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空腹と夢  作者: 広の広
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 何しろ適当な性格だったみつこは、小学生の頃から学校をさぼりがちだった。朝起きて、洗顔をして朝食の白米と味噌汁と味付けノリを平らげて、歯を磨いて髪を櫛でとかす、そんなこともろくにしなかった。毎日の生活がでたらめだった。みつこは、習慣というものをまるで持とうとしなかった。


 ある朝、弟の登校時刻の一時間前に起きたみつこはまず家の屋根に登った。その日は強い風が吹いていたが、まあ落ちても大丈夫だろうとみつこは思った。とりわけすることはなくとも、みつこは二時間以上そこに居た。

 両親はすでにみつこのことを諦めていた。『どんな子供でも年齢と共にそれなりに成長するだろう。気長に待て』。それがみつこに対して出した父と母の結論だった。


 時よりふらりと学校を訪れることはあったが、もちろんみつこは登校しても授業さえ真面目に受けたことがなかった。気が向けば教科書を眺めてじっと机に座っていることはあった。しかし、その割合はみつこが登校してくる割合よりもずっと低かった。

 そして、ついにみつこは小学校を卒業するまでそんな生活を送り続けた。中学生になってもなんら変わらない毎日を過ごすみつこを見た両親は、みつこが中学三年生の冬、みつこを進学させるべきか毎夜頭を抱えて話し合った。父曰わく「そもそも進学できるのだろうか」。母曰わく「どこでもいいから早く嫁に出してしまいたい」。


 その頃には両親の目から見ても、もはやみつこは適当という性格の一言だけでは片付けられなくなっていた。みつこはそれほどまでに異常だった。しかし、それでもみつこは愛する我が子。八日続いた話し合いの間で、父は四キロ体重を減らした。それは文字通り我が身を削る思いであった。


 最終的な結論で、みつこは『受かる高校があれば』進学することになった。しかし試験の合格不合格以前に、みつこはちゃんと試験会場でテストを受けられるだろうか、と心配した父は試験一週間前から「試験を受ける為の三つの約束(『試験中は席に座って問題を解いていること』。『氏名記入蘭には自分の名前だけなく名字もしっかり書くこと』)。『鉛筆は食べ物ではないのでお腹が空いても食べてはいけないこと』。)をみつこが暗唱できるまで覚えさせ、試験当日も試験会場まで車でしっかり送り届けた。


 一週間後の合格発表で見事合格の二文字を勝ち取ったみつこは、晴れて高校生となることができた。


 そして、この高校生活がみつこのその後の人生を大きく決定付ける。


 不幸にも、半田アキオはその高校の入学式でみつこを見初めてしまう。

 たった一目見ただけで、アキオの心は瞬く間にみつこの横顔で埋め尽くされた。


 そしてここが、この女にしてこの男ありと納得するところ。


 アキオは三日と堪えることができず、入学式翌日に学校中からみつこを探し出し交際を申し込んだ。そしてみつこはすんなりとそれを受けとってしまう。


 そこからアキオの人生は始まった。

 みつことの交際は困難を極めた。何しろろくに学校に来ないので連絡がとれない。学校に来ていると話を聞いても行方が知れない。そして会うことができても全く会話が成り立たない。アキオは毎日みつこと顔すら合わせることもできなかった。


 一カ月も経つ頃にはみつこの異常さは学校中に知れていた。当然みつこと交際をしているアキオを見る目も日に日に痛さを増していった。


 ある日、みつことの交際に心身共にすっかり疲弊しきり、眠れぬ夜を過ごしていたアキオの元をみつこが訪れたことがあった。教室の入口から中を覗いてこちらに手を振っているみつこの姿を見てアキオは目を見開き固まった。三限目の授業中のことだった。


 すぐさま腹痛を訴え廊下に飛び出たアキオはみつこの元に駆け寄った。しかし用事がある筈のみつこはなかなか口を開こうとしない。いつになくしおらしく、少し困惑した表情でアキオを見つめるだけだった。


 この子は今、自分に何か大切なことを伝えようとしている。


 そう直感し、アキオは頭を振り絞りみつこが自分に伝えようとしていることを必死で考え始めた。しかし、すぐさまアキオの脳裏に嫌な予感が過ぎる。そしてアキオは導き出した恐ろしい予想にまたたく間に全身を震わせた。

 会えない時間。成り立たない会話。そして突然の呼び出し。

 恋愛経験の乏しかったアキオにだって、それらが恋人という関係の何を意味するのかが理解できた。


 まさか。そんな。まだ手すら繋いでいないのに。


 しかし、死刑宣告を受ける直前の被告人のように引きつった表情で固まるアキオに言い渡された言葉は、気の抜けた台詞と共に、一瞬にしてアキオの表情を間抜けなものに変えてしまう。


「……なまえ」

「……へ?」

「あの、だから、その……あなたの名前」

「僕の名前が、どうかしましたか?」

「……教えて」


 なんてこった! ある意味死刑宣告よりキツい!

 愕然とうなだれるアキオ。何の言葉も出てこない。

 みつこはそんなアキオを恥ずかしそうにうつむき加減で見つめている。恋人の名前を忘れてしまったことに、一応恥じらいを感じているらしい。


 と、ここでアキオははっとする。


 恥じらい。

 そうだ。今誰がどう見たって、みつこはアキオの前で恥ずかしそうに体を縮めている。心なしか、頬も赤く染まっているように見える。

 だとしたら。そうか。ようやくこの子は、自分のことを恋人として見てくれるようになったんだ。

 バンザイ! バンザイ! 半田アキオ、バンザイ! バンザイ!


「半田アキオ」


 希望の光を取り戻したアキオは、みつこの目を真っすぐ見つめて自分の名を告げる。すでにアキオの頭の中に先ほどの不安など微塵も残ってはいなかった。


「あ、アキオ」


 胸のもやもやを取り払われて気持ちが晴れたのか、みつこはぱっと表情を明るくしてアキオに微笑んだ。

 笑顔を向けられたアキオはたちまち顔を紅潮させる。


「アキオくん。これ。お母さんから」


 まだみつこの微笑みの残像から意識を取り戻せていなかったアキオは、みつこが二つ折りにされた若草色の便箋を差し出していることに少し遅れて気がついた。


「じゃあ私、もう行くね。バイバイ」


 初めて彼女と二言以上続けて話した。それに、名前も呼んでもらえた。

 若草色の便箋を握り締め、去っていくみつこに手を振りながら、アキオは心の中で感動の涙を流した。


 ――それにしても彼女、一体どこへ行くのだろう。


 考えても絶対にわからないであろう疑問を思い浮かべながら、アキオはみつこから渡された若草色の便箋を見つめる。

 確か、みつこは母からだと言っていた。

 みつこの母親が一体自分に何の用だと思い便箋を開くと、中には整った綺麗な字でこう書かれていた。


 『はじめまして。みつこの母です。先日、みつこからあなたのことを聞いて、是非会ってみたいと思いました。都合が良い日で構わないので、一度夕食を食べにいらっしゃって下さい。お待ちしています』。


 そう。みつことアキオが交際を始めて、誰よりも喜んだのは、みつこでもアキオでもなく、みつこの母だった。


 きっかけは何気ない家族会話だったが、母はみつこから恋人がいることを聞くと、「本当か! 本当か! 本当だろうな!」とみつこの肩をガッチリ掴んで何回も揺さぶった。これにはみつこも久しく母に恐怖した。また、恋人とは何なのかわかっているのかとも、母は何度もみつこに問いただした。

 最終的に母はみつこに「みつこ、恋人になってしまったらもう結婚するしかないんだよ。そうしないと捕まるよ。法律で決められてるんだ」とまで言い放った。


 結婚、という言葉を聞いた途端みつこはたちまち顔を赤らめた。さすがにそれくらい知っていた。アキオに対する恥じらいの原因はこれだった。


 みつこの父はそんな二人を怪訝そうに見ているだけだった。果たしてこんな娘と付き合う男のことを将来息子と呼べるだろうか、という不安が父の頭には浮かんでいた。

 弟はとくに反応しなかった。最悪もう一人姉と同じような人間が増えたとしても、自分には全く関係のないことだとすでに心に決めていた。


 送られた手紙を、アキオは穴があくほどの目つきで何度も読み返す。

 今までほとんど顔を合わせることもなかった恋人が急にしおらしい態度をとるようになり、さらに恋人の家族から夕食に招待されてしまった。これは一体どういう風の吹き回しか。これからこの地球で何が起ころうとしているのか。アキオはこの時人生の不可解さを身をもって体験したのだった。


 そして一週間後、アキオはみつこの家を訪れる。


 小さい頃、よくあの屋根に登ったの。今もたまに登るんだけど、楽しいよ。

 へえ。じゃあ今度僕も金魚を育ててみようかな。

 そうだね。おいしく育つといいね。


 緊張で会話すらままならない状態に陥ったアキオは、ガチガチの体を引きずってみつこの家の敷居を跨いだ。


 敷居。そう。みつこの家にはなかなか大きな門が構えられていた。門から玄関まで十メートルほど距離がある。刈り揃えられた芝生の海を渡って、アキオは玄関の前で深呼吸を繰り返す。


「ただいまー。おかーさん。ほら、あれ連れてきたよー」


 カラカラと鳴る横開きの扉を開いて帰宅を告げるみつこの横で、恋人に「あれ」呼ばわりされたアキオはショックを隠せない。


 まさか自分以外全員敵だということはないだろうか。そんな不安が一瞬頭を過ぎるが、いや、食事に招いてくれたお母様は少なくとも敵ではないだろう、とアキオはなんとか持ち直す。


 みつこの呼びかけに、はいはいーと家の奥から返事が聞こえ、ほどなくしてトントンという足音が近づいてくる。


 いよいよだ。アキオは背筋を張った。


「いらっしゃいバンダイ君。よく来てくれたわね」


 そう言って微笑むみつこの母は、その時確実にアキオの心をへし折ったのだった。


 バンダイじゃありません! 半田です! 半田!


 と訂正することができたならどれだけいいだろうか。しかしこの時アキオが最も優先してしなければいけないことは、みつこの母親へ向けて気のいい挨拶をすることだった。


 ツルツルに磨かれた長い廊下を渡って、アキオは居間に通された。みつこの母曰わく、夕食の準備までにはもう少し時間がかかるので、バンダイはここでトミカででも遊んでな!(しばし待て)ということらしい。


 部屋の中央には長いこたつのような背の低いテーブルが置かれていて、それと正面から向かい合うように巨大な薄型テレビがある。


 部屋でアキオがたった一人にされてうろうろ落ち着かないでいると、母と一緒にどこかへ姿を消していたみつこが白い湯気の立つ湯のみを一つお盆に載せてやってきた。一瞬アキオと目が合ったが、みつこは恥ずかしそうにすぐに目を反らしてしまう。


 運んで来たお盆と一緒にテーブルにつくと、みつこは静かに湯のみを啜った。

 いまいち状況が理解出来ないアキオも、ひとまず落ち着こうとみつこの向かいに腰を下ろす。


「こら! あんたやっぱりそれ自分で飲んでるじゃないの!」


 急に襖を開けて入ってきた母に驚いてみつこは口に含んでいたお茶を吹き出した。あらかた予想できていたアキオは間一髪でそれを避ける。


「ごめんね。私がバンダイ君のお茶持ってきたから。それからこれ、よかったら食べてね」


 はいレゴブロック。と言わんばかりにみつこの母はアキオの前に羊羹を差し出した。


 ありがとうございます。と頭を下げるアキオにみつこの母はもっとくつろいでていいわよと微笑んで部屋を後にした。




 ――さて、そろそろ長いので少々割愛させて頂くが、結果的にこの後、アキオはみつこの父、そして弟と対面することになる。


 なぜそんな重要な場面を割愛してしまうのかと説明を求められれば、答えは至極簡潔なものになる。


 だってつまんないんだもの。


 当然アキオはこの後もガチガチに緊張していたし、みつこは異常で平常運行だったし、みつこの母はアキオが来た喜びをバンダイ君は~バンダイ君は~と次々にアキオの心を傷つけながら振りまき続けていたし、みつこの弟は食事中ずっと心を閉ざしたままだった。

 アキオと会っていくつか質疑応答を繰り返した後に、ほっと胸をなで下ろしていたみつこの父はその後機嫌良く酒を飲んで酔っていた……と言う。


 そうなのだ。


 この話は私の両親とその他親戚から聞き集めたものだ。私の母三千年ミチトシみつこはこの話の九年後に私を出産する。父はもちろん半田アキオだ。


 アキオはこの夕食会以降(みつこの母に何か言われたらしいが)猛勉強して地元の国立大に進学する。


 みつこはアキオと交際する内に、この後少し頭がまともに傾いたと言われているが、それは今の当人を見る限りではあまりに信憑性に欠けてしまう。


 さて、そう。肝心な話は現在のことなのだ。

 わざわざ何十年も前のことを長々と記したのは、私の母が比較的かなりまともではないということと、その血を授かった私たち姉弟も少し異常だということに納得してもらう必要があったからで、母の血を引いているということが、私たち姉弟の生活を少しだけ現実離れさせていることを知ってほしかったからだ。


 みつことアキオが出会って八年、結婚して二年目の年に私の姉ヤヨイは生まれた。さらに翌年に次女として私が生まれ、またさらに翌年弟のヨウイチが生まれることになる。

 まだいろいろな意味で衰えないが、母は今年で三十三歳になった。


 話を本題に移そう。

 みつこのアキオに対する態度がある日を境に急激に変化したように、私たちの人生に降りかかるあれやこれなんていうものは同じように突然やって来る。

 そう、例えば、元を辿れば誰に責任を押し付けたらいいのかもわからない経済的不幸。すなわち、我が家の大黒柱、アキオの失業である。詳しく言えばアキオが勤めていた会社自体が倒産してなくなってしまったのだが、結果として私たち一家は生活費の源泉を埋め立てられてしまったことに変わりはない。

 父が新しい職場を探している現在は母もパートとして働きに出て生活費を稼いでいる。母の職場は大変なことになっているらしいが、母はまだなんとかパートを首にならずに済んでいるようだ。しかし、私はなぜ母が未だにそこで働き続けていられるのか本当に不思議でならない。


 多少話がずれたが、まあそういうわけで、今は父も母も家に帰ってくるのが遅い。母はなぜかパートが終わる時間よりもかなり遅れて帰ってくるので、家で待つ私たち姉弟は毎晩お腹を空かせていた。


 そして、その空腹は私たち姉弟を非現実世界に連れ込むきっかけとなった。

 空腹は力なり。母の血は偉大である。


 このことは私たち姉弟だけの秘密になっている。たとえ話をしたって、きっと誰も信じてはくれないとだろうと思うからだ。それに、私たちが自分に納得させているのだって、この体を流れる母の血によるところが大きいのだ。幼い頃に母が行っていた数々の異常行動が、私たちの今の状態に繋がっているとしか説明できない。


 とにかく、見てもらえばわかってくれる筈だ。


 私は、この最高に楽しい暇つぶしを与えてくれた母と、母に一目惚れをして貴重な青春の全てを捧げ、結婚までしてくれた父にとても感謝している。

 ありがとう。お父さん。そしてお母さん。



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