神よ、最後の願いです! … 1
翌日、下町にむかって歩くモナは、いつになく陽気だった。
けれど、少し様子がおかしくもある。
とりとめもなく従者のアレンに話しかけていたかと思うと、急に黙って足元を見ながら考えこんだりする。
黙りこんだときの彼女の横顔は、アレンが今まで見たこともない綺麗な横顔だった。
モナの顔は下町通いですっかり日焼けしていて、シャフレ夫人を嘆かせるくらいに、ソバカスが増えてしまっている。だが、それをさっぴいても、彼女は綺麗なのだ。
内側からほとばしる輝くような生気が、見る者を感動させる力となっている。
花は、自分が花開くのに、ふさわしい時が巡ってきたときに咲くのである。
まるで、いっせいに泡立つ花を梢に抱えるマイカの大木のように、今のモナは生命力にあふれている。
こうなったのは、やっぱりローレリアンのせいなのだろうなと思うと、アレンは少し切なかった。
そば仕えは、やっぱり辛い。
見たくないものまで見てしまう。
泣いている男を抱きしめて慰めているモナさまなんか、俺は見たくなかったのに……。
長いため息をはきながら、アレンの前を歩くモナは、昨日のできごとを思い返していた。
恋のはじまりは、ローレリアンのもつミステリアスな雰囲気や、自分にはない美しい容姿への憧れだった。
けれど、深く知ればローレリアンは聡明で志も高く、今までモナが知り得なかった世界への、素晴らしい導き手だった。
そして、彼は身の内に、抱えきれない淋しさをかくしている。
あの淋しさを、少しでも癒してあげられたなら……。
「ローレリアンは、いつ神官に任官されるのかしら?」
まただ――と、アレンは呆れた。
さんざん黙りこんだあと、とうとつにモナさまがしゃべりだすのは、これで何度目だ?
しかも話の内容に、さっきまでの会話との脈絡は、まったくないのだ。
「さあ……? ローレリアンさんは19才でしょう? 神学生としても優秀な方らしいし、ふさわしい任地にポストが空けば、すぐにでもということになるかもしれませんね」
「そうよね」
アレンは心配になる。
「モナさま。よけいなお世話かもしれませんけど、ローレリアンさんとは、いつかはお別れするんだってこと、ちゃんと頭の隅においといて下さいよ?」
モナは地面を蹴りながら答えた。
「うん。わかってるわよ」
そういいつつ、本当は、わかりたくなんかなかった。
わたしは、いつまでだって、ローレリアンを抱きしめていたかったのに。
あの人を慰めてあげるためには、きっと、もっと沢山、抱きしめてあげないといけない。
あなたは独りではないと伝える方法は、それしかないような気がする。
男の人の身体は、大きかった。
抱きしめたときの感触は、父やアストゥールに同じことをしたときと、まったくちがった。
泣いているローレリアンを抱きしめて慰めていると、不思議と自分も満たされた。
あんな気持ちは、初めてだった。
また黙りこんだモナの横顔を盗み見たあと、アレンはあたりをぐるりと見まわした。
下町の混み入った路地に入る前には、必ずこうやって、不審な者が周囲にいないかを確かめる。もうこれは、立派な習慣だ。複雑に入り組んだ迷路のような町並みのなかでは、つけてくる者がいても分からない。物かげから銃で狙撃される可能性だって、否定できないし。
20モーブほど後ろには、いつものように、カールス伯爵の私兵が三人ついてきている。
アレンは彼らの様子を見て眉をひそめた。
当初、ヴィダリア侯爵の令嬢にもしもの事があれば、自分達の主人にも累がおよぶと、彼らは緊張感をみなぎらせていたのだ。
だが、平穏無事な毎日が一ヵ月以上つづいて、彼らの規律も乱れはじめている。大の男が15の小娘を護衛するために貧乏人の街へ通うなど、退屈で面白くないと思われるのも、しかたがないような気もするが。
それにしても、今日の連中は情けない様子だ。
昨夜、深酒して商売女とすごしたことを、彼らは、たかが見習いと見くびっているアレンに対して、かくそうともしなかった。
それどころか、おまえはもう女を知っているのかと、でかける前に、さんざんからかわれた。明らかに、まだ昨夜の酒が抜けていないのだ。
腹が立つ。
頭をおさえてお天道さまを見上げたりしているところを見ると、やつら、酔いが醒めてきて、二日酔いの症状でも出てきたのだろう。アストゥール卿なら、部下のこんな醜態は許さないだろうに。
いつもの道をたどっていくと、道はどんどん複雑に折れ曲がり、細くなっていく。
最も貧しい人間が住んでいる地区では、建物にはすべて必要に応じて、勝手な建て増しがなされている。
下町の道は、建物と建物のあいだに、いつのまにか自然発生的にできるものなのだ。町並みに秩序というものは、いっさい存在しない。
頭の上には、道の幅と同じ細長い青空が見えている。
突然、視界が開けて、小さな広場に出る。
広場の中央には共同井戸があって、近所の女将さん達が野菜を洗ったり、洗濯をしたりしていた。
「こんにちは」
モナが挨拶をすると、女将さん達も元気に返事をしてくれる。
貧しくても慎ましく生きている女将さん達は、初めは胡散臭がっていたものの、モナが金で横面を張るような貴族の女ではないと知ると、すぐに受け入れてくれた。
女将さん達も、親を失った子供達の将来については、憂えていたのだ。何かをしてやるすべは、貧しい彼女達には、何もなかったのだけれど。
「やあ」と、子供達の中から、ローレリアンが声をあげた。
彼が膝に乗せた篭の中には、マイカの朱色の実がいっぱい入っている。
「姉ちゃん、見て! 俺達、朝から木に登って、こんなに採ったんだ!」
ラッティが自慢げに、大きな木の実の房をもちあげて笑った。まだ切れた唇のはしが腫れているのが痛々しい。
「もう大丈夫なの?」
「平気。殴られるのなんか、なれてる」
ラッティが平然としているのが悲しかった。殴られることに、なれてしまうなんて。
でも、この子達に必要なのは同情じゃない。信頼とか、励ましとか、もっと大切なものが沢山あるはず。
モナは明るく答えた。
「あんた達、人様の家の木には登ってないでしょうね!」
ローレリアンが、くすくす笑い返す。モナの明るさは、何にもかえがたい神々の恵みだ。
「大丈夫。木登りには、わたしも、ついていったから。登ったのは街路樹だけだよ」
ラッティがモナにじゃれつく。
「これから実を掃除して、糖蜜屋へ売りに行くんだ」
「よかったわねー」
子供達は嬉しがって、次々にさえずりながらモナの手やスカートにふれていった。
心を通じさせるために、特別な事をする必要は何もなかった。
ふれるだけでも、いっしょに笑うだけでも、心は通いあう。
モナも篭のまわりの車座に割りこんだ。
木の実を房から外して、汚れを拭き取る。
ローレリアンと並んですわっていると、昨日の体の距離を思い出してしまう。おたがいの体の温もりを、確かめあった心地よさも。
―― このまま、時が止まってしまえばいいのに!
「モナ」
「なあに?」
話しかけられても、何となく恥ずかしくて、モナはうつむいて、手を動かしつづけた。
摘みたての朱色の実は固くしまっており、指で汚れをこそげてやると、宝石のように光る。
手のなかの実を、綺麗だと、ローレリアンに見せてみようか。
なんと答えてくれるだろう。
モナがそう思ったとき、ローレリアンのほうから、もう一度、話しかけてきた。
「じつは、もう明日から、ここへは来られないんだ」
モナの息は止まった。
今度は恐怖で顔があげられない。
いったい、どういう顔で、ローレリアンを見ればいい?
「任官が……、決まったの?」
「そう」
嘘を読み取られたくなくて、ローレリアンは目を伏せていた。
彼は、このあとすぐにでも、アミテージから出ていくつもりなのだ。一晩考えて出した結論は、自分さえ消えてしまえば、モナの身の安全は確保できるというものだった。
この国の王子として中央政界へ打って出て、国を動かす立場に立ちたいという誘惑に駆られることはなかった――、とは言い切れない。
勉学に励みながら、人を動かし、物を動かし、世界を変えたいと願っていたのは、確かに自分だ。
けれど、ローレリアンは、正嫡の王子ではない。
寵妃の腹から生まれた子供が、正嫡の王太子を排して王位を得ようとすることは簒奪になる。
世間から暗愚だと噂されている異母兄の王太子を傀儡の王にすえて、背後から政治をあやつるという方法もあるが、どちらの道を選ぶにしても、ローレリアンの前にある道は茨の道にまちがいなかった。
しかも、パヌラ公爵は、ローレリアンを派閥の領袖に迎え入れる絶対の条件として、盟友の令嬢との婚姻を要求している。表向きは王の庶子であるローレリアンに妻の実家の後ろ盾を与えるためとなっているが、裏の真意は、いかなる時も我々を裏切るなという意味なのだ。あなたと我々は、一蓮托生だと。
モナのことは、愛している。
とても大切な人だ。
だからこそ、彼女を自分の業に巻きこむことはできなかった。
いま、ローレリアンは、おのれの弱さに苦笑している。
街から出ていく支度を整えながら、どうしても、もう一度だけモナに会いたい気持ちが押さえられなかったのだ。今日で最後だと、決めてはいたが。
たがいのあいだに、空虚な会話がつづく。
「おめでとう、ローレリアン」
「ありがとう」
「任地は何処なの?」
「遠いよ」
「そう……」
突然、モナの指に冷たいものがかかった。
うわの空で、しゃべりながら作業をしていたものだから、研いていたマイカの実をつぶしてしまったのだ。鮮やかな赤い果汁が、手からスカートの上にしたたっていく。
「いやだ! この汁、服についたら洗っても落ちないのよね。わたし、前かけを取ってくる」
モナは逃げるようにして、子供達の掘っ立て小屋へ駆けこもうとした。
物陰で、泣いてしまいたかった。
けれど、願いはかなわなかった。
掘っ立て小屋の陰から、待ち伏せの暴漢が躍り出たのだ!
「モナさま!」
アレンは剣を抜き放ち、モナに振り下ろされた白刃を辛うじて受けとめた。
よろめいたモナに、次の剣が襲いかかる。
防ぎきれないとアレンが心臓を凍らせた瞬間、モナのスカートが跳ねあがった。
なかにかくし持った細身の長剣が、鞘ごとモナの手につかまれ、相手の剣を受けとめる。
身をよじる間合いで、剣が抜き放たれる。
鋭い刃なりの音がした。
「護衛はどうしたの?!」
冷静で鋭利な声音は、国境守備隊の兵士達を畏怖で従わせた女神の声。
「出遅れたようです!」
アレンは走りながら叫ぶ。
相手は五人もいる。
一瞬でも動きを止めたら、息をつく暇もなくくりだされてくる切っ先の餌食になってしまう。
目の端で広場の向こう側から走ってくる護衛の姿を認めて、モナは舌打ちした。
反応が遅すぎる!
アレンがわめく。
「逃げてください!」
「できたら、とっくにやってるわよ!」
「ここは俺が、くい止めますから!」
モナは激して、アレンを叱りつけた。
「馬鹿言うんじゃない!
五対一で、どうにかなるなんて、アストゥールだって考えやしないわよ!
戦いに、もしかしたらなんてないのっ!
あんた、能天気に剣豪伝説なんか、信じてるんじゃないでしょうね!」
モナは必死で考えた。
自分だって、まだ死にたくない。
逃げるチャンスは一度だけ。
ぼんくら護衛が暴漢に追いつく瞬間だ!
ほら、来た!
二日酔いの騎士達の三本の刃が、戦列に飛びこんでくる。
背後を守らなければならなくなった暴漢の手がひるんだすきに、モナとアレンは駆け出した。