〜10〜
母さんが入院している病室は六人部屋だった。母さんのベッドは部屋の一番奥に置かれている。他の五人の入院患者は、一様に明るくて、体のどこかに包帯やギプスをしている以外は、とても健康そうだった。そして、母さんもそのうちの一人で、僕は初めてこの病室を訪れた時、ここが果たして本当に病院の一室なのか疑わしく思った。
でも、それはただ思い込もうとしていただけなのかもしれない。
無意識に、そうであって欲しいと願いながら。
そこに充満している健康さが、ひどく不自然であることを意識しながら。
ある種の予感を感じ取りながら、その日、僕はそのことに初めて気づいたのだった。
その日は、クラス委員の仕事が長引いて、学校を出たのはいつもより二時間も遅れてからだった。家を経由せずに病院に直接向かっても、面会時間にはぎりぎり間に合うかどうかだった。でも、どうせ諦めるならとりあえず行ってみてからにしようと決めた僕は、バスに乗って、二つ隣の町にある病院へ向かった。
病院に着くと、面会時間までには後二十分ほど余裕があった。僕は、母さんが入院している病棟に入って、母さんのいる六人部屋の病室の中の様子を外からのぞいた。
病室の中は、いつもと違って、薄い暗の中に沈んでいるように見えた。それは、入院患者にとっては時間がもたらす、ごく自然な情景でしかないのかもしれない。毎日通り過ぎている、日常の一部に過ぎないのかもしれない。でも、初めて薄い闇に覆われている病室を目の当たりにした僕には、それは異常な光景にしか見えなかった。
白一色に統一された部屋の中が、影に侵食されて、沈んでいく。
そのとき、僕は初めてそこに潜む真実を垣間見た気がした。
影の中に侵食されて、沈んでいく人たち。
そこにいる人間と、いない人間。
確かにそこには、見えない境界線が存在していた。
僕の目は、自然に母さんの姿を追い求めていた。でも、母さんのベッドの周りはカーテンに仕切られて、母さんの姿を見ることはできなかった。
そのとき、不意に僕の中に声が響いてきた。
(ごめん……)
それは、外から内に伝わってくるものとはまったく性質の異なったものだった。僕は、その声を聞いているのではなく、感じていた。
(ごめん……ごめんね……)
母さんは、何度も何度も繰り返し謝っていた。
父さんに、姉さんに、そして、僕に。
母さんは泣いていた。泣きながら、僕たちに謝罪していた。
僕は、カーテンの向こう側でかすかに揺れている人影をじっと見つめた。
これは、僕の感情なのか? それとも、母さんの?
張り裂けそうな胸の痛みに、僕はどうにかなってしまいそうだった。辛くて、悲しくて、悔しくて、愛しい。言いようのない感情の奔流が、僕の心を飲み込んでいく。
僕は泣きたくなった。今すぐ、カーテンの向こう側に駆け寄っていって、母さんを力の限り抱きしめてあげたかった。このどうしようもない喪失感に流されそうな母さんの心を、少しでも救ってあげたかった。
でも、それを行動に移すだけの勇気を、僕はまだ持ち合わせてはいなかった。僕は怖かったんだ。そうすることで、変ってしまう何かが。
その何かは、今の僕が受け止めるにはあまりにも残酷で、重すぎるものだった。僕は「大丈夫だよ」と言って笑いかけてくれる母さんを、そんなときにも求めてしまうほど、どうしようもなく、子供だった。
確かな予感が、母さんの声を通して僕の中に根付いていく。
僕はそれを振り払うために、その場から逃げるように駆け出した。
病院を出て、バス停を通り過ぎて、暗闇に沈んだ風景の中を僕はがむしゃらに走り続けた。
体全体にのしかかる苦しみに、心の痛みを紛らわせてしまいたかった。いっそ、息なんてできなくてもいい。この心の痛みを引き換えにできるなら、どんなことでも受け入れられる。
やがて、限界を通り越した僕の体は、意思とは関係なく走ることを止めて、僕はその場に倒れこんだ。
母さんの声は、もう響いてはこなかった。そして、初めて僕は大声をあげて、泣いた。
誰もいないのに、誰かの声を感じてしまう。そう言ったら、誰か信じてくれる人はいるだろうか。
突然、僕の心に入り込んできて、いつか、その声は消えてしまう。そのとき、僕は小さな子供のように大声で泣きながら、その声が僕を介して、やがて消えていく意味を感じ取った。
それは、悔しいというより、辛かった。
辛いというより、悲しかった。
悲しいというより、切なかった。
切ないというより、愛しかった。
涙にしか託せない感情は、涙に溶け込んで流れていく。流れた涙は、喪失感となって染み込んでいく。喪失感は、時間とともに薄らいでいく。
やがて、涙が枯れた頃、僕たちは大切なものを一つ失っていく。