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すみれの瞳の姫君  作者: 小夜
第三章
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出会い … 4


 深夜、偽者の司祭は、アストゥール卿の希望で枕元へ祈祷をささげる神学生を残していくと言い置いて、侯爵邸を後にした。


 そして三日後、死の床の証明だと思われていたアストゥール卿の高熱が引いた。いつも枕元に祈祷書を開いて座っていた神学生が、ひそかに薬を与え続けていたとは知らない街の医師は、アストゥール卿が信心深い方だから奇跡が起きたのでしょうと言った。






     **     **     **






 その日の夜ふけである。


 ランプの油が心許なくなったので、お勝手に伝えようとしてアストゥールの部屋から出てきたローレリアンは、屋敷の小さな中庭に立っているモナに気がついた。


 中庭に植えられたマイカの木の枝には、三日の間に満開になった白い花がゆれている。あたりにはちらちらと、花びらも舞っていた。


 その下で、夏の部屋着だろう白い布を細い紐で何箇所かしばっただけの、素朴な衣裳をまとったモナが、花を見あげている。


「モナさま」


 ローレリアンは、思わず声をかけてしまった。


 花の霊気に、少女が吸い上げられてしまいそうに見えたので。


 やっかいな当番を代わってくれる者が見つけられず、しかたなくでかけていった大神殿で、無数の蝋燭の光の中でうちひしがれていた少女に、思わず声をかけてしまった時のことを思い出す。


 あの時も、なぜか彼女のことは、無視できなかったのだ。


「もうまもなく、日付が替わろうかという時刻ですよ」


 風がそよりと、モナの髪を動かす。


 舞い散る花弁が、量を増す。


「木が騒めく音を聞いていたら、眠れなくなってしまって」


 ふりむいたモナは、じっとローレリアンを見つめた。


 モナが眠れない理由は、うるさい風の音のせいなどではなかった。

 アストゥールの命にかかわる選択を迫られた時、動揺してローレリアンをののしってしまったことが、いつまでも刺のように胸に突き刺さっている。


 アストゥールの病床を訪ねるたびに、ローレリアンに謝ろうと思うのに、彼の顔を見ると何も言えなくなってしまう。彼はアストゥールのそばにいつもいて、血や膿で汚れた布を取り替えたり、排泄の世話までも、黙々とこなしていた。


 丁寧な彼の仕事には、怪我人に対する、いたわりの心がこもっていた。


 そんな人を、一時の感情で、冷たい人だと、なじってしまったなんて。


 ローレリアンは、わびなど言わなくても、モナの気持ちを分かってくれているに違いなかった。


 彼は後悔で言葉が少なくなるモナにむかって、いつも穏やかに笑いかけてくれた。


 そうされると、ますます自分が取るに足らない小娘に思えてきて、モナは何も言えなくなってしまうのだ。


 だからモナは、苦しんでいる。


 今だって沈黙に気まずい思いをしながらも、何を話せばよいのか、よくわからない。


 そんなことを考えながらモナがうなだれていたら、ローレリアンのほうから話しかけてきた。


「明日、わたしは、こちらから失礼しようと思います」


 モナは弾かれたように顔をあげた。


「もう少し、ここにいてもらえませんか」


 前置きもなしに暇乞いをされて、モナの声は震えた。


 ローレリアンは、落ち着いている。


「薬の量や与える時間についてを、アレンにでも教えておけば、あとはもう大丈夫でしょう」


「お願い。せめて、アストゥールの意識がもう少しはっきりして、本人がお礼を言えるようになるまで、ここにいてください。でなければ、わたしは、アストゥールに叱られてしまいます」


 こんな言い方しかできない自分が嫌になる。


 どうしてもっと、素直になれないのだろうかと、モナは唇をかんだ。


 おだやかに、ローレリアンは答えた。


「アストゥールさまを助けたのは、わたしや師匠ではありませんよ。きっとモナさまの想いの重さを、神々がよしとして、受け取ってくださったからでしょう」


「こんな時だけ、聖職者であることを、ふりかざすのですね」


「わたしは、ただの神学生です。もう少しアストゥールさまにお付き合いしたかったけれど、神学校の友人達が、わたしの不在を誤魔化しておいてくれるのも、せいぜい三日が限度でしょう」


 そうなのだ。

 ローレリアンの侯爵邸滞在は、正規の許可を受けたものではない。

 モナには彼を引き止めておくすべなど、なにもなかった。


 悲しい気持ちにとらわれて、モナはつぶやいた。


「わたしは、何もできなかった。ただ、見ていただけで。わたしはヴィダリア侯爵の娘だと周囲の人たちから奉られているけれど、本当は何もできない、ちっぽけな人間だったんだわ」


 書物を読みあさって、剣術や馬術を習って、自分はかなり努力しているなどと思っていたのは、自惚れにすぎなかった。


 本当は、大切な決断ひとつ自力で下すことができない、勇気を持てない弱い人間なのに。


 今、ここで生きていられるのでさえ、騎士達が命懸けで逃がしてくれたからなのに。


「勇気が……欲しいよ……!」


 こみあげてくるものに耐えきれなくなって、嗚咽が漏れた。


 夕闇の中、涙に霞んだ白い花吹雪をあびて、ローレリアンが立っている。


 細くて淡い金色の髪を、花吹雪といっしょに風にゆらして。


 水色の瞳は、いつものようにとても穏やかな色をしているのに、はかなげで、花びらの中に溶けていってしまいそうに見えるのは、なぜ……?


 いなくなってしまう。


 思わずのばした指先が、ローレリアンの手にふれた。


 いつも祈祷書をめくっていた長い指が、モナの指先をにぎった。


 もう一方の指の先が、モナの胸元をかすめていく。


「勇気は、もう、あなたの中に。自分は何かと疑問を持ったときに、はじめて勇気は、人の心の中に宿るのです」


 胸を指し示した指が、そっとモナの指をといて、宙に放った。


「ローレリアン!」


 ふりむいた水色の瞳が笑った。


「また、会えますよね?」


「どうでしょう。きっと、あなたは、わたしを見つけられはしないでしょう。そのほうがよいのですよ」


 謎めいた一言を残して、青年は立ち去った。


 モナはマイカの木の下で泣いた。


 きっとこれから、この花を見たら、心穏やかではいられないだろう。


 涼やかな香りに、むせそうだ。


 初夏の風とともに花開く、マイカの木を愛する人は多い。


 一輪だけをながめると、可憐な花は物寂しい。


 けれど花が咲きそろい、葉陰に大量の泡立つ花をかかえた時、霊力をたたえる樹木は、怪しいまでに美しくなる。


 人それぞれの想いを、木は無言で受け取る。


 白い花はひっそりと、夜風に花びらを落としつづけた。


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