねて、気が付いた時にはもう駆けだしていた。
「ちょっと、何をなさっているんです!?」
息を切らせてロザリア王女の前へ飛び出し、肩を上下させながら尋ねる。
「――ッ!」
周囲には誰もいないと思っていたのだろう。
僕の出現にロザリア様は声にならない声を上げて、顔と身体を一気に強張らせた。
動揺する彼女の顔を見つめながら大きく息を吸い、荒れた呼吸を整える。
間に合ったことに安堵し、ようやく落ち着いた僕は微笑んで、穏やかに話しかけていく。
「ロザリア王女殿下、手に持ってらっしゃるのは、マバルの葉巻き、ですよね?」
なるべく刺激しないようにと、ソフトに問いかけたのに、結局はロザリア王女を刺激してしまったようで、彼女は憎らしげに睨みつけてくる。
「ロゼッタの第一王女がこんなものを吸うなんて、と、そうおっしゃりたいのかしら。あなたノースランドの大尉でしょう。関係ないですし、放っておいてくださる?」
刺々しく、突き放すような声だ。
高慢な態度を示す彼女に深いため息をつきたくなるが、王女相手にそんなことをするわけにはいかない。
口元に力を込めて必死にこらえる。
まったく、どうしてこの女はこんなにも強情なのだろうか。
今ばかりは、ノースランドに来た時のような、嘘の姿でいてくれよと思ってしまう。
そもそも、放っておいてくれと言われても、現場を見てしまった以上、知らないふりなんか出来るはずもない。
「これは、第一王女がどうこうの問題ではありません。僕はロザリア王女殿下の人生を狂わせたくないから、こうやって止めているんですよ。それで、何本目です?」
「私は先程から、あなたには関係ないと言っています」
「関係あります」
「いいじゃない、別に!」
「よくないです。依存症になりますよ」
「放っておいてちょうだい」
押し問答に飽いたロザリア王女は再び葉巻をくわえながらマッチに火をつけて、その火を葉巻きへと近づけようとしていく。
「馬鹿なことはお止めください!」
慌てて彼女の右手首をつかむと、ぽとりと口にくわえられた葉巻きが落下していき、僕はすぐさまブーツの底で踏みにじって火を消した。
「何するのよ! 王族に、こんなことをして良いと思ってるの!?」
華奢な身体に似合わない鋭い瞳と威圧感でそう言われるけれど、ここで押し負けるわけにはいかない。
「ロザリア王女殿下、お教えください。今までも何本か吸われたのですか?」
まっすぐに彼女の目を見つめて尋ねると、ロザリア王女は視線をそらして下を向いた。
「答える義理はありませんわ」
「いいから答えろ!」
手首を握る力を強めて声を荒げると、彼女はびくりと震え、観念したのか、小さく呟く。
「これが最初の一本目。まだ一度も吸っていません」
その顔は不服以外の何物でもなかったけれど、反対に僕はほっと胸をなでおろした。
「よかった……手遅れにならなくて。他のも出してください、持ってらっしゃるんでしょう? ほら!」
ずいずいと近寄ると、ロザリア王女は僕の勢いに目を丸くし、呆れたようにため息をついて、小さな箱を僕に向かって投げつけてきた。
「まったく、大げさな男。これで全部よ」
箱を開けると、十本もの葉巻がぎゅうぎゅうに入っている。
もう二度と彼女の目に触れないよう、僕はそれをすぐさまポケットにしまいこんだ。
「大げさなんかじゃありません。サウスに行った僕の友人が、これで狂ったんですから」
「狂った、ですって?」
ロザリア王女の問いに僕は視線を落とし、静かにうなずいた。
「興味本位でマバルの葉を吸った彼が、最初無くしたのは、金。次に失ったのは、友人でした。そして、家族との繋がりも夢も希望も失い、考えることはマバルの葉だけになった。結局最後には売れるもの全てを売り払い、マバルの葉を吸い続け、食事をするのも忘れて死んだと、彼の弟に聞かされました」
今でもあの日のことを後悔せずにはいられない。
一人前の交易商を目指すと言ってノースネージュを離れようとする彼に『ノースランドでも交易は学べる』と、どうして言わなかったのか、と。
マバルの葉は、心地よい幻覚を見せる代償に、人生を狂わせる悪魔の葉だ。
嫌いだと思っているロザリア王女にも、こんなものを吸ってほしくなんかない。
そう思っていたのに、彼女は光を失ったような仄暗い瞳で微かに笑った。
「全てを無くす代わりに幸福な幻覚を見ながら死ぬ、か。あなたに渡さなければ良かった」
「は?」
聞かされた言葉に、目を見開いて声を無くしてしまう。
「私を拒む世界なんかいらない。いっそのこと、何もかも無くなってしまえばいいのよ……。なんてね」
ぽつぽつと恨みごとを呟いて、最後だけあの作り物の笑顔を見せてきて……
「ロザリア王女殿下……?」
「カイル、と言ったかしら。私の葉巻きを取り上げたことも不敬な態度も今回は許してあげる。だから、このことは内緒にしておきなさい。もしも誰かに言ったら、二度とノースランドの土は踏めないわよ」
そう言ってロザリア様は先程までとは別人のように、凛と背筋を伸ばし、すました顔で庭から去っていった。
一人残された僕は、小さく息を吐いてさっきの言葉を繰り返す。
「……何もかも無くなればいい、か」
どうしてだろうか。
そう話した彼女の瞳は、僕にはひどく寂しそうで、苦しげなものに見えた。