〜8〜
僕の中に響いてくる声を辿ってついたそこに美冴はいた。
そこはひどく懐かしい場所だった。
昔、よく学校帰りに健太たちとサッカーをした公園。母さんが、いつも僕を呼びに来てくれていた広場。いつか、美冴が僕に優しい目を向けてくれた場所。
懐かしさに溺れそうになったのは、多分、そこに美冴がいたからだ。そこにいるのは、十歳のまだあどけなさの抜けきらない少女ではなかったけど、広場で遊んでいる子供たちの中にあの頃の僕はいなかったけど、ここには今の美冴がいて、今の僕がいる。
今は過去に投影されて、過去は形のない思い出へと移り変わっていく。その片鱗に僕は確かに触れていて、美冴はその媒体になっていた。
不思議な感覚だった。
こみ上げてくる感情。
想いすべてが、僕の意思とシンクロして、広がっていく。まるで、今初めて美冴と四年ぶりの再会を果たしたような、そんな気さえしてくる。
僕は広場の入り口に立って、ベンチに座っている美冴をただ見つめた。美冴もずいぶん前から僕に気づいて、視線を僕に留めていた。
僕と美冴を挟んで、小学校低学年ぐらいの子供たちが、夢中でサッカーボールを追いかけている。僕たちの間には子供たちが夢中になって遊べるぐらいの距離があった。目算で、多分二十メートル弱。換算できる、つかみ所のある距離。
すぐにでも美冴の下に駆け寄って行きたい衝動と、ここからすぐにでも逃げ出してしまいたい衝動が、僕の中で綱を引いている。優劣はどちらにもなくて、勝負の行方は分からない。
(ごめんなさい……)
美冴は、ずっと僕に視線を留めたまま、誰かに謝り続けていた。
きっかけが必要だった。
僕にも美冴にも。
途切れていた僕たちの時間が、再び動き始めたというシグナル。そうすれば、僕たちはリレーのランナーのようにスタートの合図と同時に一歩を踏み出せる。きっと――。
そのとき、僕の傍らで不満げな犬の鳴き声が響いた。
僕は驚いて、掴んでいたリードを手放した。
自由になったメルシーがとことこと広場の真ん中を通って、美冴のもとへ歩いていく。
子供たちは動きを止めてメルシーを見守っていた。
美冴の声が、僕の中から静かに消えていく。
僕は、最初の一歩を踏み出した。
メルシーは美冴の足元までたどり着くと、なにをするでもなくじっと美冴を見上げていた。それから、自分のほうへ近づいてくる僕を見やってから、もう一度美冴を見上げる。
美冴はメルシーをそっと抱えあげてから、ベンチから立ち上がった。僕は、メルシーの通った跡を辿りながら、美冴の前まで来ると、足を止めた。
美冴の腕の中で、メルシーは綿飴のようなふわふわした丸い尻尾をかすかに揺らして、くつろいでいた。そんなメルシーを見て、僕は苦笑するしかなかった。そして、美冴に目を向けると、美冴もおかしそうに口元をほころばせていた。
「その」
僕はそう言って、口ごもりながら「こんにちは、本多さん」と声を発した。美冴も、穏やかな顔で、僕に声を返してくれた。
「こんにちは、藤堂君」
それだけ言葉を交わしただけで、僕と美冴の距離がぐっと縮まったような気がした。いや、縮まったと言うよりは、失っていた遠近感が、ふっと戻ってきたようなそんな感じかもしれない。
「この犬、藤堂君の?」
しばらく黙り込んだ後、沈黙を破ったのは美冴だった。
「いや、僕の犬じゃないんだ。大家さんが、ペットの託児所をやってて、そいつは、そこに預けられた犬なんだ」
「そうなんだ」
「うん。今日で四日目。飼い主は旅行で、置いてきぼりなんだ」
「そう。かわいそうだね」
「でも、喜んでるみたいだよ」
僕はそう言って、メルシーに目をやった。
「普段は無愛想な奴なんだ。決して大人しく人に抱っこされるような奴じゃないのに」
美冴は曖昧に微笑んでから、そっと僕にメルシーを返した。僕の腕の中で、メルシーは急に不機嫌になって暴れだした。
ほらね、と笑いかけると、美冴はくすっと笑った。それから、メルシーは僕の腕の中からさっさと脱出して地面に降り立った。
「それとも、僕にだけ懐かないのかもしれない」
「そんなことないと思うけど」
「そうかな」
「うん」
それから、僕たちは口に出すべきことを見失って、再び黙り込んだ。結局、その沈黙が導く先は、一つでしかなかった。今の僕たちが共有しているものは、現在でも未来でもなくて、過去しかないのだから。
「久しぶりだね」
僕はそう言って美冴に笑いかけた。
僕の言葉に、美冴がかすかに肩を震わせた。静まっていた声が、また僕の中に流れ込んでくる。
(ごめんなさい……)
美冴は、唇を震わせながら、くぐもった声で「ごめんなさい」と言った。その言葉は、二重に折り重なって、僕の中に流れ込んできた。
僕は戸惑った。でも、僕以上に美冴は戸惑っていた。
やり場のない視線を、美冴は自分の足元に向けていた。僕は、どうしていいか分からずに、ただ「どうして、謝るの?」と声を出していた。
「手紙、私の方から一方的に――」
美冴はその先を言葉にはしなかった。僕は、引き継ぐように言葉を発した。
「謝ることないよ」
(ごめんなさい……)
「私、藤堂君を傷つけてしまったんじゃないかって」
「そんなことないよ。確かに、ぜんぜん気にしてないって言えば嘘になるけど、そのことは僕の中ではもう解決してることなんだ」
美冴は、俯けていた視線を、そっと僕の顔へとなぞった。
「ただ、何か本多さんに辛いことがあったんじゃないかって――」
そのことが心配だったんだ、なんて恥ずかしくて口に出すことはできなかった。でも、美冴は途切れた言葉の先を手繰り寄せて、僕の想いを汲み取ってくれていた。
「藤堂君」
(ごめんなさい……)
「ありがとう」
美冴の声は儚く響いて、子供たちの無邪気な叫び声にかき消された。僕はその儚さに胸を痛めながらも、そこに含まれた悲しみのすべてを汲み取ってあげることはできなかった。