前編
雪娘、雪女郎、つららおんな、雪オンバ、ユキアネサ。日本各地に伝わる、雪の妖怪の呼称の数々。
実に多様な呼び名を持つ、日本では有名な妖怪・雪女。
彼女たちはみんな女性であり、男性は存在しない。また若かったり年老いていたり、年齢層も様々だ。
雪女といえば、赤子を抱いて下さんせ、と頼む怪異がよく伝わっている。これは彼女たちが姑獲鳥に通じているという特徴であり、抱いたものは段々と重みを増す子に負け、足下の雪に沈んでいく。
そして異性である男性の生気を接吻で吸い付くし、糧と為すのだと伝えられている。
そんな雪妖怪の、日本のどこかにある一族の里。 年がら年中雪に満ちた白銀の世界、豪華な造りの日本家屋内の、ある広い座敷にて、二人の女性が向き合っていた。
片方は上座に座る、煙管を吸い、ふうと煙を薫らす初老の老婦人。
夕焼け空のような朱色の布地に、金銀の格子模様の絢爛な着物をまとい、真っ白な髪をゆるくまとめあげ、ほつれた後れ毛が何とも艶かしい。
老いて年を経てもなお、ふとした仕草に表情、そして気崩した着物の襟から見え隠れする白い肌が、妖しくも芳しい色香を醸していた。
「おやぁ、華よ。まだァ緊張しているんかェ」
年をとった者特有のしゃがれた声でさえ、彼女の口から出れば、聞いた者を腰砕けにさせてしまうだろう。彼女自身が色香の化身のなのだといわれても納得がいくだろう。
実際は、色香の化身ではなく―――
「緊張も、します……長さまに、お会いできぇ、できているんです……から!」
「長といえど、あたしャたかだか長生きした妖怪の一匹サね。そしてオマエさんもたかだか妖怪だ」
「で、でででもっ! お、おお長さまはっ! 私たち雪妖怪をまとめる大妖怪でいらっしゃいますからして!!」
蒸気を出すのではないかというくらいに顔を真っ赤に染め上げ、時折舌を噛みながらしどろもどろに発言するのは、初老の婦人―――雪妖怪の長と相対する少女。そう、色香を纏う老婦人は雪の大妖怪。雪の化身なのである。
そして相対する少女は孫、というくらいの年齢である。少女の名は、華雪。里の皆からは華と呼ばれている生まれてまだ十五年の若い雪女だ。
そう、若い。
長は気の遠くなるくらい遥か昔から生きる、年齢も経験も実力も妖力も、長大で膨大な大妖怪。神に近い、といわれる生きる化石――本人談――だ。
そんな若い、雪女というより雪娘といったほうがしっくりくる華雪が、何故里の長たる大妖怪・銀雪と一対一で相対しているのか。
それには、ひとつの客観的には単純な、華雪にとっては理解しがたい理由があった。
「まだ、納得はいかないのかィ」
はァ、と銀雪は溜め息をついた。長の溜め息といえば、大昔この溜め息を聞きたいがために、多くの男の妖怪が血で血を洗う修羅場を演じたという逸話がある。
華雪は、そんな色気に溢れた長の迫力と威圧に、負けじと背を伸ばす。
華雪は長が怖いし、何より緊張しいだし、そして臆病だ。嫌なことも、断ったあとに相手がとるだろう態度に戦いて、断らずに我慢して引き受けてしまう性質だ。
そんな華雪でも、今回のことに対してだけは違った。あまりにも認めがたく、あまりにも直視したくない、あまりにも嫌なことが華雪の身に降りかかろうとしていた。
「ふぅむ?」
何に対しても「是」と返し、従ってきたおとなしい娘は、おそらくは生まれてから初めて「否」と態度に出していた。
銀雪からすれば、若い衆の成長に喜びたい反面、何で今なんだと面倒くさくなった。他の機会に、自己主張するという成長を是非見せてほしかった。何で今なのか。
「私は、今の今まで自分を主張いたしませんでした。長さま―――いいえ、婆さま」
華雪は、長であり、かつ遠い祖母である銀雪に頭を下げた。
「私、これ以降も無理な我が儘は通しません! ですから、どうか、どうかこの度の沙汰だけは平に、平にご容赦くださいまし!」
頭を下げ、華雪の銀色の癖のない長い髪が畳に流れ落ちる。まだ成人前のため結われることのない髪は、扇状に広がる。
華雪は額を畳につけてしまい、さらにそれを髪が多い隠していた。銀雪からはどうしても、遠い孫の顔はうかがい知れなかった。
けれども、華雪の想いがひしひしと伝わってくる。
華雪が何を想い、こうしているのかが、銀雪には嫌なくらいに伝わってくる。可能ならば、耳を塞ぎたいくらいに。
「―――許しておくれ」
華雪の揃える手は震えていた。背も、腕も、銀雪の目に映る華雪の全ては震えていた。嫌だと、体全体で気持ちを銀雪に訴えてくる。
そして、銀雪が謝罪の意を込めた言葉を口に乗せれば、より震えていったのだった。激しく揺れ、時折しゃくりあげるのを我慢するような呼吸音が、あたりにむなしく響いていた。
「許しておくれ、アンタを失わないためだよ―――」
銀雪も、どこからか取り出した扇で顔を隠した。久々に涙が流れて出て、けれども本当に泣きたい子の前では流すわけにはいかなかったから。
「どうしてどうして―――」
長との謁見の後、自室に戻った華雪は泣き伏した。
さめざめと泣く華雪の脳裏に、幼い頃の記憶がよみがえる。
『はなゆき』
白と銀と灰の三色に覆い尽くされた、雪妖怪の里。一年中大地は白と銀の雪に覆われ、地平線はどの時刻でも白く霞む。空模様もだいたい灰の色の曇天で、晴れ間が覗く日なんてごくまれな世界。住む住人でさえ、その三色に準じていた。
―――あの日、白と銀と灰の世界に、鮮やかな色が混じった。
『はなゆき、あそぼう』
くるくるした深い緑の髪は、曇天の空から降りてくる幾筋かの陽光に照らされ、きらきらと輝く。その様は、まるでそれ自体が光を放っているかのように煌めいていて、彼が動く度にきらきらと光が動いた。
その髪色も、瞳の色も、華雪は初めて見る色だった。
彼のくるくるした巻き毛は葉のような深い緑という色で、木の柱のような肌色のは褐色という色で、瞳は花のような桃色という色だった。華雪は、木も花も葉も見たことがなかった。里には存在しないのだ。
華雪の周囲は皆、白か銀の髪に、灰か銀の瞳、真っ白な肌に灰の衣だったし、世界もそんな色ばかりだった。
会ったことのない長さまはものすごく派手だそうだけど、それを除いても、華雪の周囲に緑や桃色なんて存在しない。白や銀、灰の以外の色なんて、屋根の瓦の鉄色や柱の茶色、畳のよくわからない薄い色くらいなのだから。
だから、幼い華雪はいつも見惚れていた。彼の持つ鮮やかな色は、幼い華雪を惹き付けるには十分すぎた。
『華雪、彼は魔界から来たのよ。遠い、遠いところから来てくだすったのよ』
里のあねさま方は、華雪に彼を紹介するとき、そういった。
紹介された彼は、華雪より少し年上の男の子だった。華雪は生まれて初めて、異性を見た。
彼は里とは別の、遠い遠い世界から来た幼いお客人。彼は魔界から来たのだという。華雪が初めて聞く言葉だった。
そもそも、華雪にとって知る世界は里だけだった。里から出たことがなかったから、他に世界があるなんて華雪は知らなかった。
この里も、人が暮らす現の世とは異なる世界、他界。しかし確かに日本のどこかに存在している、別に区切られた世界。人の世から、ふらっと繋がっている。例えば、冬の日の木陰から。例えば、ふと入った林の木の洞から。例えば、神社の鳥居の影から。―――そのことは、華雪も知っていた。
けれども、彼が来た場所はまた違う。華雪の知らない、初めて得る知識。
彼は、日本どころか、地球上に存在しない別の世界から来た。ふらっと繋がらない世界から来た、大切な大切な幼いお客人。
『地面が緑色なの?』
幼いお客人が話すすべてが、華雪には新鮮だった。彼の語る外の世界はたいへん魅力的だった。
彼はとても上手な語り手だった。やたらに話してとせがむ華雪に嫌な顔もせず、にこやかに微笑みながら彼は語ってくれた。
―――大地は緑に覆われ、空は青く澄みわたり、可愛らしい鈴の音の声で泣く鳥という小動物がいて、川は凍らずに、水が穏やかに流れている。その水の中には泳ぐ魚がたくさんいて……華雪は、すっかり彼の虜になった。
やがて、華雪は知る。
彼の世界は、人から“モンスター”と呼ばれる存在の頂点に立つ王様がいる世界で、彼は幼いながらに優秀で、その世界で重要な役目を頂いているのだと。
だからあまり遊びにお誘いしたりしてはいけないと、お仕事で来られているのだから邪魔をしてはいけないと、華雪はあねさま方に叱られた。
でも幼い華雪は、大人の事情とやらを理解できなかった。
お仕事を邪魔をしてはいけない、それは理解できた。何で遊びにお誘いしてはいけないのかが、理解できなかった。彼だっていくら賢くとも子供なのだから、遊びたいときもあるはずなのに。
『りひとも、たまにはいきぬきをしないと、かたをこるよね?』
時折、魔界の王様は自分の世界のモンスター達に、モンスターと呼ばれる存在たちの見回り、パトロールをさせるのだと、あねさま方はいっていた。
何か異変が起きていないか確認するのだと。彼の今回のお仕事はそれなのだと。
そうして、あの日の年はその見回りの年にあたっていたのだ。雪妖怪の里も、例に漏れずやってきた。それが十にもならないような幼い男の子が―――リヒトシュルト、彼だった。
そんな幼い彼を見て、あねさま方はいっていた。あんなに小さくては、たまに息抜きをしなければ肩が凝るのではと。いつか体調を崩すのではと。あんな小さい子に仕事を任せるなんて、魔界のお偉方は何を考えているのだと。
それを聞いていた華雪は、息抜きという言葉の意味を何となく知っていた。やはりあねさま方が、息抜きは必要よねと呟きながら、歌留多や花札に興じているのを。息抜き、それはつまり遊ぶこと。幼い華雪はそう理解した。
『だから、あそぼう?』
だから。
華雪は、彼を遊びに誘うことを悪いことだとは思わなかった。彼にだって、息抜きが必要だろう。あまり里のお仕事を真面目にこなしていないあねさま方だって、息抜きが必要らしいのだから、幼い彼なら尚更だろうと思ったのだ。
彼はニコニコと笑みを絶やさない子だったけれど、華雪には彼が無理して笑っているように見えた。
華雪は、彼の無理していない笑みが見たかった。綺麗な色を纏う彼が笑うところを見たかった。綺麗な色を纏う彼が笑えば、どれだけ輝いて見えるのだろうと思ったのだ。
華雪は、次第に彼を笑わせたいがために、彼を里のいろんな場所へ連れて出掛けた。時間の許す限り、仕事を邪魔しないように、彼の知らない場所、彼の知らない世界を見せるため、彼の手を握って走り回った。
凍てついた水面で滑ったり、かまくらを作ったり、雪だるまを作ったり、常に吹雪く場所へと案内したりした。
彼との時間は、やがて華雪にとってかけがえのない時間となった。大切で、失いたくない楽しい時間は、あっという間に過ぎていった。
里の中では、彼と一番年が近いのは華雪だけだった。だから、滞在中ずっと彼の自由な時間には、彼の隣には華雪がいた。
二人は、いつからか互いが何もいわずとも、どちらからともなく一緒に行動するようになっていた。何もなくても、ただ見つめて笑いあうだけで気持ちが通じるようになった。
そんな風に、いつも同じ時間を一緒に過ごしたからこそ、二人が次第に、互いが離れ難くなるのは当然のことだった。
けれども出会いがあれば、必ず別れは来る。
それが来客ならば、別れは近いのは至極当然。
お客人というのは、短期間に訪れるのだからこその客なのだから。ずっと来たまま帰らずならば、それはお客人とはいえないのだ。
彼が帰る日が明日、という日の夜。華雪は、初めて出来たお友達と別れたくないと、しかし我慢をして気持ちを押し隠して―――無理をして熱を出した。
『はなゆき』
彼は華雪を見舞った。里には存在しない花を片手に。
『もういちどきみにあいたい。だから、やくそくを、きみに』
さいかいをねがって、と彼が華雪の手に握らせたのは、小さくてふわふわした白い花。まるで小さな白い鞠のような花だった。
『これはね、やくそくのいみをもつ、はなだよ』
シロツメクサというんだよ、と彼はほんのりと赤い、照れた顔で笑って。
彼に華雪は微笑み返した。彼が、もう一度会いたいといってくれたことが嬉しかった。彼が、もう一度会う約束をしてくれたことが嬉しかった。
『だから、このおわかれは、さいかいのための、おわかれなんだよ、もういちどあうために』
嬉しくて、また会えるのだと理解した華雪は、安堵して眠りについて―――翌日、起きたときには彼はもういなかった。
それでも、華雪は泣かなかった。華雪には、約束の花があったから。
―――かならずきます。きみが、じゅうごのせいじんのぎをむかえたら、かならずむかえにいきます。
一通の、辿々しい筆跡で書かれた便箋が添えられて。最後にリヒトシュルト、と記されていた。彼が、慣れない日本語で書いたのだというのはあきらかだった。その便箋には、彼の魔力がこもっていたから。
「リヒト」
華雪は彼の名を呼ぶ。
「リヒト、リヒト」
会いたい、会いたくてたまらない。
あの日のシロツメクサの意味を、華雪は信じて待っていた。大好きな彼が会いに来てくれる日を、毎日毎日待っていた。
「リヒト」
溢れ出し止まらない涙を拭いながら、華雪は助けを求めるように手を伸ばした。
その先にあるのは、自室の文机の上に飾られた、背の低い小さな小さな翡翠色の硝子の花瓶。そこには、あの日の約束の花が枯れずにあった。そして、花瓶の側には便箋が一枚。
約束の花は、リヒトの温かい魔力に包まれて、この寒い雪妖怪の里でも凍ってしまうことはなかった。 もうじき、あれから五年が経つ。花はあの日のまま、華雪の目の前にある。
「会いたい、会いたいよ……」
華雪の頬を涙が伝い落ち、畳に落ちる頃には融けない結晶となって転がってゆく。
リヒトは、華雪の初恋だった。
華雪の一族は、男性がいない。だから、一族は外で伴侶を得て、子を成す。
そして、華雪の一族にはある約束事がある。
―――“恋は止めない。けれども叶わぬ恋は身を滅ぼす。故に、叶わぬ恋は閉ざす。”
かつて華雪の遠い祖先たちが決めた約束事。
叶わぬ恋をした華雪の祖先のひとりは、泣きながら雪の大地に融けて還っていった。
華雪が抱いた初恋は、まだ華雪の胸を焦がす。成就まで温めていた恋心は、叶わぬことなく、閉ざされる運命にあった。
閉ざす、すなわち……記憶を、封じること。
「あぁ……」
これは、華雪のため。身を滅ぼす前に、記憶を閉ざす。華雪が融けて雪に還るまでに、恋した記憶を消す。
華雪が恋した相手は、決して叶わぬ相手だった。
彼は、手の届かない地位の人だった。華雪からすれば、遥か遠くの高みにいる人だと。しかも、異なる世界の尊い人なのだと。
そして、尊い人の隣には、相応しい地位の人が婚約者として立っているのだと。
華雪はただの一般の雪妖怪にすぎない。長の直系とはいえ、彼とは天上の月と海底の魚くらいに差が開いている。
だから華雪の記憶を消して、華雪と他の者を妻合わせるのだと。華雪に見合った地位の者と、華雪は夫婦になるしかないのだ。
恋した相手は、恋をしてはいけない相手だったのだから。
「………」
―――長に会い、厳しい現実を突き付けられた翌朝、華雪はのっそりと布団から這いずり出た。その動作には、まるきり覇気や生気といったものが全く感じられなかった。
「……っう」
華雪の瞼は赤く腫れ上がり、切れ長の目は糸のようになっている。もちろん視界も狭まっており、華雪の動きがよりゆっくりになる一因を作っていた。
「………」
華雪はゆっくりと上体を起こし、時間をかけて膝立ちになり、震える足を叱咤して立ち上がった。
昨晩ずっと泣いていたのだ。すっかり体力も水分も使い果たし、体も重く力がうまく入らず、まるで病み上がりの患者のようだった。
それでも華雪は襖を開け、縁側へ出た。
襖を開けたことで、外から新鮮な空気と朝の眩しい陽光が、部屋に満ちていく。どこかどんよりとしていた室内も、空気を入れ換えたことで、重苦しい空気が霧散したようだった。
まだ敷いたままの布団の上では、大量の結晶が金平糖のように散らばり、陽光に照らされて虹色に輝いている。それらはすべて、華雪が流した涙の成れの果てだ。
昨晩大量に涙を流したことも、華雪のゆっくりな動き、ふらつき等―――体力低下の主な原因である。
彼女たち里に住まう一族の者は、あまり涙を流さないように普段から意識している。彼女たちの涙には妖力が多量に含まれ、それを流すことはつまるところ、妖力の大量消費に繋がる。
彼女たちは、妖力を一度に大量に消費すれば、妖力はずるずると一気に枯渇する。何故ならば、彼女たちの妖力の源は雪である。雪は一度溶け出すと、あっという間にすべてが溶けてしまう。だからこそ、彼女たちの妖力も枯渇する。
そして、今の華雪の状態はそれに近かった。ただ華雪の場合、その身に秘める妖力が尋常ではない容量であったので、すぐに枯渇に直結はしない。けれども危険には変わりはない。枯渇するというのは、存在の消失、つまり死を意味しているのだ。
「……っ」
震える足を叱咤して縁側に出た華雪の顔は、病人どころではなく、まさしく三途の川に向かいかけている顔であった。
ふらふらと、華雪は地面に足を下ろした。一面真っ白な雪原を、裸足で一歩、一歩と進む。
何歩か進んだところで、華雪は仰向けに倒れ込んだ。長い銀髪が扇状に広がり、雪の色に同化していく。
手を伸ばし、足も伸ばし、視界に映るのは曇天ではなく、雲ひとつない蒼穹。
里は珍しく、晴れていた。里で晴れる日など滅多にない。そして、このように晴れ渡る日なんて、年に一度あるか、ないか。
「…………」
しばらく、華雪はそのままだった。
体力や妖力を早急に回復したいとき、彼女たちがよくとる手段が“雪原の上に寝転ぶ”である。妖力の源である雪から直接妖力を吸い上げ、精気を養うのだ。
華雪が寝転ぶ理由はそれだった。
けれども、華雪は妖力も体力も回復したというのに、一向に起き上がる気配はない。
「……………」
ただ無言で、呆然とただ一面に蒼い空を見上げるだけ。
華雪は、呆然としながらも蒼い空を見て、ひとつ思い出し始めていた。
リヒトが帰ったあの日も、空は青かった。あの日と同じ空が、今日も広がっていた。
あまりにも雄大で、あまりにも広大な空を見上げていると、華雪は何だか馬鹿馬鹿しくなってきた。
―――自分は、ただ泣いているだけだった。自ら動かず、待つだけだった。成人の儀は、年が明ければすぐに執り行われる。
リヒトは、成人の儀を迎えるときに会いに来るといっていた。
でも、華雪は彼が成人の儀より前に来ると、勝手に思って勝手に期待した。
勝手に期待して、勝手に待って、それは待ちぼうけになっても仕方がない。自分から動いていないし、まるで悲劇のヒロインになりきっていた。
今まで、華雪は流されていただけだった。恐れて、戦いて前に進むどころか後退し、周囲に守られるだけ。
流されているのは、楽だった。戦いて後退するのは、楽だった。
前を見ることを恐れ、拒否し、楽な方へ楽な方へと逃げていた。こんな華雪だと、もしリヒトが会いに来てくれても、彼は落胆するだろう。
華雪はすっくと立ち上がり、空を再度見上げた。
―――その足も震えることなく、大地を踏みしめ、その目にはもうどこにも迷いはなかった。