出会い … 3
その日の夕暮時、ヴィダリア侯爵邸に、神学生を供につれた初老の神官が訪れた。
屋敷の警護をするの者たちへは、死にかけている父の忠臣のために祈りをささげてもらいたいと、侯爵令嬢から依頼を受けたと、訪問の理由が告げられる。
カールス伯爵の肝いりで侯爵邸のサロンに部下をひきつれて陣取っていたルマフィール卿は、疑う事なく神官をアストゥールが瀕死の身体を横たえている病床へ案内した。昼間、令嬢の使いが外出したことは、報告を受けていた。それに神官は、令嬢直筆の手紙を持っていたのである。
それでも念のためにと病室まで神官に同行したルマフィール卿は、臭い芝居を見せられるはめになった。
怪我人の枕元に座っていた侯爵令嬢は、大げさに両腕を広げてのたまったのだ。
「ああ、レオニシュ司祭さま。こんな悲しい情況で、再びまみえましょうとは!」
――臭い!
――イモ役者!
モナは、アレンとローレリアンが表情をかくすために同時にうつむいたのを見て、おおいに憤慨した。こんなに一生懸命、女優になりきろうとしているというのに。
幸いなことにルマフィール卿は、この姫君が変り者だという噂を知っていたので、臭い芝居も大して気に留めなかった。
挨拶もそこそこに、部屋の外へ出ていってしまう。長くて退屈なご祈祷につきあうのは嫌だったのだろう。
アレンをドアの外の見張りに立てたあと、訪問者とモナの間では、初対面のあいさつが交わされた。
何しろ、宗教関係者が怪しげな秘術と異端視する方法で、アストゥールに治療を施そうというのだ。モナ自身は捨身でよくても、父侯爵に余波が及んだりしては、いくら命拾いをしてもアストゥールが嘆くだろう。
ローレリアンの師匠は、日焼けした労働者のような雰囲気をもつ初老の男だ。
しゃべり方も単刀直入で、必要な用件だけを飾り気なく話す。
「わたしは本来医者ではなくて、科学者だ。傷を腐らせたり、流行り病を起こしたりする原因は、人の目に見えないくらい小さな生き物の為せる業ではないかという学説を支持して、その対策を研究しているラドモラス学派に所属して……」
ローレリアンは静かにレオニシュのお喋りをさえぎった。
「先生、その件はもう、わたしから、令嬢に説明してありますから」
その説明とは、町医者をしながら収入のすべてを研究に注ぎ込んでいる、優秀だが偏屈な人物だというものであったが。
事前に情報を提供しておかなければ、胡麻塩頭の髪を逆立てて目を血走らせたこの男を、医者だとは信じてもらえないだろう。
「要するに、わしが使うのは、怪しげな魔術のたぐいではないと説明しとるんじゃないか!」
レオニシュ医師は、不肖の弟子をにらんだ。
ローレリアンは涼しげな微笑だけで、師匠の怒りを受け流してしまう。
学者らしい物の考え方をするレオニシュ医師は、言動にあまり裏表がない――。というよりは、表だけの本音で、すっきりと生きている人だ。
それを、年若いこの青年は見抜いている。
時々こいつは、本当に食えないやつなのだと、レオニシュ医師は思っていた。
神殿で神官たちに取り囲まれて大切に育てられたエリート神学生のくせに、心の中には神様と科学を上手に住み分けさせている、不思議な奴なのだ。普通、幼い頃から神がかった環境で育てば、融通の利かない人間に育ちそうなものなのに。
やれやれと、ため息をつきながら、レオニシュ医師は話をつづけた。
「わたしは科学者だから、分かっていることはすべて説明する。
この薬は動物の実験では、化膿した傷に絶大な効果がある。
だが、正直に言おう。人に使うと、どう見ても薬のせいで死んだとしか思えない症状を引き起こして、死に至ることがたまにある。
だから、この薬は、放っておいたら死んでしまう患者にしか使わないことにしているのだ。薬はおそらく病の素もたたくが、人の命にも害をなすのだろう。
薬とはな、毒でもあるのだ。よりよい使い方を学びたいから、薬を投与できそうな患者がいると聞けば、わたしはどこにでも出向くというわけだ。
いわば、これは科学の実験だ。
だから薬を使うかどうかの判断は、本人か、身内の人間に決めてもらうことに……」
「待って!」
モナが後ずさった気配で、ランプの炎がゆらいだ。狭い病室の中の、影も一緒にゆらぐ。
レオニシュ医師もローレリアンも、じっとモナを見ている。
重大な決断を下すように求められているのは、間違いなくモナだった。
「そんな……、そんなこと、わたしには決められないわ」
モナにはローレリアンの整った顔が、揺らぐ光に照らされて、白い仮面のように見えた。
その冷静さに腹が立つ。
「ローレリアン、あなた、親切な人だと思ってたのに。本当は薬を試せる人間を探していただけなのね!」
「わたしは、必ず助かるという約束は出来ないと、最初に申し上げましたよ」
「だからって、こんな……。薬をあげたせいで死期が早まるかもしれないなんて薬を……、毒になるかもしれない薬を……。わたしには、決められない!」
この美しい人は神々の使いなのか、魔術師の弟子にすぎないのか。
見定めようとして懸命に見つめても、ローレリアンの整った顔は崩れなかった。
駄目だ……!
今はローレリアンのことではなく、もっと大切なことを考えなければ。
「薬が毒になる可能性は、どのくらいなの」
しぼりだした声が自分のものとは、とても思えない。
楽しみにしていた遊学生活の始まりが、供についてきてくれた親しい者をほとんど失うという血塗れのものになってしまって、自分はきっと、おかしくなってしまったのだ。こんなに冷静に、人が死ぬ確率をたずねたりして。
自称科学者の医師は、低く唸った。
「わからん」
「そんな、いい加減な!」
「誰にでも安全に使えなければ、この薬は、ただの毒だ! 何が薬を毒にするのかが分かっていない以上、誰にだって生き延びる確率は分からないとしか答えられん!」
モナはレオニシュ医師の胸ぐらにつかみかかった。
「お願い! 気休めでもいいから、きっと助かると言って!」
涙が吹き出した。
一言で、いいのだ。
決断を下したのは、わたしだけではないという、背中を後押しした人もいるのだという、言い訳が欲しい。
あなたも、わたしと一緒に考えてくれたのだと、そう言って。
ゆすっても、懇願しても、科学者の口は厳しく引き結ばれたまま動かなかった。
保身のためではない。
命にかかわる決断を下せるのは、本人か本人に近しい者だけだという、信念をもっているからだ。
「静かに……!」
ふいにローレリアンが、アストゥールの病床へ歩み寄った。
怪我人への刺激を避けるようにと、医師が細く絞っていった薄暗い明かりのもとに、身を屈める。
白い布の陰から、アストゥールの苦しげな息が、途切れがちな言葉を紡いだ。
「賭け……で、よい。くすり……を、……わ…たし……に」
熱に浮かされて朦朧としたアストゥールの意識の中には、モナの泣いている声だけが聞こえていた。
守ると約束した小さな娘を泣かせているのは、わたしか……?
まっておられよ、姫さま。
今、アストゥールめが、参りますゆえ。