〜7〜
僕はメルシーを連れて、公園の中を歩いていた。
モコモコな真っ白な毛に覆われた、ビション・フリッセ。名前はメルシーというらしい。僕の住むコーポの大家さんがペットの託児所をしていて、学校から帰ってから僕が預けられたペットを散歩に連れて行くことは、毎日の日課になっているのだ。
どうやら、メルシーは飼い主の躾が行き届いているらしく、リードを持っていなくても一匹で大丈夫なんじゃないかと思うほど、大人しく一定の速度を保ちながら、遊歩道を歩いていた。ただ、難点はその見た目だ。四肢の毛を等間隔に切りそろえられたモコモコの体は、生き物というよりはよくできた人形にしか見えない。さらに、オカッパ頭のように切りそろえられた毛と、毛の奥からのぞく二つのつぶらな瞳に、鼻から口を覆う整えられた毛は立派に蓄えられた口ひげのようで、その顔は、下手な漫画に出てくるような仙人を連想させる。つまり、これだけ目立つ犬はそうそういないと言うわけで、すれ違う人は、老若男女問わずみんな振り返ってメルシーに物珍しげな視線を向けていた。
「こうしてお前連れてると、やっぱり僕がお前の飼い主に見えるのかな」
僕はそ知らぬ顔をして歩くメルシーに、そっと話しかけた。もちろん、周りに人がいないことを確かめて。
「別にお前の飼い主と思われるのが嫌ってわけじゃないぞ」
優しくフォローしながらも、本人は無反応だった。当然と言えば、当然か。なんせ、僕たちはつい三十分前に大家さん仲介のもと知り合ったばかりの他人同士(メルシーは犬だけど)なのだ。だが、一声鳴くぐらい、愛想を振りまいてもいいんじゃないか?
「かわいくない奴だな、お前」
やはりメルシーは無反応で、僕も黙ってメルシーについて歩くことにした。
唐突に、僕の中に声が流れ込んできたのは、その時だった。
(ごめんなさい……)
それは、水面に零れ落ちた一滴の水滴が引き起こす波紋のように、静かに、ひどく控えめに僕の中に響いて、消えていった。僕は、消えていったその声の行方を探し当てるために、立ち止まってからそっと目を閉じた。
(ごめんなさい……)
静寂に包まれた暗闇の中に、静かに静かに、その声が響く。
(ごめんなさい……ごめんなさい……ごめん……ごめんね……)
静かな波紋が、小波のように押し寄せて、大きな感情の渦に飲み込まれていく。ひどく悲しげで、ひどく寂しげで、ひどくかわいそうで。その声は、言葉にならない感情を抱え込んで、泣いているみたいだった。
目を開けると、メルシーが「どうしたんだよ」とでも言いたげに、僕のほうを見ていた。僕は「なんでもないよ」と言ってから、消えた声の名残に触れるために、もう一度目を閉じた。
不満げな犬の鳴き声が、すぐそばから響いてきた。
それから、公園を散歩するたびにその声は僕の中に響いてくるようになった。
日に日に、強く。日に日に明瞭に。
それが必然なのか、偶然なのかは分からない。分かっているのは、その声が僕と美冴をそこで引き合わせたということだけだ。
それは意味のあることなのだろうか。
その声が聞こえさえしなければ、僕と美冴がそこで出会うことはなかった。もし、そうなっていたなら、僕と美冴の人生はどんな風に変っていただろう。もし人生を自由に選べるとしたなら――。
季節の変わり目に吹く風が、僕を通り過ぎていった。その風が運んだものは、季節の移ろう狭間にだけ顔を出すはかない予感と、悲しげにこだまする美冴の声だった。