第9話 『眞白の過去』 その4
遠足の当日、開園後にちょっとしたトラブルが起きてしまった。
赤い風船が灰色の空へと舞っていった。林檎のように赤く、丸い風船。それは開園直後、下級生の女の子が遊園地のマスコットキャラクターから手渡され、大事そうに両手でしっかり持っていたものだった。なのに、突風によって、彼女は一瞬だけ手を緩めてしまった。そのたった一瞬が、風船を空高くへと舞い上がらせた。しかし上昇は永遠に続くことはなく、枝に引っかかって止まってしまった。
楽しみにしていた遠足が始まった直後に起こった、ちょっとしたトラブル。それだけでも、少女の心を挫くのには十分だったらしい。彼女は期待していたのだろう。楽しみにしていたこの行事が、完璧なものになるのだ、と。けれどその均衡がくずれてしまったことで彼女は泣きじゃくっている。
先生はそんな彼女を慰めるために四苦八苦している。その間に少しでも眞白をひとりにしてしまうことが気がかりだったのか、彼女が抱きしめる少女越しに「ごめんね」と唇の形だけで謝られた。
眞白にとっては、そんなこと、どうでもよかった。気にしてすらいなかった。むしろ下級生の女の子のことを想った。楽しみにしていた遊園地で、せっかくもらった可愛らしい風船を突発的な風で失ってしまった。それから、主を失くした上に行き止まりに当たってしまった風船のことを想った。
「先生」
ちょっと待ってて。大丈夫だから。
眞白は先生に近づき、安心させるように彼女の手を取った。
風で失ってしまったものは、風で取り戻せばいいのだ。
自分の中を駆け巡る魔力と共に、眞白は思い描いた。女の子が風船を取り戻して笑顔になる様子をイメージする。
すると、不思議なことに、風船は本来の持ち主へと引き寄せられるかのように戻っていく。まるで、時間が巻き戻ったかのように。
眞白にとって、魔力は理屈ではなかった。ただ思い描いた像を実現させるための手段に過ぎない。それほどまでに身近で当たり前のものだったから、周囲の人に敬遠されてしまうことが余計に悲しかったのだけれど。
――眞白、その力は秘密の力なの。
――誰も持っていない、秘密の力よ。
――だから、その力は人前で使ってはだめなの。
母にはそう言われていたけれど、学校中には既に知られてしまっている力だ。たったひとり、新任の教師を除いて。
そして、新任教師である彼女も、きっと大丈夫だろうとこの時の眞白は考えてしまっていた。優しい人だから。いつも自分に親身になってくれるから。信頼に値する人だから。
彼女は、自分にとって、光のような人だから。
眞白が魔法によって手繰り寄せた風船を本来の持ち主に返すと、少女は泣き止んだ。泣き止んで、笑顔になったわけではない。侮蔑、悔恨、そして未知なる者への拒絶と恐怖。それらがすべて混ざり合った眼差しを眞白に向けた後、何も言わずに立ち去って行った。
風船を再び曇り空へと放り出して。
そんなことすら、眞白の良そうの範囲内だったのだけれど。
ただ、やはり枝に引っかかって行き所のなくなった風船は、ふわふわと宙に浮かび続け、どこか頼りなさげで、哀れで、惨めだった。
「ねえ、先生」
あの風船、どうしようか。
先生はあの風船、いる?
呼びかけただけだけれど、眞白は眼差しに多くの言外言語を込めて彼女を見つめた。
目は口ほどに物を言う。
彼女がどのような瞳で眞白を見つめているのかなど、不安も心配も微塵も感じることはなく、眞白は彼女を見つめてしまった。




