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すみれの瞳の姫君  作者: 小夜
第三章
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出会い … 1


「幸い内臓にいたる傷はありませんので、ご本人の体力が大量の失血と体中に負った傷の負担に耐えられれば、あるいは……」


 医者がアストゥールに立てた見通しは、二重三重の関門を運良くくぐり抜けられれば命は助かるかもしれないという、きわめて消極的なものだった。


 季節は夏である。


 目は頭蓋に通じているので、この傷が腐りはじめたらもう望みはないと告げようとした医者は、モナの泣き腫らした顔を見て、それ以上何も言えなくなってしまった。


 その場にいたたまれなくなって、モナがアストゥールの病室から出ていくと、そこは小さな中庭を巡る回廊だった。


 城塞都市の城壁の中では、土地は大変貴重なものである。こんな小さな中庭でも、建物の中に明かり取りの空間を確保できるのは、やはり侯爵家が大変な資産家であることを象徴している。


 中庭の中央には、マイカの木があった。

 夜明けの靄が晴れたすがすがしい空気の中に、咲初めの花を湛えて、木は静かに立っている。花の盛りは、とうに過ぎたと思っていたのに。


 モナはつぶやいた。


「王都から十二日も旅してきたのに、花が……」


「花が咲く陽気と一緒に、俺達も旅をしたんですね」


「なに、それ」


 暴漢に襲われてからというもの、ずっとモナの背後につき従っていたアレンは苦笑した。


「モナさま。花は自分が花開くのにふさわしい気候が巡ってきたときに、咲くものなんですよ。この花も、モナさまの母君のお国では一月以上前に咲いたでしょうし、王都より気候が厳しいアミテージでは、二週間ほど開花が遅いんですよ」


 都会暮しの経験しかないモナは、博識だが、時々こういう生活経験に根ざした知識に、ぽっかりと穴が開いている。物知らずと馬鹿にされてもアレンが怒る気にならないのは、そんな姫さまが、何だか気の毒に思えるからなのだ。


 マイカの木ひとつにしても、庭に咲いている木ではなく、アレンの故郷の山に自生している、林全体が真っ白になる光景を一度見せてやりたいと思う。


 モナさまなら、きっと、歓声をあげて喜ぶだろう。


 姫さまには笑っていてほしい。


 いつものように、元気いっぱい。


 こんな潤んだ瞳で、美しい花を見上げたりしないでほしい。


「ごめんね。アストゥールの髭をいただいた時のこと、思い出しちゃった」


 涙がつうと、モナの頬をつたって落ちる。


「ひどいお姫さまだよねえ。お父さまの寵臣の大切な髭を、悪戯でちょん切ったりして。そんなバカ姫のために……、アス……トゥール……」


 白い花の下で大切な人を想って泣きじゃくっているのは、ただの頼りない少女だった。国境守備隊の隊長から部下を奪い取った女性とは、とても同一人物とは思えない弱々しさである。


「モナさま――」


 アレンは唸った。


 このまま姫さまを泣かせておくなんて、俺にはできない!


「泣いてちゃ駄目です!」


「……うん」


「なんでもいいから、できることをしましょう!」


「何を?」


 涙にぬれたすみれ色の瞳に見つめられて、アレンは懊悩した。


 俺に聞かないでくれ。

 自分で言うのも情けないけど、俺は機転が利くほうじゃない。


「そうだっ!」


「?」


「神殿にお参りにいきましょう!」


 神様に病治癒の祈願をしてどうにかなるなら、世界中から死ぬ人がいなくなって大変なことになる、などと、普段は不届きなことを考えているアレンである。


 だが、この際、神にもすがりたい。


 そう思う人の気持ちが、やっと解った。


 姫さまが笑ってくれて、尊敬するアストゥール卿の命が助かるのならば、百回だって、二百回だって、神殿通いをするのにと。







     **   **   **






 モナの命を狙っている者がいるということで、ヴィダリア侯爵家の別邸は殺気立っていた。王都からモナに同行してきた騎士がほぼ全員死亡してしまったため、アミテージの領主であるカールス伯爵が、あわてて護衛を送り込んできていたのである。


 モナが襲われたのは、アミテージからわずか馬車で五分の一日の距離の街道上である。おまけにその時、伯爵が国王陛下からお預かりしている国境守備隊は、当番の者を交えて酒を飲んでいたのだ。監督不行き届きも甚だしい。


 もし、その件をネタにして、中央政界の有力者であるヴィダリア侯爵から難癖でも付けられたらと思うと、カールス伯爵は穏やかではいられないのだ。


 しかし、外部からの侵入に神経を尖らせているときに、内部から抜け出るのが意外に簡単だったりするのは世の常だ。特に、内部に手引きをする者があれば、なおのこと。


 だから、いままさに屋敷から出ていこうとするアレンに投げかけられた質問には、どことなく間延びしたような雰囲気があった。


「お前は姫君のおつきだろうが? 小間使いの外出の御供までするのか?」


「俺も不本意なんですが。なにしろ姫さまは、あれから、すっかりおびえてしまわれて。女ひとりで屋敷の外には出すなと、おおせなんです」


「大変だな」


 勝手口のそばに椅子を置いて部下とカードをしていた下級将校は、出入りする者をチェックしている石板に、『外出、小間使い一人、小者一人』と書いた。


 せめて『見習い騎士』と書いてほしかったアレンは、顔をしかめた。


 しかし、今は将校に文句を言って、よけいな印象を与えたりするわけにはいかないので、ぐっと我慢する。


 連れの少女の手をひいて、アレンは勝手口から外に出た。


 外の道を一区画分歩き、角を曲がったところで、小間使いの少女は顔や首筋を陽射しから守る夏用外套のフードを肩の後ろへと跳ね上げた。


「ちょっとぉ、いったい誰が、おびえてるんですって?!」


 声を抑えろと、アレンは連れをにらむ。


「ウソも方便っていうでしょ! 俺は、あの将校がモナ様の武勇伝について思い出すんじゃないかって、勝手口にいるあいだじゅう、ずっと冷や冷やしどおしでしたよ!」


 モナは、つんとそびやかした鼻で少年をあざ笑った。


「ふふん、だ。国境守備隊の中じゃ、わたしは『すみれ色の瞳の美少女』って事になっているらしいじゃないの。へっちゃらよ」


 言い方が鼻持ちならない。


 いつも身分をわきまえるようにと自分に言い聞かせているはずのアレンも、むっとして口を尖らせる。


「そうとでも言いふらさなきゃ、思わず姫様の命令をきいちまった自分達が、恥ずかしくなるんじゃないですかね? なにしろ実物が、こんなんじゃね」


 急にモナが立ち止まったので、アレンは見事に彼女の後頭部に鼻頭をぶつけた。


 怒ったモナが振り返り、アレンをにらむ。


「どうせわたしは、やせっぽちでソバカスだらけの、くせっ毛の、跳ねっ返り娘よ! おまえ、もういいからお帰り!」


 アレンは、ますますムッとして、言い返した。


「帰りはどうなさるおつもりですか」


「正面から堂々と帰るわよ!」


「そりゃあ、どうもありがとうございます。姫様にそんなことをされたら、俺が叱られる程度じゃ済まないってこと、微塵も考えてはくださらないんですね。めちゃくちゃ嬉しくって、涙が出ますよ!」


 うっと、モナが言葉に詰まる。


 だが、しょせんアレンも騎士見習いの、そのまた見習いの、十五才の少年である。姫様がひるんだくらいでは、自分の口から勢いよく飛び出していく辛辣な言葉を、止めることはできなかった。


「どうして俺が、モナさまについてきたと思ってるいらっしゃるんです? 俺だってね、仮にも縁あってヴィダリア侯爵家にお仕えすることになった武人のはしくれです。アストゥールさまのように、いざとなったら命に代えても、モナさまをお守りする覚悟なんですよ!  上に立つ人達は、もう少し俺達の覚悟を分かってくれてるもんだと思っていた俺は、とんでもない呑気者だったってわけですね!」


 モナは外套のすそをひるがえし、足早に人混みの中へと入っていった。斜め後ろからうかがうだけでも、噛みしめた唇が震えている様子がよく見えた。


 言いすぎたかと後悔しながら、アレンはモナの後を追った。


 なんだか口の中が、苦くなったような気がする。


 主人の令嬢に意見するなど、十年、いや、二十年は早かったかもしれない。あれほど立場の違いを自覚しろと、アストゥール卿から注意を受けていたのに。


 思わず、ぼやきが出る。


 モナさまは気さくな方で、俺の田舎の幼なじみ達と、たいして違わないように見えるから……。


 二人で黙々と歩いていったら、市庁舎の前の広場に出た。


 広場には市が立っていた。

 そのせいで、急に先の見通しが利かなくなってしまう。

 広場に集まった行商人たちはみな、思い思いの形の天幕を張っていたから。


 ふいにモナが立ち止まった。


「アレン」


「はい」


「神殿は、どっち?」


「聞いてきます!」


 あわててすぐそばの露天商を捕まえて、神殿の位置をたずねた。


「市庁舎の南側だそうです」


「そう」


 方向に見当をつけて、再び歩きだす。


 モナはアレンが屋敷の物干し場から調達してきた使用人のスカートを、うっとおしげに何度もさばき直している。彼女は滑りの悪い木綿など着なれていないし、スカートの下に剣をかくし持っているから、よけいに歩きにくいのだ。


 まとわりつく裾を苛立たしげに蹴りながら、ふくれぎみの唇が、ぼそりと言う。


「悪かったわよ」


 市場の喧騒のせいで、アレンには、その詫びの言葉が空耳に思えた。


 きょとんと目を丸くする少年の耳に、軽い舌打ちの音が飛び込んでくる。


「わたしが悪かったって、言ってるの! こういう世間知らずなところが少しは治るかと思って、喜んでアミテージへ来たのに、こんなことになっちゃって、少し、いらついていたから」


 きつい色の瞳が、市場の通路の先をにらんでいる。


「言い訳だわね」


 モナの眉が泣きそうによって、口元に力が入る。必死に、涙をこらえている様子だ。


 また姫様を泣かせてしまったかと、アレンは情けない気分になった。


 しかし、それは、ほんのしばらくのことだった。


 モナのきつい表情がほぐれ、瞳が見開かれる。


 あたりを所狭しと埋めつくしていた露天商の天幕が、途切れたのだ。


 驚きに輝く顔が、立ちふさがった建物の頂上を見極めようと、どんどん上へもたげられていく。


 アレンの目も、あとを追う。


 立ち止まった二人の前には、アミテージの中心にある大神殿の壮麗な伽藍が、そびえ立っていたのである。


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