磁石の手
きっとヤヨイは生まれた時からそうだったのだが、そのことに気づいたのは次女である私が生まれた後だった。
私の姉ヤヨイの両手は磁石になっていた。なぜそのことに私が生まれてから気づいたのかと問われれば、それは私の両手も同じように磁石だったからだ。
磁石といっても、姉と私、どちらの両手も本物の磁石のように金属にくっつくわけではない。では何に引き寄せられるのかといえば、私の右手の場合それはヤヨイの左手だったし、ヤヨイの左手の場合は私の右手だった。
つまり私たちは左右の手のひらにそれぞれS極とN極を持っていたのだ。私の右手は未来永劫ヤヨイの右手と繋がれることはない。お互いの左右の手をそれぞれ引きつけ合うだけのこの磁石は、弟のヨウイチももちろん同じように持って生まれてきた。
一度繋がれたらなかなか離れないこの両手を母のみつこは最大限活用していた。危ない路地を渡る時や人ごみの中をかき分けて進む時に特に便利だった。なんせ一人の手を引いていけば残りの二人も勝手についてくるのだ。おかげで私たち姉弟は孤独な迷子とは無縁だった。たとえ母の手から離れてしまっても、もう片方の手には必ず姉弟が一人くっついている。幼かった私たちにとって、これはとても心強かった。
手の磁石を見せるとたいがいの人は驚いていたが、父のアキオだけはほっと息を吐いていた。その表情からは、むしろ血で引き継がれた母の異常さがこれくらいで済んでよかったという気持ちが見てとれた。
確かに母に比べれば私たち姉弟は正常に近いが、それにしたって手に磁石の性質を伴っていることは十分異常ではないだろうか。十五年以上間近で母の奇行を見てきたアキオの常識的感覚は、すでに決壊寸前の状態に陥っているに違いなかった。
しかし成長していくにつれ私はつくづくアキオの意見に同意することになる。それくらい母はおかしかった。
母とアキオの馴れ初めを本人含め様々な人に聞いて回ったが、たとえあの夕食会の後から本格的に交際を始めていったにしろ、よく結婚まで行き着くことができたなと感心するしかない。アキオの血のにじむような忍耐と努力の結果私たちは生まれ、体の半分を流れるアキオの血のおかげで年齢相応に常識的感覚を持つことができている。
私たちの両手は磁石になってはいたが、それは姉弟間でしか反応しないので、私たちは日常生活の中ではめったに困ることなんてなかった。
たまにふとした拍子でくっついてしまうのは鬱陶しかったが、うんと幼い頃ならまだしも、それなりに歳を重ねていくと姉弟で手を繋ぐなんてことは少なくなっていく。
しかし、だからこそ私たちは気づかなかった。
本当に偶然がいくつも重なって、なおかつ私たちがそのことを現実だと認めるにはあまりにも時間がかかり過ぎてしまった。
なんてもったいない時間を過ごしてきたのだと今は思う。
きっかけはそう、先ほども言った通り、私たちの父アキオの失業と母の帰宅時間の遅延と、それから私たちの空腹だった。
話は今より半年前にさかのぼる。
その日ヨウイチは近所中に響き渡るような泣き声を上げて帰ってきた。
ヨウイチは口数が少なくてあまり自分のことを話さないくせに人一倍泣き虫なやつだった。将来はきっと寡黙でミステリアスだけど本当は甘えん坊の厄介なやつになる、とヨウイチについてそう言及していたヤヨイは、ヨウイチの泣き声を聞くとすぐさまリビングから自室に避難していった。自室といっても私たち姉弟の共同部屋だ。
すでに腹ぺこだった私はリビングのこたつに体を埋もれながらじっと動かないでいた。
母が帰ってくるまでもう一キロカロリーも消費しないぞ、と決断して意識を半分ほど無に近づけていた私にヨウイチは洗面所で石鹸を使って手を洗った後にしっかりうがいを三回済ませてからリビングに入ってくるなり抱きついてきた。このちゃっかり者。
私はヤヨイに比べればまだこういう時のヨウイチの対処を怠っていなかったので、明らかにめんどくさい状態のヨウイチを日頃から避けているヤヨイよりもヨウイチは私に懐いていた。
一キロカロリー……二キロカロリー……と目測で数えながら私はゆっくりと腕だけを動かしてヨウイチの頭を撫でる。それ以外に特にすることはない。私がめんどくさい状態に突入したヨウイチにしてやっていることはいつもこれだけだった。
三十キロカロリーくらい消費したところでようやくヨウイチは大人しくなったので、私はトイレに立とうとしたが、こたつから出ようとする私の左手を誰かが引っ張った。もちろんそれはヨウイチだったが、正確にはヨウイチの右手であってヨウイチ自身ではない。
ああくそ。いつの間にくっついたんだ。こなくそ。
振りほどこうとしたが、すでに泣き疲れて夢と現実の狭間をさまよっているヨウイチに余計な刺激を与えて再び覚醒させてしまうのはよくなかった。
仕方ない。お腹が減って動きたくないし、もうすぐ母も帰って来るだろうし、それまで我慢しよう。母が帰って来るタイミングでヨウイチも起きるだろう。そしたら手を外せばいい。
そう結論を下して、私は再びこたつへ潜った。
それから間もなくして私は眠りに落ちることになる。
そして第一回目が起きた。
私はゆっくりと瞼を開けた。目が覚めたらしい。隣ではヨウイチがまだ寝息を立てている。 時計を見ると、ヨウイチが帰ってきてからそんなに時間は経っていなかった。 大きく欠伸をして背筋をぐっと伸ばした時、体の違和感に気がついた。
なんだか腕が重たい気がする。
まさかと思い確認すると、案の定眠る前は自由だった私の右手がヨウイチの左手にくっついていた。
いつの間に。
おそらく眠っている間に何かの拍子でくっついたんだろうけど、さすがにこれは不便極まりない。
ヨウイチ、ヨウイチ、と私はヨウイチの体を揺すってヨウイチを起こす。眠りから覚めて目を擦ろうとしたヨウイチは両手が私の手に塞がれていることに気がついた。
「なんだこれ」
私とヨウイチは体を引き離すように踏ん張ってくっついている両手を外す。
やっと自由の身になった私はそそくさと立ち上がりトイレに向かった。もうそろそろ限界が近かった。
トイレで用を足し幸福な気持ちにまみれていると、突然ヨウイチの悲鳴が聞こえてきた。
ドタバタと慌てふためく大きな足音が廊下に響き、トイレのドアをガンガン叩きながらヨウイチが叫ぶ。
「ユズ、大変だ! ペリカンとクジャクが戦争してる!」
はあ?
意味不明な言葉を喚きながらヨウイチはドアをガンガン叩く。
用を済ませて後処理をして手を洗って濡れた手をハンカチでしっかり拭き取ってから私がトイレから出ると、ドアの前で喚き散らしていたヨウイチがすぐさま私の腕をとって力任せに引っ張って行く。
再びリビングに戻るとヨウイチはカーテンの隙間を指さして私を窓の前に立たせた。
窓の向こう、外の光景を見て私は目を疑った。
住宅街の連なる屋根の上を、無数のペリカンとクジャクが飛び回っていた。
でもただ飛び回っているだけじゃない。戦っている。数え切れないほどのペリカンとクジャクが空中戦を繰り広げていた。
空を飛ぶペリカンはどれも吹き矢のような筒をヒュッと吹いて針を飛ばしクジャクを次々に撃沈している。
一方クジャクは肉弾戦のみを戦法としているらしく見るからに苦戦を強いられていた。
墜落していくクジャクの体が大きな音を立てて次々と住宅の屋根を破壊していく。
空にはゴァーだとかビャーだとか鳥の怒鳴り声が飛び交って、白と黒っぽい色の抜け落ちた二種類の羽が空を覆うように舞っていた。
そもそもクジャクが空を飛ぶことさえ知らなかった私はそれだけでもかなり衝撃的だったのに、眠っているわずかな時間の間に始まっていたペリカン・クジャク戦争を目の当たりにして完全に体が固まった。
なんぞ……なんぞこれ……と目を泳がすだけの私の横で、ヨウイチは思いついたようにパッと身を翻しこたつの上にあったリモコンを手にとってテレビを点けた。
ヨウイチの行動によって我に返った私は振り返り電源の入ったテレビを見つめる。
そして私は再び停止した。テレビでは『ベルトコンベア通り、今日は新作シュークリーム流れる』のテロップが画面の隅に打ち出され、長い金髪を巻いた青い目のきれいな外国人がベラベラとまくし立てるように何語かでニュースを読み上げていた。
私とヨウイチが唖然としてテレビを眺めていると、ドン、ドドドドン! と突然大きな音が響くと同時に家が揺れる。
何か重たい物が落ちてきた衝撃音。
ぞっとして、私は駆け出した。
町に降るクジャクの雨。二階にはヤヨイがいる。
廊下を走り階段を駆け上がって私は姉弟の共同部屋のドアを勢いよく開け放つ。
「ヤヨイ!」
天井に大きな穴が空いた部屋の中には、崩れ落ちた屋根の一部や小さな木材の破片が散乱し、ところどころにつくね棒のような長い針が刺さり血を流してピクリとも動かないクジャクの体が七つ転がっていた。
そしてその中心に二段ベッドとほぼ同じ大きさの巨大なペリカンの後ろ姿があった。
私は動きを止める。
喉を低く唸らせながら、巨大なペリカンは飛び立とうと翼を広げた。
ペリカンが空を見上げた瞬間、再び私は駆け出した。ペリカンの巨大なクチバシから、ヤヨイの白い足がはみ出ているのが見えたのだ。
私を足にしがみつかせたまま、ペリカンは空高く飛び立った。
「ユズ!」
遅れて部屋に入ってきたヨウイチが私の姿を見て叫ぶ。
「ヨウイチ、私、絶対ヤヨイ、取り戻してくるからああ!」
「ユズゥゥウ!」
ペリカンはぐんぐん高度を上げる。私がしがみついていることなんて気にも止めていない。あっという間に住宅街が豆粒みたいに小さくなる。冷たい風がビュンビュン頬を掠めて髪の毛をかきあげる。私はぎゅっとペリカンの足に手足を絡ませた。
下を見ると切れた雲の間から青い海が見える。
海!
いつの間に!
ペリカンは地平線の向こう、すでに頭のてっぺん以外ほとんど沈みきった、赤く燃える夕日に向かって飛んでいく。
「どこに行こうとしてるのか知らないけど、ヤヨイを返せ!」
私はペリカンの足にぎゅっと絡みつかせていた手足をほどいてペリカンの体をよじ登る。白い体毛を握り掴んで勢いをつけてから片足を振り上げてペリカンの背中にかけた。よし。後は体をよじってひねって力任せに無理やり登る。
ペリカンの背中の上は今まで以上に風が強く吹きつける。私は体勢を低くとってペリカンの体にへばりついた。そのまま少しずつペリカンの頭の方へ進んでいく。
首の付け根のところまで来て私はペリカンの顔を覗いた。ヤヨイの足はさっきと同じようにペリカンの口からはみ出たままだった。よかった。まだ飲み込まれてはいないらしい。
私は左右の手の指を絡み合わせて一つの拳を作る。
「このっ――」
そのまま腕を振り上げて、私はペリカンの頭めがけて思いきり拳を叩き下ろした。
「返せっ! 返せっ! ヤヨイを返せっ! このっ! このっ!」
私は何度もペリカンの頭をガンガン殴りつける。
ペリカンは悲鳴を上げて私を振り落とそうと暴れまわる。でも私はペリカンの首に足を回してがっしり固定してそれに耐えた。ペリカンの暴れる隙を突いて私は拳を振るい続ける。
「あっ――」
ペリカンが私の連続攻撃から逃れようと乱暴に頭を振った、その時だった。
ヤヨイの下半身がペリカンの口から飛び出し空中に投げ出されそうになり、私は反射的に体を動かす。大きく身を乗り出してペリカンの口の端からぶら下がるヤヨイの下半身に飛びついた。
そして一瞬にして視界が暗くなる。
――臭っ!
途端に鼻をつく強烈な臭気。それから体を包む柔らかい布のような感触。
――しまった!
私はすぐに状況を理解した。
食べられた!
ヤヨイの体に飛びついた私をペリカンはチャンスとばかりに飲み込んだのだ。
この二段ベッドペリカン!
私は暴れようとしたが、すぐにその意志は砕かれてしまう。 ペリカンが上を向いたのだ。
不気味な声を響かせて、ペリカンの体内へと続く巨大な穴が私たちを飲み込もうとする。
私はヤヨイの足を引き寄せる。まだ気を失ったままのヤヨイの体は私一人では支えきれない。ヤヨイの上半身はペリカンの喉の奥に消えている。
このままじゃまずい。
私はペリカンの口を内側からこじ開けようとした。しかし口を開かせまいとペリカンも必死で私の力に抵抗してくる。踏ん張りのきかない体勢ではなかなか力が出ない。それでも私はなんとか隙間程度に口を開かせてクチバシの端に右手をかける。
よっしゃ!
これでまだ踏ん張れる!
――ポンっと、私の体が一瞬宙に浮いた。
その拍子に私の手からヤヨイの体が離れていく。
「え。あ」
あっという間にヤヨイの体は喉の奥に消える。
――ガチン!
「痛っ」
呆気にとられる私の意識を、間髪入れず、右手に走る強烈な痛みが取り戻した。
血。
そして指がなかった。
噛み千切られた四本の指の根元から赤く生ぬるい血が流れ出ている。
私は小さく悲鳴を上げる。
再びペリカンの口袋が収縮を始め、私を喉に押し流す。
「いやあああああああ!」
「――ユズっ!」
大きな声に驚いて目を開けると、目の前にヨウイチの顔があった。心配そうな表情を浮かべて私の顔を覗き込んでいる。
「大丈夫?」
体中に汗をかいていた。服が体にべったりと張り付いていて気持ち悪い。
「ぺ、ペリカンは……?」
私はそう呟いて右手を見た。ちゃんと指は五本ある。よかった。あれは悪い夢だったらしい。
「ユズ、ペリカンって?」
私が安心して深く息を吐くと、ヨウイチははっとした表情で質問してきた。
「夢だよ。めちゃくちゃデカいペリカンに食べられる気色悪い夢」
私の答えを聞くと、ヨウイチは顔をこわばらせ、ゴクリと息を呑んだ。そして信じられないという表情を浮かべて、恐る恐る口を開く。
「……そのペリカン、俺も見た」
「……はあ?」
「夢の中で、めちゃくちゃデカいペリカンにユズがしがみついてどこかに飛んで行くのを見たんだ」
「……いや、だって」
夢だし。
「その時ユズ、ヤヨイ姉ちゃんを取り戻して来るって俺に叫んでた」
「……偶然よ」
偶然だろう。
そりゃあもしかしたら、姉弟や家族や、もしくは偶然隣で眠っていた同士の人間でたまたま同じ夢を共有することだって、人生の中で一度くらいそんな不思議体験はあるかもしれないじゃない。と、私はその時まだそんな風に思っていた。
これが最初の一回目。
この後も間隔を開けてこの出来事は起こることになる。私とヨウイチの奇妙な体験。
そして偶然が重なるに連れて、私とヨウイチはこれは偶然の出来事ではないと疑い始め、今まででこの現象が起こった時の状況を検証し、ついにその夢を共有するための条件を導き出しすことに成功することになる。
その条件とは、『両手を繋いで眠る』。たったこれだけ。
母の血から受け継いだ特殊な体質、磁石の手は、迷子防止のための便利機能なのではなく、姉弟間で夢を共有し、その不思議な世界で遊び尽くすための装置だったのだ。
なんて素敵。
一回目はわけもわからずペリカンに食べられてしまったけれど、私たちは頻繁にその世界に通うに連れ、今少しずつだがあの世界の非常識さに適応し、それを楽しめるようにまでなってきた。
夢を共有する条件を見つけてからはヤヨイも誘い、ほとんど毎日三人で、私たちは空腹を紛らわすために母の帰宅まで眠りこけている。
夢の世界に常識は通じない。しかし私たちは今、あの不思議な夢の世界を解明していこうと息巻いている。
夢である筈なのにたまにものすごく痛い思いをするが、もうだいたい慣れてきたので多少のことならへっちゃらだ。
この素敵で最高に楽しい夢の世界を過ごせる時間を与えてくれた母に私は心から感謝している。
「じゃあまた、夢の中で」
お腹を空かせた気怠い体を三つ輪のように並ばせて、私たちは今日も手を繋ぐ。
磁石の両手が温かい。