甘くて苦い昼下がり
時の流れというのは早いもので、ロゼッタに来てから二カ月の時が過ぎた。
剣術の指南役としてここに滞在できるのはあと一カ月。
ロザリア王女とともにいられるのも……一か月。
訓練が休みの日の昼下がり、僕は城の端にある人気のない庭で一人、横になっていた。
短く刈りそろえられた芝の香りも、暖かい太陽の日差しも柔らかくて気持ちがいい。
貴族のくせにこんなところで寝るなと叱られてしまいそうだが、こうやって外で寝転び、昼寝をすることが僕はたまらなく好きなのだ。
空を仰げば、ぽっかりと白い雲が浮かんでおり、風に流されて少しずつ形が変わっていく。
いつまでも変わらないものなんてない。
出会いがあれば、いつかは別れが訪れる。
そんなことは雲なんかに教えられなくても、わかっている。
ずっとわかっていたはずなのに……
噂好きの者たちで溢れる城内は、これまでとは違う二つの噂話が飛び交っていた。
一つ目は、ロザリア王女の変化について。
数週間前までは絶えることなく王女様の陰口が叩かれていたのに、いつからかそれも激減していった。
『急に王女殿下の態度が優しくなった』だとか『ロザリア殿下は別人とすり替わったんじゃないのか』などと、侍女や侍従たちの困惑する声が至るところで聞かれている。
そして、もう一つの噂話は……第一王女の婚約について。
一週間ほど前からだろうか。
城内に突如『ロザリア王女殿下が、シュタール王国の第二王子ディーノ殿下との婚約を考えている』との噂がかけめぐったのだ。
シュタール王国とはサウス王国の隣国で、サウスの友好国になる。
国土の三分の一以上が山という厳しい環境に置かれた国ではあるが、鉱物が豊富にあり、金属の加工にも力を入れている国だ。
一方のロゼッタは鉱山が少なく、同盟国であるとはいえキナ臭いサウス王国が隣に位置している。
サウスを牽制する意味でも、鉱物を安定して手に入れるためにも、シュタール王国は、ロゼッタが友好を結ぶにはこれ以上ないほどに適した相手といえるであろう。
ただ、他国の兵士が踏み込むような内容でもないし、婚約話の真偽はわからない。
それに、嘘か真かを知ったところで、他国の者である僕には何もできないのだ。
そのせいもあって、噂についてはあまり聞かないようにしていた。
「いつか、が、すぐ近くに迫っているのか……」
王女である貴女は、僕のそばから去っていく。
そもそも、一国の王女が隣国の兵士と何度も話をしてくれること自体が奇跡だし、これ以上を望むのは贅沢な望み、ってやつなんだろうな。
そんなことを思いながら、静かに目を閉じていった。
――・――・――・――・――・――・――
そよそよと風が揺れ、頬を優しく撫でてくる。
温かな陽だまりに包まれて最高の気分でいたのに、向こうからやってくる何者かの気配を感じて、すっきりと目が覚めてしまった。
不穏な気配に、まぶたを開かないまま集中する。
物音をたてないようにと慎重にやって来た“誰か”は僕の隣に位置取り、首へとゆっくり手を伸ばしてくる。
僕の首を絞めて殺すつもりなのだろうか。
暗殺者にしては気配の消し方が雑すぎるし、もしかしたら城下にいた闇商人なのかもしれない。
それにしても、こんなのでバレないと思っているなんて……
「僕をなめているんですか!?」
もう少しで首に触れてくるというところで、何者かの手を掴んで地面へと引きずり込み、形勢を逆転させる。
「きゃッ!」
きゃ?
思いもよらぬ高い声と、やけに軽い身体に疑問を感じたけれど、その理由はすぐにわかった。
僕が芝に組み敷いた相手は、華奢な身体をし、品のあるドレスをまとった女性だったのだ。
その女の姿は、はっきりと僕の目に映っているはずなのに、どうやったってこの状況がわからない。
絹糸のように輝く金の髪ははらりと芝の上に広がり、か細い右手首は僕の左手によって、彼女の顔の横の地面に縫い付けられている。
琥珀に似た澄んだ瞳は、恐怖とはまた違う感情を孕んでいるように見え、動揺からかうるうると潤んでいた。
きっと王女様もこの状況の理解ができずにいたのだろう。
僕が王女様を襲おうとしているともとれる体勢のまま、互いに何も言えずに固まってしまっていた。
「……なぜ、僕の首元に手を? 変に気配を消されるんで、敵の襲撃だと思いました」
少しずつ状況を察し、体勢を変えないまま問う。
「……起こさないようにストールをかけてあげようと思ったの」
「ストール?」
視線を左にやると、淡いピンク色をしたストールが芝の上に落ちている。
「外で寝たら風邪をひくと思って、それで……」
組敷き、組敷かれたまま世間話を続けるなんて、僕らは相当おかしかった。
だけど、なぜか僕は身体をどかすことを思いつけなかったし、王女様も怒らないまま僕の問いに素直に答えてしまっている。
お互いかなり動揺していたのだろう。
『ストールをかけようと思った』という説明により、こうなってしまった理由をようやく理解できた。
おかげで動揺はおさまったものの、困ったことに今度は僕の理性がぐらぐらと揺れ始めていた。
じっと見つめてくる潤んだ瞳に、みずみずしい唇、はらりと広がった長い髪、そしてこの体勢……
まずい。気を強く持っていないとすぐにでもたがが外れてしまい、我慢が限界を突破してしまいそうだ。
「カイ、ル……?」
僕を煽りたいのかなんなのか知らないけれど、王女様はか細い声で僕の名を呼んでくる。
視線を送ると、王女様はほんの少しの不安を混ぜたような甘い瞳で、僕を見つめてきていて。
ああ。全部を我慢するなんて、無理、だ。
「ロザリア王女殿下」
ただいつものように名を呼ぶだけのつもりが、自分でも驚くような甘い声が出てしまう。
ロザリア王女は途端に顔を真っ赤に染め上げて、じんわりと潤んだ瞳で見つめてきた。
誘っているかのように少し開いた唇を、ここで奪ってしまいたいという衝動を必死に押さえて、王女様の頬に手を添えていく。
滑らかな感触を堪能し、そこからあごにかけて優しく撫でる。
そして、親指の腹で柔らかな唇の輪郭をなぞるようにして、そっと撫でていった。
その先に進んでしまいたい気持ちを必死に押し殺しながら、僕はいつものように笑う。
「糸くずがついていましたよ」
王女様の拘束を解いて、手をとって起き上がらせ、芝の上に座らせた。
「糸く、ず……?」
事態が飲み込めていないのだろう。
王女様はうわ言のように僕の言葉を繰り返してくる。
「ええ、いま取りました。数々のご無礼を申し訳ございません」
こんなの言い訳として成り立たないというのは、自分でもわかっている。
だけど、一兵士である僕がこの想いを押し付けたところで、どうにもならないこともまた……わかっているんだ。
「そう……ありがとう」
ロザリア王女は、僕を見上げてきて柔らかく笑う。
その表情はなぜか、安心しているようにも、寂しそうなようにも感じられる不思議なものに見えた。




