アミテージへの旅 … 1
ローザニア王国は大陸のほぼ中央に位置し、西は洋々たる内海に、東は広漠たる砂漠地帯に、北は峻険な山脈に囲まれている。南は三つの小国との国境だ。これらの小国が間に挟まれているおかげで、ローザニアは南の大国オランタルと、微妙な力関係の均衡を保っている。
砂漠の彼方には、文明の発祥そのものが異なる東方の国々がある。東、南からの文化、そして内海を船で渡ってくる西の文化が交流する地理的環境と、内海へ流れ込む複数の大河によって形造られた肥沃な平野のおかげで、この地に住む人々は遥かな昔から豊かにくらしてきた。
アミテージは砂漠地帯の手前に広がる草原の中に、城壁に囲まれてそびえる交易都市だった。その歴史は長く、城壁の一番古い土台の建築記録は、ローザニア王国建国から四百年以上遡ることができるという。
東方の国との間には広大な砂漠が横たわっているのだが、その中にも古くからの交易路が存在する。
その道は砂漠を渡る経路であるから、嵩張るものや変質しやすいものは運べなかった。
ゆえに砂漠のむこうからアミテージにもたらされたのは、東方の優れた技術で作られた宝飾品や、同じ重さの金と取引される香料、そして人の頭脳に収められたまま運ばれてくる知識だった。
それらがアミテージに、富と文化の蓄積をもたらしたのである。
「でなくちゃぁー、なんでこんなど田舎にぃー、大きな町ができるって言うのぉー?」
「なるほどぉー、勉強になりましたぁー」
草原がどこまでも続く丘陵地の街道で、馬の轡を並べたふたりは怒鳴りあっていた。蹄鉄を打った複数の馬の脚がふみならす足音は、かなりうるさいのである。
そのせわしない馬の足音を聞きながら、ひと雨欲しいところだと、モナは天を仰ぎ見た。
しばらく晴天が続いた草原の道は、やたらと埃っぽかった。彼らの後ろでは身分の高い人が旅行に使う四頭立ての馬車が、車輪を軋ませながら走っているのだから、なおさらだ。口の中にまで砂が入ってしまって、喉がいがらっぽくなってきている。
咳払いをしてから視線をおろし、モナはかたわらで馬を駆る少年のほう見た。
少年の瞳は、好奇心で、きらきらと輝いている。
その瞳に見つめられると、なぜか疑問に答えてやりたくなるから不思議だ。
いまも、モナと少年は、なぜ羊飼いと羊しか見かけない草原の中に町があるのかについて話をしていた。
「もう、これくらい、一般教養でしょうに!」
「すみません。田舎の寺子屋では、読み書きと算術くらいしか習わなかったものですから」
アレン少年は恥ずかしそうに頭を掻いた。
ローザニアで一番多く見かける無個性な茶色の頭からは、埃で褐色に変色した汗の筋が、いくつも流れている。騎士見習いのそのまた見習いである少年は、貧乏豪族の三男坊で、洒落た帽子ひとつ持っていないのだ。
モナはあきれつつ、アレンに言う。
「騎士を目指そうというのなら、歴史とか地理も勉強しなくちゃ駄目なんじゃないの? 地図が読めないようじゃ、軍人は務まらないでしょう?」
「はい。だから使い走りの俺も、モナさまの御供に、くわえてもらえたんです。アストゥールさまが、任務のあいまに、学問所へ行けるようにしてくださると」
モナは、しげしげとアレンを見た。
自分と同じ年だというアレンは、まだ顔にも体つきにも、幼さを残している。
見つめられているのに気づいた少年は、満面の笑みで笑い返してくる。
無邪気なものだと思う。任務の意味が、この少年には、本当に解っているのだろうか。騎士の見習いをしながら学問までするのは、体力的にも相当大変だろうに。
馬車の窓の日除けが上がり、中の人の顔がこちらをのぞく。
「モナさま、もうドレスをお召しになってくださいとは申しません。ですが、せめてアミテージの城門をくぐる時くらいは、馬車に乗っていてくださいませんか」
シャフレ夫人は懇願口調だ。
このままでは、ヴィダリア侯爵家の令嬢が男の形をしてアミテージ入りしたという噂が、あっという間に城塞都市の小さな社交界に広まるだろう。恐ろしいことに、ここの社交界は、王都のそれと直結している。なにしろアミテージには、遊学中の貴族階級の子弟が、ごまんといるのだから。
モナは素っ気ない。
「いやよ。太古から続く知の都アミテージの城門をくぐる記念すべき瞬間を、どうして薄暗い馬車の中で迎えなくちゃならないの。わたしは風景だけじゃなくて、空気の匂いまで、ぜーんぶ体験したいんだから!」
手綱を軽く煽り、馬を急かしてやる。
モナの馬は、優美な足取りで、さらに前方へ出た。
アレン少年が慌てて後を追う。
彼は一行の護衛隊長を拝命したアストゥール・ハウエル卿から、つねに姫君の外側を行くようにと命じられていた。
これも立派な任務だ。いざという時には、おまえが盾になれという意味なのだから。
モナがぼやく。
「女なんかつまんない」
「モナさま……」
道中すっかり打ち解けて、「姫さま」と呼ぶなと何度も叱られたアレンは、モナの横顔をうかがった。前方を見つめているすみれ色の瞳は、複雑な色を帯びている。
「お兄さま達は遊学だって、諸国を何年も巡る旅に出してもらえたのよ? 私はアミテージに一年だけ。そもそも、アレン。あなた、この辺境の城塞都市が貴族の子弟の遊学先として一番人気である理由って、わかっている?」
「え? 理由ですか?」
「そう。理由よ」
アレンは思わず辺りを見回した。
昼食の休憩を取った後から、彼らの周辺の風景は、まったく変わっていなかった。
なだらかに続く丘、水場に茂る背の低い灌木、放牧中の羊の群れ。たまに街道ですれ違うのは、みんな農夫か荷馬車だ。
今も遥か前方に、羊毛を満載した荷馬車が、ゆっくりとやって来るのが見えている。かさばる羊毛を積めるだけ積んだ荷馬車は、今にも荷崩れを起こしそうに見えた。
言われてみれば不思議だ。
このド田舎の街に、どうして国中から若者が集まるのだろうか?
首をひねったアレンは、モナから鼻で笑われた。
「鈍いわねえ、アレンは」
「すみません」
「正解は、田舎だからこそ、都合がいいってことなのよ。これだけ広大な草原に囲まれていたら、アミテージ以外の場所で遊んだりはできないでしょ? 子供を遠方へ送り出す親としては、安心この上ないのよ。学問都市という街の性格上、アミテージには王都みたいに、怪しげな盛り場も、あまりないし」
「それでよく、モナさまは、あっさりアミテージ行きを承知なさいましたねぇ」
言ってしまってから、アレンは自分の口を慌てて手でふさいで赤くなった。
出してしまった言葉はひっこめようがない。姫さまと親しくなっても、立場の違いはつねに心得るようにと、いつもアストゥールさまから厳しく戒められているのに。
モナは、やれやれと、ななめ上を見た。
護衛騎士達のあいだでは、侯爵とシャフレ夫人が姫君の遊学の件で揉めた話は、愉快な酒の肴になっているらしい。
それはそれで、気楽でいいやと思っている。自分は深窓のお姫さまではないから、騎士達とは気安く話したいから。
でも、時々、騎士達は、モナが主の令嬢であることを思い出してしまうのだ。このうえ、使い走りの少年にまでかしこまられたら、息苦しくてたまらない。
「アレンったら、かしこまらなくていいって、何度も言ってるでしょ。私は嫁入り道具として経歴に箔を付けるために遊学へ行くつもりはないのよ。せっかく名だたる博士達が集まるアミテージへ行くのですもの。色々と勉強してくるつもりよ」
「すごいですね」
感心するアレンから視線をそらして、モナは遠方を見た。
地方から身ひとつで出てきて立身出世を夢見ているアレンには、モナの気持ちは分からないようだ。
しょせんヴィダリア侯爵家の娘の将来は、政略の中で決まる。理由に納得が行けば、モナは父親が勧める政略結婚にも応じるつもりでいた。ただ、将来どんな旦那さまを持っても、自分を見失うような事だけはしたくない。そのためにはどうしたらいいのか、自分なりに一生懸命考えたことは、周囲から、ぜんぜん理解されていないけれど。
――わたしってば、まだ子供で、夢みたいなことを考えているのかなあ……?
ばあやが「人に安らぎを与える能力は、絶対に女性の方が優れているのです」って言うのも、分かるのよね。
どうせなら尊敬できる素敵な殿方と結婚して、その方を助けてあげられるような立派な奥方様になれたらいいな……って憧れだって、わたしの心の中には、確かにあるし。
視線をもどすと、アレンは、まだにこにこ笑ってモナを見ていた。
茶色い団栗眼が、素朴な童顔の中で輝いている。
――将来を誓う人か……。
アレンには悪いけれど、少なくとも彼のようなタイプではないと思う。
自分はかなり面食いだと、モナは改めて認識しなおした。
さきほどの荷馬車が、目の前に迫っていた。
積み荷の羊毛は荷台の上に小高い山をなしており、車軸の揺れとともに、頂上が、ゆらゆら揺れている。
アストゥールが馬を寄せてきた。用心深い護衛隊長は、いつも見知らぬ旅人とのすれ違いの時、モナのそばにいる。
モナは荷馬車を見あげながら、アストゥールへ話しかけた。
「あんな細い綱だけで、大丈夫なの?」
「羊毛は嵩がありますが、意外と軽いんでしょうかね。この羊毛はラトズから船に積み替えられて、織物がさかんなラタトス地方に送られるのです。アミテージは、この草原で放牧されている羊から刈り取った羊毛の集積基地でもあるのですよ。早朝の早い時間には、もっとたくさんの荷馬車が街道を通るそうですよ」
実地教育のいい機会だと、雄弁に語っていたアストゥールの顔が、にわかに緊張した。
荷馬車の積み荷が、不自然に揺れている。
アストゥールが荷馬車とモナのあいだへ自分の馬を滑り込ませた瞬間、羊毛の山が、雪崩落ちた。
舞い上がる埃と綿毛の中で、馬がいななき、騎士達が怒鳴りあう。
そして、視界がいくらか回復したその時、荷馬車の荷台からあたりへ向けて、破裂音がいくつも響き渡った。
複数の悲鳴があがった。
馬が地面に崩れる地響きが轟く。
「アストゥール!」
モナの目の前で、大好きな剣術指南役が落馬した。
「アストゥール! アストゥール! アストゥール!」
落馬で背骨でも痛めたかと、モナは倒れたまま呻くアストゥールにむかって、必死で呼び掛けた。
呼ばれた騎士はよろめきながら立ち上がり、腰の剣を抜き放つ。
左の肩に、鮮血のシミが広がっていく。
銃の弾が当たったのだ。
体のよろめきを止めようと、彼は何度も大きく息を継いだ。
そして、力を振り絞り、剣のつかでモナの馬の尻を突く。
馬が前脚を跳ねあげ、飛び出していく。
傷の痛みに息を詰めつつ、騎士はにやりと笑った。
さすがは、わたしが乗馬を仕込んだ姫さまだ。難なく馬の急な動きに身をそわせ、疾風と同化する。
アレン少年の馬が、間髪入れずに姫君の後を追う。
なかなか見所のある少年ではないか。
お前は剣士としてはまだ半人前だが、姫さまの盾くらいにはなれるだろう。片時もおそばから離れるなという命令を、しっかり覚えていたらしい。
アレンの役目が姫様の盾ならば、わたしの役目は追っ手を叩き潰すこと。
まずは、相手の飛び道具を何とかしなければならない。
先込めの銃に弾をこめるためには時間が必要だ。だから銃は接近戦では、初動の一撃程度にしか使えない。
「距離をつめろ! 銃に弾をこめなおす時間を与えるな!」
命じるまでもなかった。アストゥールのまわりは、とっくに乱戦にもつれ込んだ状態だ。
残った部下達も優秀だった。自分が戦場で生き残るために駆使してきた知識と技術のすべてを、心血注いで仕込んだ連中なのだから。
あちこちから、金属が打ち合わされる激しい音がする。
あたりには血と硝煙の臭いが充満していった。