〜6〜
検査入院といいながらも、それから母さんが家に帰ってくることはなかった。二日や三日ならともかく、一週間や二週間ともなるとさすがに「大丈夫だよ」という家族の声も、僕には何の説得力もない飾り文句にしか聞こえなかった。でも、入院している母さんは確かに元気そうで、母さんからの「大丈夫だよ」の言葉には確かな説得力があった。
例えば、洗面台に残された赤い歯ブラシだとか、控えめな桜の花びらのあしらわれた茶碗だとか、化粧台の上に置かれたままの化粧品だとか、家の中にはまるで時間に置き去りにされて、過去に取り残されてしまったものがたくさんある。
だから、僕は毎日のように病院を訪れては母さんの病室で時間を潰した。母さんの時間が僕たちと同じところで動いていることを確かめるために。それを、すぐそばで感じるために。小さな不安の気泡を、漏れ出してきた瞬間に握りつぶしてしまえるように。
僕は気づいていなかったんだ。
そうしている間にも、少しずつ使われなくなったものは埃をかぶっていることに。それがだんだん積み重なって、やがてそれはすべてを飲み込んでいくというのに。
「大丈夫」と言う母さんの笑顔だけに、僕は目を向けていた。
週に二度、母さんに本を届けることは僕の仕事になっていた。母さんの三十五年の人生の中に、小説を読むという選択肢は今まで片手で数えるほどしかなかったと言うぐらい、母さんは本を読まない人間だった。だから、入院してから、母さんが本を読むようになったことには、僕だけではなく、父さんも姉も一様に驚いていた。
「本を読んでるときは、何も考えずにいられるから、ちょうどいいのよね」
母さんは、そう言って照れくさそうに笑う。
なんにしても、少しでも母さんが満足できるのなら、僕にはそれでよかった。