リサイクル・ライフ
人間はいつか必ず死を迎える。それが望んだものであるか、望まざるものであるかは別として、そういうことになっている。
草深圭はそのことを知らなかったわけではない。だが具体的に死がどういうものなのか想像したことはない。具体的に想像しようもないことだから、考えないようにしていただけかもしれないが、しかしそれでも、彼にだって自分はいつかは死ぬのだろうという確信はあった。科学や医学の進歩の速度は目に見えて早いという実感はあるが、それでもまだ死の回避を実現することは難しいように思える。だから自分はほぼ間違いなく死ぬだろうし、自分と同じ時間の中に生きている人も死ぬだろうと、彼はそう思っている。
草深はその未来に対して不安や不満はない。決められたルールの中で生きることは得意だったし、新しいルールを作り出したいと思うほど生きることに執着もしていないから、常温の水のようにその事実をあっさり飲み干せる。
しかしそれでも、草深はいまの状況に多少面喰っていた。
なにせずっと未来に訪れると思っていた終着点が、スノーモービルみたいな勢いで自分の目の前に訪れてしまったのだから、驚かずにはいられない。
草深の死因は、居眠り運転をしていたトラックとの衝突だった。深夜だったため、草彼以外の被害者いなかったのが不幸中の幸いなのかもしれないが、唯一の被害者である彼からすれば幸いは一つもない。
「ひどいな、こりゃ」
草深は歩道に乗り上げたトラックと大量の血を流し倒れている自分を姿を見て呟いた。トラックの運転手も怪我をしているようだが、なんとか車から抜け出し、慌てた様子でどこかに電話をかけていた。どうやら事故の現状を話しているようだったが、動揺からか、話している内容が支離滅裂になってしまっていた。あれでは電話の相手も彼がなにを言いたいのかさっぱり分からないだろうと、草深は電話の相手に同情する。
「俺って死んだのか」
草深は自分の手の平を見ながら呟く。目の前にある惨状を見る限りでは、死んでいるのは確かだろうと思う。しかしだからといって体が透けているということはなく、足はしっかりある。どうやら姿形も死ぬ直前のままのようで、見た目においはて生きていたとき差はなさそうだった。ただやはり、姿は生きている人からは見えなくなるようで、運転手は草深の存在に気が付いていなかった。
「おい、おっさん、もう少し落ち着けよ」
草深は運転手に声をかけてみたが反応はなく、声も聞こえないようだった。
さてこれから自分はどうすればいいのかと、草深は腕を組み溜息を吐く。ひとまず家族にでも会いに行った方が良いかと思ったが、両親の住む家は徒歩で行くには遠すぎる。幽霊でも電車に乗れるのだろうかと、草深はそんなことを考える。
「ひどい有様ね」
不意に声が聞こえ、草深は驚く。
慌てて辺りを見回すと、いつの間にか彼の隣に黒いスーツ姿の少女が立っていた。腰の辺りまで伸びた長い金色の髪が目に映り、彼女は外人なのだろうかと、そんなどうでもいい思考が草深の脳裏に過る。
少女は長い髪を揺らしながら草深の方を向くと、青色の瞳で彼をとられ、そして可愛らしく小首を傾げた。
「痛かった?」
「は?」
少女の問いの意味することが分からず、草深は眉をひそめる。
「トラックにぶつかられたとき、痛かった?」
少女に再度問われて、草深はようやく理解する。
「いや、一瞬だったからなぁ」
そう言って草深は苦笑する。
「よく覚えていないや、ごめん」
「そう。ありがとう」
少女は淡々とした口調で礼を言い、事故現場の方を見た。草深もつられるようにそちらを見ると、運転手が草深の死体に近づいて声をかけたり、肩をゆすったりしていた。
「もう死んでるから無駄だっての」
草深は呟く。
「頭なんて、随分ひどいことになってる」
「見捨てて逃げるよりはずっとマシじゃないかしら」
「そりゃま、そうかもね」
彼女の言葉に、草深は頷きながら答える。
「ところでキミは、なんでも俺が見えるの? キミも死んでるの?」
「天使だからよ」
少女は即答する。草深は即座に天使がなんだったか思い出せず、彼女の方を見て固まってしまう。そして少女が答えてから約五秒後に、ようやくそれがなんなのか思い出した。ただ草深が思い出したのは天使の頭には光輪があり、背中には羽が生えているという、ビジュアル面に偏った情報だけだった。そもそも彼は、天使に関する情報をそれ以外にはよく知らない。
「へぇ、天使なのか」
草深の視線は少女の背中から、頭の上へと移動する。彼女には羽も光輪もなく、スーツ姿というのが異質ではあるが、それでも見た目は中学生くらいの女の子にしか見えなかった。
「羽とか光輪はないの?」
「光輪はないわ」
少女は短く答えて、草深の方を見た。
「羽はあるけれど」
「えっあるの?」
草深はもう一度彼女の背中を見たが、羽のようなものはない。どういうことだろうと少女の方を見ると、彼女は僅かに口元を上げた。おそらく、それが彼女の笑い方なのだろうと草深は思った。
「羽は、いまは消してある」
「ふーん。なんで消してるの? 羽があった方が天使っぽくない?」
「動くときに邪魔だからよ」
「ああそっか、ふうん、なるほどね。邪魔なら仕方ない」
草深は煙草を吸いたくなりズボンのポケットに手を入れたが、そもそも煙草を切らし買いに行く途中だったことを思い出す。仕方なく、草深は煙草を諦めた。
「ところで天使さんは、俺を天国に連れてくためにここに来たの?」
天使の役目とはそういうものだったような気がして、草深は尋ねる。しかし少女は首を横に振った。
「えっ、もしかして地獄行きってこと?」
ほどほどに善良に生きてきた自信はあったが、知らないうちになにか極悪非道な行為をしてしまったのだろうか。しかし人間だれしも自分の知らないうちに、自分が原因で他人を不幸にしているということはある。そういうことを含めれば、あるいは地獄行きも仕方のない行いをしたことがあるのかもれしれない。なら仕方ないかと、草深は溜息を吐く。
「人間ってのは、生きているだけで罪深いってことかぁ」
草深は空を見上げる。空は曇っていて、星は一つも見えなかった。せっかくだから、もう少し星が綺麗な夜を命日にしたかったなと、草深はぼんやりと考える。
「いったいどれくらいの人が天国にいけんだろう」
「残念だけど、天国も地獄もないわよ」
「えっ、そうなの!?」
予想外の事実に驚き、草深は勢いよく彼女の方に顔を向ける。声のボリュームもさきほどよりも大きくなっていた。
「じゃあ、死んだらどうなるんだ? まさか、このまま路頭に迷うとか?」
「違う。それに貴方はまだ完全に死んでない」
「いや、死んでるでしょう」
そう言って草深は自分の遺体を指さす。救急車などはまだ到着しておらず、遺体はそのままだ。運転手は道の隅で膝を抱えて震えていた。草深はそれを横目でチラリと見て、少し可哀そうだなと思う。
「本来なら肉体の機能が停止すると、魂はそれに同調して自身を初期化する。肉体的な停止と魂の初期化。この両方がなされている状態を、私たちは死んでいると表現する」
少女は淡々とした口調で続ける。
「だけど貴方みたいに突発的な事故で死んだりすると、稀に魂が死んだことに気が付かないで、いまの貴方みたいな状態になる。つまり、肉体は死んでいるのに魂だけが自分は生きていると勘違いしている状態ね。その状態になると、初期化が上手く作動しないの。だからそういう魂を殺して、初期化機能を正しく作動させることが私の仕事」
「イマイチ分からないんだけど」
「貴方が分かる必要はないわ」
少女ははっきりと言い切った。
「それじゃあ、そろそろ仕事をさせてもらうわ」
いつの間にか少女の右手には銀色のリボルバーが握られていて、その銃口がゆっくりと草深の額に向けられた。
「あの、それはどういうことでしょうか?」
突然のことに目を丸くした草深は銃口を見つめながらそう言う。銃が本物か偽物かは彼には分からなかったが、しかし銃を向けらているという状況は穏やかではない。反射的に、草深はホールドアップのポーズをとっていた。
「完全に殺すといったでしょう」
「その銃で俺を殺すの?」
「ええ」
「それって本物?」
少女はなにを言わずに草深のことを数秒見つめ、不意に銃口を草深から膝を抱えている運転手の方に向けた。
「えっ? おい」
草深は慌てて銃と運転手に交互に目を向ける。
「お前、なにして」
「本物と言えば本物だけれど」
草深の言葉を遮るようにそう言い、そして次の瞬間、乾いた破裂音のようなものが響いた。少女の躊躇のなさに驚き、草深は開いた口が塞がらなかった。しかし撃たれた運転手にさきほどと変わった様子はなく、草深は油の切れた玩具みたいなぎこちない動きで少女を見た。
「肉体が生きている人は傷つけられない。この弾が殺せるのは、魂だけになった存在のみ。神様が創ったものだから仕組みは私にも分からないけれど、そういうものなの」
少女は再び、銃のターゲットを草深に戻す。
「それじゃあ、今度こそ」
少女の瞳は真っ直ぐと草深を見据え、彼も彼女の瞳を見た。海の色とは違う青い瞳は吸い込まれそうなほどに綺麗だったが、あまりに綺麗すぎて、まるで作り物のようだと草深は思った。
「その銃で撃たれると痛い? 別に目的があって生きていたわけじゃないから死ぬのはいいけど、痛いのは嫌なんだ」
「撃たれた経験がないから答えられないわ」
少女の親指が撃鉄に触れる。
「そうなんだ。ねぇ、魂が死ぬとどうなるんだっけ?」
遠くから救急車のサイレンの音が聞こえ始めた。おそらく運転手が呼んだものだろう。深夜なのにご苦労さまだなと、草深は思う。
「初期化され、魂に保存されていた貴方という情報が消える。真っ白になった魂は、これから生を受ける身体に移り、貴方じゃない誰かとして生きていく。ずっとそれの繰り返し」
ゆっくりと、撃鉄が上げられる。
「リサイクルってやつだ。牛乳パックと同じだね」
我ながら安っぽい例えだなと、草深は自分の言葉に思わず笑ってしまった。
「そうね。大差はないわ」
少女は目を細め、引き金に指をかける。
「あっ、そうだ。羽、羽を見せてくれない?」
せっかく天使に会えたのだから記念に見てみたいと思ったが、少女は口元を僅かに上げるだけだった。
「さようなら。良い人生を」
深夜の町には二人にだけ聞こえた銃声が響き、地面には白い羽が一枚だけ落ちた。
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