神よ、最後の願いです! … 5
文中に残酷表現があります。苦手な方はご注意ください。
「お怪我をなさったのですか、ローレリアンさま!
セリナ、早くきれいな水と、布をもっていらっしゃい!
もう医者は呼んだのですか!?
ああ、もう殿方は、なにをしておいでになるのです!
一刻も早く、殿下のお世話をしなければ!」
城塞都市のなかの土地は貴重だ。
大貴族のパヌラ公爵が所有する邸宅も、他の貴族の住まいと同じように、外装内装は立派でも、狭小な住まいだった。
その狭い玄関ホールに、甲高い声で大騒ぎする伯爵夫人が豪奢なドレスをひきずりながらおりてくると、その場に居合わせた人々は、息がつまりそうな感覚を覚えるのだ。
実際、息苦しくもあった。
伯爵夫人が身にまとった百花の香りは、むせかえりそうなほど、華やかであったので。
かの貴婦人は、いかにも「わたくしは心配しております」といった風情で、ローレリアンにしなだれかかった。
「ああ、殿下。このおびただしい血は、いったい……」
ローレリアンは、胸元にすがる貴婦人にむかって、静かに微笑みかけた。
「この血の理由を、知りたいですか?」
「事情は、もちろん知りたいと思いますが、それよりも」
「それよりも、なんです?
わたしといっしょにいた、ヴィダリア侯爵令嬢の安否でも、お知りになりたいか?」
「殿下?」
伯爵夫人の瞳に走った一瞬のおびえを見て、ローレリアンは確信した。
自分の疑いは、まちがいのない真実へ、たどりついていたのだと。
湧きあがる怒りをそのままこめて、ローレリアンは血まみれの手で、伯爵夫人の首をつかんだ。
緊張のために手は汗ばんでおり、新しい水分でぬめった血糊が、ぬるり、ぬらりと、伯爵夫人の首に模様を描く。
「で、……殿下!」
許せるはずがなかった。
この女は、一度ならず二度までも、ローレリアンの大切な存在を殺めようとしたのだ。
おそらくは、私利私欲のために。
「おはな……し、くだ…さ……」
しおらしくおびえるさまにも腹が立つ。
モナは、もっと恐ろしい思いをした。
死の淵を垣間見るまで追いつめられた。
親しい者達が、自分を守るために死んでしまい、彼女がどれだけ嘆き悲しんだか。
ローレリアンの指に力がこもる。
めりこんだ指は、伯爵夫人の喉を、いとも簡単につぶした。
「殿下、おやめください!」
「御勘気を、お静めくだされ!」
必死の形相の男たちがローレリアンに取りすがるが、この怒りが簡単におさまるわけがない。
わざと力を少しだけゆるめて、伯爵夫人の喉を、ひゅうひゅうと鳴らしてやる。
さぞや、苦しかろう。
だてにローレリアンは、医者の弟子を名乗っていたわけではない。
人間を生殺しにする加減は、よくわかっているのだ。
「ディセット伯爵夫人。ヴィダリア侯爵令嬢を襲った賊は、わたしの顔を見るなり、逃げ散ってしまいましたよ。
わたしは、ごらんの通り、見かけはひ弱そうな神学生です。
なんで賊は、令嬢をあと少しで殺せるところまで追いこんでおいて、逃げてしまったのですか?
賊が宰相派の手の者なら、令嬢といっしょに、わたしも殺してしまったはずです。
ひ弱な神学生が国境の街でひとり死んだからといって、なんの問題にもなりはしないでしょう?
それに、もし賊が、わたしの正体を知っていたのだとしたら、なおさら一緒に殺そうとしたはずです。
宰相派の者たちは、パヌラ公爵が自分達に対抗するべく動き出したことについて、とっくに気づいているはずなのですから。
つまり、ヴィダリア侯爵令嬢を襲った者達の黒幕は、わたしが誰かを知っており、この場で死んでもらっては、こまると思っている人間だ。
自分に嫌疑がかかっては、まずいですからね。
今の段階で、ローザニア王国の第二王子ローレリアンが、国境の学問都市で神学を学ぶ学生だと知っているのは、王子をかくし育てたパヌラ公爵家の者達だけです。
用心深い公爵は、王子を盟主として担ぎだす同盟の仲間であり、王子と婚姻による絆を結ぶために令嬢をさしだそうとなされていたヴィダリア侯爵にすら、まだその正体を明かしてはおられなかった」
ふたたび、ローレリアンの指に力がこもる。
「つまり、ヴィダリア侯爵令嬢を殺そうとした連中の黒幕は、あなたしか、ありえないのですよ」
「おゆ、……る…しを」
「宰相カルミゲン公爵と、どのような約束を交わされたのです?」
「で、……んか」
「金銭ですか? 地位ですか? それとも、両方ですか? 弱みを握られて、脅されておいでになるのか? あるいは」
事の真相を悟ったパヌラ公爵とヴィダリア侯爵は、すでにローレリアンのそばから離れていた。
近しい身内から裏切りを受けていたのだ。
王子の怒りも、もっともだと思わざるを得ない。
かわいい末娘を殺されかけたヴィダリア侯爵は、目の前の出来事を静観するかまえだ。しわの中の眼は、完全につぶられた状態で、無表情な顔からは何の感情も読み取れない。
じつの娘に裏切られていたパヌラ公爵のほうは、無念の思いで唇を噛んでいた。
パヌラ公爵は、夢見ていたのだ。
この秀麗な容姿と冴えわたる頭脳を持つ王子を、この王国の玉座にすえ、ローザニア王国の未来を盤石のものとする夢を。
その王の片腕として、国家の計を立てるのは、自分の役目であるはずだった。
しかし、その夢は、馬鹿な娘のためについえてしまった。
王子はけして、パヌラ公爵の失策を忘れはしないだろう。
ここぞという人選の場面で、王子は必ず、じつの娘の裏切りを未然に防げなかった、パヌラ公爵の失策を思い出す。
「ごふぅ!」
伯爵夫人の喉から、聞き苦しい音が出る。
いよいよ息がつまり、伯爵夫人の顔は青黒く変色していった。
パヌラ公爵は、固く目をつぶり、うなだれた。
娘が犯した罪へ、王子が下そうとしているのは天誅に等しい罰。
父親の情で、命乞いはできなかった。
ここで娘の命乞いをすれば、パヌラ公爵の政治生命は断たれてしまう。
必ず、この苛烈な気性を持った王子は、おのれの本懐を遂げるだろうから。
一同は、しんと静まり返った。
その静寂を破って、王子の腕をつかんだ者がいる。
「どうか、殿下。お怒りを、お静めください。
殿下がおんみずから、事件の主犯者に手をくだされたとお知りになられたら、モナさまは、きっと悲しまれます」
ヴィダリア侯爵の懐刀、令嬢を心から愛するアストゥール・ハウエル卿は、ローレリアンの腕をやんわりとなでた。
一つだけ残った茶色の瞳が、じっとローレリアンを見つめている。
次第に、ローレリアンの指の力はゆるみ、意識を失っていたディセット伯爵夫人の体は床に崩れ落ちた。
隻眼の騎士は言う。
「どうか、殿下。この地で長く学ばれたことを、無駄になされますな。
わたくしはモナさまから、金髪の神学生さんが、どんなに素晴らしい方かと聞かされるたびに、嬉しくてなりませんでした。
そのような方に恋をする女性にお育ちになられた、モナさまが誇らしくて。
神々のあらせられる天と地を愛し、人々の営みとともにあろうと望み、そのためになすべきことを求められてきた神学生。
それが、あなた様ではありませんか」
ローレリアンは静かに息をついだ。
激情はしだいにおさまり、苦い後悔が胸を焼く。
アストゥールが言うとおりだ。
自分はもう少しで、感情のままに人を殺してしまうところだった。
きびすをかえし、外へ通じる扉へむかう。
思わず、パヌラ公爵はローレリアンの背中へ問いかけた。
「殿下、どちらへ」
ふりむかずに、ローレリアンは答えた。
「ノーザンティアへ、母を迎えに行く。
パヌラ公爵、ヴィダリア侯爵。
お二方とは、また王都でお目にかかりたい。
そのときに、二者択一のうち、どちらを選んだのか教えてください」
ドアが開き、淡い金の髪が、晩夏の日の光を受けて輝いた。
その光が、まるで王冠のように見えたもので、パヌラ公爵は何度も目をしばたいた。
かたわらではヴィダリア侯爵が、肩を震わせて笑っている。
「ほっ、ほっ、ほ!
これはどうしたものか、アストゥール。
ひょっとしたら我が娘は、近い将来、ローザニアの国母になるやもしれぬ」
アストゥールは苦笑をもらした。
「そう簡単に、まいりますかな。
王子殿下は、モナさまを遠ざけようとなされておいでではありませんか。
縁談も、こばまれた。
傲慢な交換条件などひっこめろと、たいそうお怒りでしたよ」
その気持ち、わからないでもないと、思うアストゥールである。
誠実な男なら、真実相手を好きになれば、その人には誰よりも幸せになってもらいたいと願うはず。
アストゥールも、そう願ったから、ヴィダリア侯爵家に長く仕えてきたのだ。
老獪な政治家である侯爵は、アストゥールの主張を無視して、ひょうひょうと言った。
「さてさて、アストゥールよ」
「は!」
「二者択一の、答えだがのう。
わしは、わしの残り少ない人生をかけて、あの王子に仕えてみようかと思うておる。
この老いぼれにも、国の将来を憂える気概くらいは、まだあるのでな」
「さようで」
「だから、そなたは王子についてまいれ」
「はい」
「命に代えても、王子をお守りせよ」
「もとより、ローレリアン殿下は、わたくしの命の恩人。受けた御恩は、必ずやお返しする所存」
頭を下げるアストゥールにむかって、ひらひらと、ヴィダリア侯爵の手がふられた。
「はよう行け。殿下を見失うぞ」
「では、しばし御免」
「しばしなどと言うな。帰ってこずともよいぞ。
そなたには、そなたにふさわしい道もあろう。そなたは、わしとちごうて、これからまだまだ、ひと花も、ふた花も、咲かせられる歳じゃ。こんな老いぼれに、義理立てするでない。
そなたが愛した我妻は、もう15年も前に、黄泉路へ旅立ったのだからな」
無言で深く腰を折り、そのまま身をひるがえしたアストゥールは、風がそよぐ午後の街へと出ていった。
晴天の夏日の日差しは、まばゆいばかりだった。
いきなり自分の前に開けた、新しい世界を実感する。
アストゥールは何度となく、強い身震いに襲われたのだった。