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すみれの瞳の姫君  作者: 小夜
第九章
36/40

旅の仲間 … 5


 けっきょくローレリアンは、山の神殿に着いたその日から、三日のあいだ寝込むはめになった。熱はそれほど高くなかったのだが、19年分の母性を発揮したがった彼の母親が、寝床から出してくれなかったのである。


 ローレリアンが寝込んでいるあいだ、母は粗末な山の神殿のかまどから、毎回、これでもかというくらいの御馳走を作り出してくれた。


 秋は、辺鄙な地にある神殿にも、神々の恵みをもたらしていたのだ。


 スグリのジャムをのせた甘いケーキ。

 川魚と香草のパイ。

 赤カブと山鳥のシチュー。

 キノコと玉ねぎが入ったオムレツ。

 栗の甘露煮や、焼きリンゴ。

 生姜の風味がきいた、暖かい飲み物。


 ベッドに運ばれてくる、それらの御馳走を堪能たんのうしながら、ローレリアンは母にたずねた。


「わたしは大叔父殿から、母上は正真正銘の深窓の姫君だったと、うかがっているのですが」


 いつもそばにすわって、ローレリアンが食べるのを嬉しそうに見守っている母親は笑って答えた。


「ここへ来た当初は、それこそ何もできませんでしたよ。

 でも、ここで暮らすためには覚えなければならないことが、いっぱいありました。

 わたくしは、いつか必ず、またあなたに会いたいと願っていたのですもの。

 そのためにだけ、一生懸命、がんばりましたのよ」


「わたしも、いつか必ず、母上にお目にかかりたいと思っていました」


 そのような話をはじめると、おたがいのあいだに、わだかまりは何もないのだと確信できた。


 母の心づくしである手料理からは、息子への愛情しか感じられなかったし、それをおいしそうに食べる息子は、態度で感謝を伝えているようなものだ。母と息子はつねに幸せな気分で、笑いあって話を終えるのだった。


 しかし、母が息子に旅の真の目的をたずねようとしなかったのは、息子が疲れた体を癒しているあいだだけだった。


 山の神殿に着いて四日目の朝、病の床払いをすませて身なりを整え、神殿の日課である朝の祈りへ参加しようと祈りの間に姿を現したローレリアンを見て、エレーナ姫は息子がここへあらわれた理由を初めてたずねる決心をした。


 黒い法衣で身なりを整え、さえざえとした輝きを宿した力強い瞳をとりもどしたエレーナ姫の息子は、だれでも虜になってしまいそうなほどの魅力にあふれた、立派な青年だったのである。






     **   **   **






 山の神殿の簡素な祈りの間には、神殿に住む人と、ローレリアンの旅の仲間が集まっていた。


 石壁をくりぬいた小さな窓からは、まぶしい朝日が差し込んでいる。


 すでに香炉には香が焚かれており、あたりには甘いにおいが漂っていた。


 神殿の住人は、ほとんど目が見えない高齢のグルニエル神官長と、エレーナ姫と、下働きの夫婦の4人だけだった。


 下働きの夫婦は長年神殿で働いている人間なので、ローレリアンの法衣についている略章を見て、すぐに彼がこの神殿の神官長であるグルニエルより高位の神官であることに気がついた。ローレリアンが入り口から入ってくるなり、すわっていた椅子から立ちあがって、敬意を示そうとする。


 アストゥールとアレンも、それにならった。


 母のエレーナ姫までも。


 それにラッティは、すでに客分の神官が訪問先の神殿ですわる場所と定められているところで、ローレリアンを待ち構えている。


 彼はお祈りが終わるまで、いつでもお仕えする神官様からの御用を承れるように、そばで控えているのだ。高位の神官に仕えるお小姓がやるべきことを、ラッティはすでに、すっかり飲み込んでしまっていた。


 ローレリアンは、ため息を押し殺した。


 この神殿で、いま一番偉いのはローレリアンということになるのだから、彼らの反応は正しいのだ。


 ただ、眼が見えないグルニエルだけは、教えてもらわなければローレリアンの神官位を知るすべがない。説教者の席に置いた椅子にどっかりとすわったまま、白い髭におおわれた口で、のんびりと言う。


「リアン殿。お体のほうは、もうよろしいのか?」


「はい、おかげさまで。くるなり、ご迷惑をおかけいたしました。グルニエル神官長」


「それはよかった。

 して、うちのものは、きちんとお客様のお世話をしておりますか」


「はい、十分に。

 わたしの母が、グルニエル神官長にお仕えするようになったのも、なにかの御縁なのでしょう。

 それに、わたしはこちらの様子をうかがってくるようにと、上から命じられただけなのです。

 神殿の建物や備品は丁寧に手入れされておりますし、まだまだグルニエル神官長もご壮健であられるとわかりましたので。そのように報告書をあげておこうと思っております」


 下働きの夫婦が、ほっと、息を吐く。


 神官長も笑った。


「それはよかった。

 ところで、お体のほうは、もうよろしいのかな?」


 神官長は確かに、村の人々が心配するような、高齢者にありがちな言動をする人だった。同じ話を何度もくりかえし、しかも自分では、その失敗に気づいていない。難しい話は、内容を覚えていられない様子だ。


 ただ、朝課の祈りは、たいそう立派なものだった。


 若いころから培われた経験は、おとろえないということだろうか。山の神への感謝を織り交ぜた美しい聖句の朗詠に、ローレリアンは心から感動して唱和した。


 この辺鄙へんぴな山の神殿で、ふたりの神官の詠唱の掛け合いで朝課が進むのは10年ぶりだった。


 堂々たる老人の声と澄み渡る若者の声が、からんで響く様は、じつに美しかった。


 神官長とともに静かにゆっくりと年を取ってきた下働きの夫婦などは、感激のあまり、涙を流していたくらいである。






     **   **   ***






 朝の祈りのあとで簡単な朝食を終えると、ローレリアンは数日ぶりに外の空気を吸おうと思い、神殿の庭へ出ていった。


 神殿の庭は、庭とは名ばかりで、ほとんどが自家製の野菜を賄う畑と、ヤギや鶏の放牧場になっている。


 しかし、山の空気は清浄だ。


 街の空気のようによどんではいないし、石炭を燃やした時に出る煙にまじる独特の刺激臭もない。


 胸いっぱいに、そのすがすがしい空気を吸い込んで、ふと上を見たら、アレンが家畜小屋の屋根にのぼっていた。


 ほどなく、槌音つちおとが聞こえてくる。


 きっと、身の軽い若者は、屋根の修理を頼まれたのだろう。彼は田舎豪族の三男坊だから、この手の仕事は慣れたものなのだ。


 しばらく感心してアレンの仕事をながめていたら、家の中からエレーナ姫がでてきた。


 彼女はまっすぐに、ローレリアンのもとへやって来た。


「アレンさんって、器用な人ね。

 あなたが寝込んでいるあいだにも、いろいろなものを直してもらいましたよ。

 獣除けの柵とか、井戸の滑車とか」


 ローレリアンは笑ってしまう。


「彼の本業は、見習い騎士なんですがね。けっこうな剣の使い手ですよ」


「アストゥールさまの見習いだそうね」


「はい」


「ねえ、ローレリアン。

 あなた、護衛を二人もつれて、ここへ何をしにいらしたの」


 とっさに母の顔が見られなくて、ローレリアンは表情を硬くした。


 けれど、次の瞬間には、優しげな笑みを浮かべて返事をする。


「大叔父殿が、わたしに神官としての任地をご用意下さったので。

 任された以上は、精一杯、務めさせていただこうと思っております。

 そうなると、そうそう任地から離れることもできなくなります。

 ですから、任地へおもむく前に、母上にお会いしたかったのです。

 旅をすると申し上げましたら、大叔父殿が心配して、護衛をつけてくれました。

 いまさら、わたしの正体など、気にする者もいないと思うのですがね」


「そう。叔父さまは、約束を果たしてくださっているのね」


「アランナさまが、よくエレーナと約束をしたからと、おっしゃられていましたよ」


「アランナは、お元気?」


「はい。あの方の香水の趣味にだけは、辟易へきえきとしておりますがね。目の前で扇を広げられますと、息を止めたくなります」


「あらあら、こまったものね。あの従姉は、昔から綺麗なものや、可愛いものが大好きだったのよ」


 ひとしきりパヌラ公爵家の話題で笑いあったあと、エレーナ姫は日課の仕事をしにもどっていった。


 ローレリアンは、苦い思いを噛みしめながら足元を見つめた。


 母に嘘をついてしまった。


 ディセット伯爵夫人アランナとは、不仲もいいところだというのに。なにしろローレリアンは、怒りのあまり、彼女を殺しかけたことがあるのだから。


 頭の上の槌音は、いつのまにか消えていた。


 ローレリアンのそばに、どさりと人が下りてくる。家畜小屋の屋根から飛び降りたアレンだった。


「おまえって、パヌラ公爵家の血縁だったのか。ローザニア王国五公家の跡取り候補。そりゃあ、相続争いも熾烈になるだろうなあ……。

 モナさまが襲われた理由も、やっとわかった。ライバルに有力な家から、嫁取りなんかさせるもんかってところ?」


「立ち聞きは、品がないですよ」


「勝手に聞こえてきたんだよ! 俺は屋根を直してただけだ。

 なあ、どうしてお袋さんに、嘘をつくんだ?

 相続争いに巻き込まれるかもしれないから、気をつけてくれって、言いにきたんじゃないのか?」


 ローレリアンは、両手を広げてあたりをさし示した。


「ここの暮らしの、どこに危険があるというのです?

 母は、ここにとどまる限り、安全ですよ。

 余計なことは、知らせなくてもいいでしょう?

 心配をかけたくないと思う程度には、わたしにも母に対する愛情が、あったということです」


 アレンは、あきれた様子だった。


「ほんと、損な性分だよな、おまえって。なにもかも、ひとりで背負いこんでさ」


「余計なお世話です。

 アストゥール殿に、明日の朝には出発するからと、伝えてください」


「へいへい、うけたまわりました」


 アレンはとっくに、ローレリアンへ背中をむけていた。


 ひらひらと手だけが、返事とともに振られる。


 その態度に腹を立て、ローレリアンはアレンとは反対の方向へ歩きだした。


 歩きながら、ふつふつとわく、怒りを胸に刻む。




 あの、能天気め!

 何も知らないくせに、わかったような口をきく!

 か弱い女性を守りたいと思うことの、何が悪いのだ!


 わたしが選んだ道は、波乱に満ちた危険な道だ。

 愛する女性に、その危険な道を共に歩いてほしいと、言える男がどこにいる!


 母はこの神殿で、幸せに暮らしている。

 俗世から離れて自然の懐に抱かれ、醜い感情にとらわれることもなく、おだやかに。


 そして、あの人も……!


 なんだろう、この感覚は。

 まるで胸の中に、ぽっかりと空いた、空洞があるようだ。


 その空洞にのみこまれてしまいそうで、恐ろしくて、あの人の名は呼べない。


 すみれ色の瞳を持つ、優しい少女。

 だれよりも美しい、大切な人。




 やみくもに歩いたから、塀につきあたった。


 古くて苔むした石積みの塀には、あちこちに雑草がついていた。


 その中に、一輪の花があった。


 紫の花。


 高山の岩場に咲く、岩すみれだ。

 草原に咲く匂いすみれと同属だが、高山の岩場に咲くこの花は、山の短い夏に咲く。


 秋になった山の神殿の石塀にはりついたこの花は、今年最後の岩すみれの花かもしれない。

 ちょっとした力がくわわれば、あっけなく折れてしまいそうなほど細い茎の先に、可憐な花がゆれている。




 すみれは、どんな荒地にでも根付いて咲く強い花だ。

 まさに、きみにふさわしい。




「モナ……!」


 こらえきれずに名を呼んだら、身を切り裂かれるような痛みに襲われた。


 震える体を、石塀にもたれさせる。


 泣くのはこれで、最後にしよう。


 いつもそう思うのに、我慢できない自分が情けない。


 でも、今度こそ、これが最後だ。


 王都にもどれば、戦いの日々がはじまる。


 涙を流すようなひまは、まったく、なくなるにちがいないのだから。



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